2013年1月31日木曜日

葉室麟『冬姫』


 昨日から、ほんの少し寒さが和らいでいる。もちろん、ここ数日だけの話ではあるだろうが、ありがたく感じる。

 織田信長の次女(といわれ)、戦国武将の一人であった蒲生氏郷の正室であった「冬姫」の姿を描いた葉室麟『冬姫』(2011年 集英社)を、作者にしては珍しくあっさり書いた作品だと思いながら読んだ。戦国期の入り組んだ人間関係の歴史が追われるので、本来なら大作になるところをこれだけにまとめるために、作者の美しい文章が影を潜めたのかな、とも思う。

 「冬姫」は、出生や幼少期のことがほとんどわからず、彼女の生母についてもわからないが、織田信長の次女である。しかし、本書では、織田信長と正室であった濃姫(帰蝶 きちょう)の間に唯一生まれた娘とされている。そうだとすれば長女になる。いずれにしろ、信長の娘であったことに変わりはない。

織田信長の正室であった(信長もたくさんの側室をもった)「濃姫」は、美濃の斎藤道三の娘で、この女性についても歴史資料が少なく諸説がある。ただ、信長と「濃姫」の結婚は、もちろん政略結婚だが、信長が「濃姫」を大切にしたのは事実だろう。功罪を明確にしたために鬼神のように恐れられた織田信長だが、彼は、女性には比較的優しい人物だっただろうと思う。秀吉が信長の家臣として活躍していた頃に浮気をしたことを秀吉の妻「ねね(本書ではおね、そうとも呼ばれていた可能性がある)」が信長に訴え、信長が「ねね」の味方をして秀吉を叱ったという記録がある(このあたりも本書で取り込まれている)。

 「冬姫」について歴史的にはっきりわかっていることは、彼女が信長の子として近江の蒲生氏郷の正室であったということで、氏郷の父親の蒲生賢秀は近江国蒲生郡日野(中野)城主として、当時、近江南部を支配していた六角氏に仕えていたが、信長が足利義昭を将軍として伴って上洛した際に、信長の軍門に下り、その証しの人質として息子の氏郷(幼名鶴千代、後に忠三郎賦秀 ますひで)を差し出し、信長は氏郷の人物と才能を見抜いて娘の「冬姫」を嫁がせたのである。この時、氏郷(鶴千代)14歳、「冬姫」12歳であった。

 本書では、このあたりで、信長の後継者を狙う側室の「お鍋の方」の陰湿な「冬姫殺害計画」を展開し、「冬姫」の凛とした対応や彼女を慕う「もず」(男であるが女として生きる性同一性者の忍)や巨体で剛力の鯰江又蔵という人物(もちろん、これらは作者の創作だろう)の助けで「お鍋の方」の策略をくだいたり、徳川家康の長男であった徳川信康に嫁いだ姉の「五徳」を巡る家康の正室「築山殿(瀬名)」の確執を打ち砕いたりして、いわゆる「女の戦い(女いくさ)」を展開し、「冬姫」の真っ直ぐで毅然とした姿を描き出している。

 ただ、ここで幻や夢、あるいは幻惑や忍びの術といった、いわばエンターテイメント性をもったことが神秘性を描くものとして取り入れられているが、別の角度から、作者の他の作品で描かれたような、むしろ信頼の中で希望を失わずに忍耐していく姿や真直ぐに凛として生きる「冬姫」の姿が、人間を掘り下げたものとして描かれても良かったような気がする。

 ともあれ、蒲生氏郷は武勇にも優れて、数々の戦で功を挙げており、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で死去した時には、信長の妻子を保護して、明智光秀に対抗した。近江近郊の豪族たちの大半は明智光秀になびき、蒲生氏郷にも光秀からの誘いがくるが、氏郷はこれをきっぱり拒絶した。この時点で、天下の動向は不明で、蒲生氏郷は孤立の恐れもあったのだから、この拒絶は命懸けでもあったのである。

このあたりのことを、作者は、「いかにも、この城に冬殿がおられる限り、明智に降ることはありませぬ」と微笑を浮かべて言い切った(199ページ)と描く。信長の娘である「冬姫」のために、その父である信長を殺した光秀には与しないと言うのである。

こういう、愛する者のために孤立を恐れずに自分の道を進んでいく姿は、葉室麟が諸作品の中で最も描きたい姿でもあるだろう。蒲生氏郷という人は、おそらく実際、そうした武将の一人で、やがて彼の日野城は明智軍の大軍に取り囲まれるが、彼はびくともしなかったのである。幸い、光秀が直接に日野城を責める前に、秀吉が毛利攻めから疾風怒濤の勢いで取って返して、光秀は秀吉と戦わざるを得なくなったために、日野城が戦火に包まれることはなかった。そして、氏郷は、その後、秀吉に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ケ島12万石を与えている。氏郷はこの伊勢松ケ島をよく整えたと言われる。

また、彼は、高山右近らの影響でキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名であった。家臣や諸大名の人望は厚かったと言われるし、また、茶道にも造詣が深く、「利休七哲」の筆頭でもあった。

 キリシタンとの関連で言えば、本書では、信長の安土城が焼け落ちた謎や細川ガラシャ(玉子)と「冬姫」の邂逅として描き出しており、「冬姫」は、秀吉がキリシタン禁止令を出す中で、父の信長がキリスト教を庇護したように、夫の氏郷がキリシタンとなったことを認めていく決意をしたというふうに描いている。細川忠興の妻であった細川ガラシャは明智光秀の娘であり、「冬姫」にとっては父の敵の娘なのであるが、「恨みで報いられることは何一つない」ということに徹し、「冬姫」はガラシャ夫人が抱いていた悲しみに共感していくのである。このことが、実は本書の主題だろうと思っているが、それについては後述する。

 氏郷と「冬姫」の夫婦仲はよく、二人は深い信頼で結ばれていたと言われ、天正11年(1583年)に「秀行」が生まれている。やがて、氏郷は秀吉の小田原城攻めに参戦し、奥州の要として会津42万石(後に92万石)を与えられて、会津に移った。ちなみに、会津若松の「若松」という名は、蒲生氏郷がつけた名前で、彼はここに若松城を築いて城下を整備したのである。この間に「冬姫」は、後に前田利政の側室となる娘や次男の氏俊を生んでいる。

 会津若松で氏郷が「冬姫」とともに天守閣から城下を眺めながら、「わしはキリシタンゆえ、領主が自ら正しき道を歩めば、国はおのずから栄えるものであることを神の教えによって学んだ。ひとを怨まず、憎まず、互を思い遣って生きていける国をこの地に築きたいのだ」と言うくだりが記されているが(318ページ)、これはもちろん、作者の創作であろうが、尊敬に値する人間としての蒲生氏郷とそれに寄り添い夫を助ける「冬姫」の姿が直截に描き出されているのである。

 秀吉は、信長が認めた蒲生氏郷を恐れていたとも言われているが、秀吉が起こした朝鮮出兵の「文禄の役(壬辰倭乱)」の時、この戦に参戦するために肥前名護屋にいた蒲生氏郷は体調を崩し、文禄4年(1595年)大腸癌(直腸癌か膵臓癌)で死去した。享年40の若さであった。この蒲生氏郷の死には、秀吉か石田三成による毒殺説もある。

 氏郷は、いわば信長の娘婿であり、主筋に当たるので、秀吉にとっては煙たい存在であったことに変わりはなく、権力集中を図る秀吉にとっては織田家の影響を一掃するのが大きな課題であったことは間違いない。

 作者は、秀吉の朝鮮出兵を諌めた氏郷を秀吉も快く思っていなかったし、何よりも「淀(茶々 お市の娘)」が、「冬姫」と蒲生家への激しい嫉妬によって、石田三成を使って氏郷へ度々毒をもった出来事であったとしている。「淀」は伊達政宗を使って蒲生氏郷を罠にはめようとしたという展開までする。「淀」は、織田信長の妹で絶世の美女であった「お市」の娘であったが、父を殺され、母を殺され、意に沿わぬ秀吉の愛妾となり、気位の高さだけが生きがいのような女性で、「怨みの生涯」であったとも言えるからである。

 彼女は血筋の上からではとうていかなわない「冬姫」に対して敵愾心を抱き続けており、氏郷亡き後の蒲生家に対しても、陰湿な仕打ちをしている。そのために氏郷の後を秀行(この時点での名は秀隆)が継ぐときも嫌がらせをし、また、その後も石田三成を使って領地を召し上げ下野国宇都宮12万石に転封させている。そして、さらに「冬姫」の蒲生家を取り潰そうと画策している。

 この大幅な減封には、「冬姫」の美貌と信長の娘であるということで、まだ34歳だった「冬姫」を美女好きの秀吉が側室にしようとしたが、「冬姫」にきっぱりと拒絶され、秀吉がそれに激怒したためであるとの説もある。秀吉は若い頃から信長の妹で美女の「お市」に思慕を寄せており、「お市」の娘の「淀」を側室にしたのもそのためだったと言われるが、「冬姫」に対しても異様な執着心をもっていた。

 その説が事実かどうかは別にして、蒲生家の減封を実際に巧みに工作したのは石田三成であることは事実であろう。蒲生家の勢力を削減することを彼のような人間は考えるものである。

 しかし、秀行は豊臣秀吉の命によって徳川家康の娘「振姫」を妻とし、そのことと、「淀」と石田三成の仕掛けた罠との戦いのために、家康と盟を結び、それが関ヶ原後の蒲生家の命運につながった。蒲生家は関が原後、60万石の大大名として会津に復帰した。だが、秀行は30歳の若さで亡くなり、その後を継いだその子の忠郷や忠知(忠郷の弟)も若くして亡くなり、嗣子がなかったために寛永11年(1634年)に廃絶された。「冬姫」はこの行末を見届け、寛永18年(1641年)、81歳で亡くなった。

 本書は、「織田信長の娘として戦国の世を彩どって生きた、紅い流星のような生涯だった」と結ぶ(357ページ)。

 本書は、「冬姫」の「女いくさ」が、数々の恨みや妬みで生きる者と真っ直ぐに生きる者との戦いであったことを語るものである。恨みや妬み、あるいは私欲が嵐のように吹きすさぶ戦国の世で、ただ前をまっすぐに見て、愛する者を愛し、大切にする者を大切にして生きた女性として「冬姫」を描くのである。慶長3年(1598年)の醍醐寺での花見の席での「淀」と「冬姫」の対峙を描いたくだりは圧巻で、本書の主題をよく表している。

 あまり知られていない織田信長の娘で、蒲生氏郷の妻であった「冬姫」という存在に焦点をあてる作者の眼力もさることながら、それを「女いくさ」としてまとめるあたりも慧眼に値すると言えるだろう。わたしとしては、神秘性などなくてもよくて、もう少しまっすぐ描いてもよいのではないかと思うところもあるが、描かれた姿には感動する。

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