冬晴れの寒い日になっている。14日(月)に降った雪が、今日になってもまだ解けないで道路のあちらこちらに残っている。日中の気温がそれほど上がらないということである。北アフリカのアルジェリアの天然ガス関連施設で、日本人を含む外国人が多数拘束され、昨日(17日)、アルジェリア軍が救出作戦で突入し、多数の死傷者が出た。犯行を起こしたのはアルジェリア内のイスラム武装組織と言われ、彼らは国際テロ組織のアルカイダと繋がって、隣国のマリに対するフランス軍の介入の即時停止を要求していたと言われる。拘束して人質に取るという卑劣な行為は、金銭も絡んでいることが多いので、彼らの主張は、単に政治的なことだけではないだろう。
こういう事件が起こると、2001年に起こった「9,11米国同時多発テロ」の場合もそうだったが、どうしても「防衛」という意識を強める傾向になる。北朝鮮の弾道ミサイル実験や竹島や尖閣諸島などの領土の主張などに取り囲まれている日本の状況もあって、「防衛」ということが正義の装いをもって主張されたりする。しかし、戦争は双方の防衛意識の衝突なのである。国際社会のリーダーたちに、今は「知恵ある者」が少なくなっているので、こういう傾向を危惧している。
閑話休題。海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版2007年 講談社文庫)は、「島津騒動」の後に「伊達騒動」を取り上げる。この「伊達騒動」は、関係者が死滅したり、文書が秘匿されたりしたために真相が今ひとつ解明されていないのであるが、簡単に言えば、江戸時代前期の仙台藩で起こった勢力争いのようなものである。江戸時代の「三大お家騒動」と呼ばれるのは、この「伊達騒動」(1660年)、福岡藩で1633年に起こった「黒田騒動」と金沢の前田家で起こった「加賀騒動」(1748年)であるが、「伊達騒動」ほど意味のない騒動はないかもしれないと思っている。
「伊達騒動」の概略を記せば、この騒動の発端は、伊達政宗の孫に当たる伊達綱宗(1640-1711年)が若干19歳で3代目藩主を継いだことに始まる。綱宗は気質は剛毅闊達であると同時に、風流人で、画は狩野探幽に学び、和歌や書、蒔絵などにも優れた作品を残しているが、酒乱の性癖があったと言われている。彼の母は父忠宗の側室「貝姫」で、母の姉が宮中に入って後水尾天皇の側室となり、その子が後西天皇になったために、彼は天皇の従兄弟にあたり、後水尾天皇の時代には公家諸法度などを巡って江戸幕府と朝廷との間の確執が最も高くなった時で、江戸幕府は、大藩である仙台藩の藩主となった伊達綱宗に警戒する気持ちがあっただろうと察される。山本周五郎の名著『樅ノ木は残った』では、このあたりのことが斟酌されて記されているが、海音寺潮五郎はこのあたりのことは触れない。「伊達騒動」を幕府と朝廷の争いの枠の中に置くには、これがあまりにも人間欲が絡みすぎているからだろうと思う。
おそらく、綱宗は藩主となったが、その剛毅闊達な気質や酒乱が過ぎたために藩内では孤立した存在であったかもしれない。仙台藩は絶えず江戸幕府に気を遣っており、その中で朝廷の血筋である綱宗は表立って支持されなかったし、加えて、2代目藩主であった父忠宗の正室(振姫-姫路藩主池田輝政の娘で、母が家康の次女だから家康の孫に当たり、2代将軍徳川秀忠の養女となって伊達忠宗に嫁いだ)の子で、世子として期待されていた伊達光宗が19歳で早世した(1645年に死去)ことからやむを得ずに彼を藩主としたということもあり、藩内における彼の孤立は癒し難いものがあったのではないかと察される。そのことがまた彼をいっそうの酒乱に向かわせ、それで藩内の人望をさらに失うという悪循環を作り出したのではないかと思う。綱宗は仙台藩の重臣たちに嫌われて、補佐を受けることがあまりなかったのではないかと海音寺潮五郎は指摘する。
勢い藩政の責任を負う重臣たちは、綱宗が若年だったこともあり、英邁と言われていた綱宗の叔父の伊達兵部宗勝(1621-1679年)を頼りにするようになる。伊達兵部宗勝は伊達政宗の十男で、政宗55歳の時の子であるから政宗から寵愛され、兄の2代目藩主忠宗とも仲がよく、特に一万石を分け与えられて支藩である一関藩を別に立てていた。忠宗は自分の長女(柳川藩立花左近忠茂の妻)の妹を宗勝の嫁にもらったりしているし、宗勝はまた自分の子どもの性質に幕府老中酒井忠清の養女をもらうなどして、江戸幕府との繋がりも強めたりしている。
こういう伊達兵部宗勝を仙台藩の重臣たちが綱宗の後見人のようにしていたことは事実で、このころから既に宗勝は仙台藩の実力者だったのである。
綱宗が藩主となった翌年(万治2年-1659年)に仙台藩は江戸幕府から小石川掘の大普請工事(神田川普請工事)を命じられ(江戸幕府は代替わりをした大名にこうした普請工事を命じた)、これは人足六千人以上を動員する大工事で、綱宗は毎日のように普請工事現場に出かけた。そして、近習の者にそそのかされて(と言われているが真相は不明)吉原通いを始めるのである。彼の吉原通いはかなり頻繁で、かなり目立ち、江戸市中の噂にもなったという(噂になったかどうかの真相は不明だが、江戸家老が何度もそれを諌め、夜中に彼を連れ戻しに行ったという記録はある)。
彼が吉原で通いつめた相手は、一説では三浦屋という店の高尾という遊女であったと言われるが、高尾という源氏名は歴代継承されてきた名前で、この頃に高尾を名乗る女性はおらず、湯女出身の勝山という説もあり、山本屋という店の「薫(かおる)」という説もある。しかしいずれにしても、綱宗が吉原に通い、酒色に溺れたことは事実で、好意的に見れば、その頃の吉原の女性は、遊女とは言え一流の教養人で、その教養もかなり高く、孤独を噛み締めなければならなかった綱宗が自分の風流を唯一理解してくれる女性に深い慰めを見出したのではないかと思う。
綱宗の吉原通いはかなり目立ち、彼の姉の夫である柳川藩主の立花忠茂が、老中酒井忠清が綱宗の行状を改めるように意見しり、後見人のような立場にあった伊達兵部宗勝と立花忠茂を呼んで不快感を表したという手紙を藩の重臣たちに出している。しかし、綱宗の吉原通いは止むことがなかった。
通説では、このことで、伊達兵部宗勝が息子の嫁の養父である老中酒井忠清と図って、事柄を大げさにして、綱宗を隠居させて、自分の子である宗興を仙台藩の相続者にするためだったと言われるが、海音寺潮五郎はそこに疑義を挟み、藩内で既に綱宗排斥の動きがあったのではないかと見ている。
ともあれ、綱宗の吉原通いは江戸幕府老中が知るところとなり、行状不行き届きで藩主として不適格とみなされて改易された大名もあることから、綱宗は、藩主となってわずか2年で隠居させられる。この時、彼はまだ21歳である。その後彼は、作刀や芸術にいっそう傾倒して72歳で死去した。彼は品川の大井にあった屋敷から一歩も外に出ることを許されなかったのである。
綱宗の後を継いだのは、その子の綱村(幼名亀千代丸)だったが、このとき綱村はまだ2歳で、江戸幕府は伊達兵部宗勝を加増し正式な後見人とし、宗勝と共に後見人的立場あった田村宗良(伊達忠宗の三男)も加増して後見人とするよう命じた。こうして正式な後見人となった伊達兵部宗勝が藩政の全体を掌握するようになり、やがてこれが「寛文事件」と呼ばれる「伊達騒動」に繋がっていくのである。この事件の解釈もいろいろあるので、この事件については次に記すことにする。
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