2013年2月4日月曜日

風野真知雄『痩せ神さま 大江戸落語百景2』


 如月の声を聞き、昨日は節分で、季節の分かれ目だった。この2~3日は春を思わせる天気が続いたが、水曜日は雪の予報も出ているし、春はまだ遠くにいる。こういう季節は、人がどこか精神のバランスを失いやすいのだが、本来的に脳天気であることが一番いいと思ったりする。春風駘蕩が一番平和である。

 そんな中で、風野真知雄『痩せ神さま 大江戸落語百景2』(2012年 朝日新聞出版)を気楽に読んだ。これはシリーズ名にあるとおり、落語を題材にして一話形式でまとめたものである。

 「落語」は、文字通り「落とし噺」で、最後の「落とし(オチ)」が機知に富んだものほど滑稽感があり、その機知も世の中や人間の真実を突いているものほど妙味がある。「落語」は、本来、「話芸」であるから、語り口調や間の取り方に絶妙さがあるのだが、これを文字として読むための工夫が本書ではいくつかされていたりする。

 まだ学生の頃、五代目柳家小さんが好きで、新宿の末廣亭によく通ったことがある。言葉の間の取り方が絶妙で、名人芸だった。後に永谷園の「お茶漬け海苔」のテレビコマーシャルにでられたとき、そのコマーシャルが放映されるのを楽しみにしていたりした。

 表題となっている「痩せ神さま」は、本書の「第一席(寄席と同じようにそう記されている)」に収められている作品で、太った大店の女将さん二人が、なんとか痩せたいと思って評判の「痩せ神さま」を拝む話で、「痩せ神さま」が、実は貧乏神で、一人は商売が傾いて痩せ、もう一人のたまご屋の女将は、同じように商売が傾くのだが売れ残った玉子や鶏肉を食べ過ぎて、反対にぶくぶくと太ってしまうという話である。

 この話の「オチ」は今ひとつのところがあるような気がしたが、第二席の「質入れ」は見事な「オチ」が仕掛けられている。

 話の筋は、堂城幸四郎(どうしろこうしろ)という売れない戯作者が、貧がつまってどうにもならなくなり、自分の女房を質入れするというものである。彼の女房は、羽子板の裏絵かきの仕事をして糊口をしのいでいたが、彼がその羽子板の親方を猫に仕立てて戯作を書いたことがばれ、親方が怒って仕事を辞めさせたのである。彼としては、自分が書いた戯作をなんとか売り込むからということで女房を三日間質入するのである。

 ところが、彼の戯作は売れず、女房を請け出すことができない。そうしている時に、羽子板の親方がやってきて、大きな仕事が入ったからもう一度裏絵を書いてくれと女房に頼みに来る。女房は喜んで引き受けるが、仕事ができるまでの金がない。どうしようかと思っている時に、話を聞いていた質屋が、「そりゃあ、かんたんだな。なあ、お亀さん?」お亀も笑ってうなずくと、「はい、うちの人を入れときます」

 となるのである。こういう楽天性が落語のおもしろさで、思わず「ハハ」と笑ってしまう。

 本書には、そのほか、「第三席 牛の医者」、「第四席 忠犬蔵」、「第五席 やみなべ」、「第六席 すっぽん」、「第七席 人喰い村」、「第八席 永代橋」、「第九席 長崎屋」、「第十席 ちゃらけ寿司」、と十話が収められている。ただ、「第三席」以降で機知に富んだ鋭い「オチ」はあまり見受けられず、「第八席 永代橋」は、むしろ、どうしようもない男に惚れてしまう女の悲しさのようなものを感じるものだった。

 ただ、落語の良さは、庶民の暮らしに根づきながら、その楽天性を遺憾なく発揮して機知を働かせるところにあるし、人間のおおらかさがあり、それが全体を包むところにある。その意味で、落語は言葉遊びやショートコントとは本質的に異なるものである。

 20世紀のマクルーハンという社会哲学者が、現代文化が聴覚文化から視覚文化に変わったと指摘し、現代では、それが単に視覚だけでなく、聴覚と視覚が統合された動画に変わってきて、人間の感性も徐々に変わってきているが、「語り」としての落語が醸し出すおおらかさや楽天性、機知は「人の生のあり方として」大事にされるべきだろうと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿