2013年2月26日火曜日

乙川優三郎『武家用心集』(4)「うつしみ」


 昨日は久しぶりに池袋まで出かけて、E教授やT先生たちと様々なことについて話した。病室でこれからのことを話されていた京都のM先生が24日の朝に予想外に早く帰天されたこともあり、いろいろと考えることの多い日だった。今年になって身近にいた人たちが次々と召されることもあり、静かに瞑目しながら残されている時間のことも思ったりする。身近にいる「明日」を語る人々の中で、「明日はない」と密かに思ったりもする。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)に収められている五作目は「うつしみ」という作品で、何の咎かはっきりわからないままに夫を大目付に捕縛された女性が自分を育ててくれた祖母の生き方を省みて、自分の生き方を模索していく話である。

 夫が大目付に捕縛された松枝は、親戚や実家の者が関わり合いになるのを恐れて、ひとり孤独な日々を過ごしていた。事態がどのようになっているのかわからないままの不安を抱えた日々の中で、彼女は幼い頃に祖母に手を引かれて登った実家の菩提寺の石段を登り、香華を手向けて、自分を育ててくれた祖母のことを思い起こす。

 彼女の実母は彼女が幼い頃になくなり、父親はその後に後妻をもらって、その後妻との間に男の子が生まれ、父親の愛情は男の子に偏った。それを見かねた祖母が彼女の養育を引き受けたのである。しかし、その祖母もまた祖父の後妻で、祖父との間に子どもはなく、祖母といっても血の繋がらない関係だった。だが、祖母の津南は松枝を自分の子どものように育てたし、松枝もまた祖母を母のようにして育ったのである。

 祖母の津南は、二十二歳で前夫に離婚を言い渡された。津南の兄が不始末をしでかしたことが原因で、彼女は四歳と二歳の子を残したまま婚家をさり、実家に戻った。しかし、わずか15石の小身である津南の実家には、謹慎中の兄夫婦と二人の子ども、両親が暮らしており、彼女の身の置き所はなかった。兄の不始末というのは、実家の貧しさから役所の金一朱を無断で借用したことであり、生活はそれほど苦しかったのである。

 津南は、何か身過ぎの術を身につけなければならないと思い、奉公に出たいと考えていたが、兄が見つけてきたのは、酔客を相手にする城下のはずれの料亭の仲居奉公であった。だが、津南はその料亭の住み込みの仲居奉公に出た。実家にいたのはわずか二月であった。

 しかし、彼女は日が経つにつれて、同じ仲居として働く百姓や町人の娘たちの屈託のなさに触れて、武家の娘という誇りなどは打ち捨てて明るく振舞うことを学んでいった。そうして懸命に働き、料亭の女将のように自立した女になることを目指したのである。同輩の信頼も得るようになり、比較的落ち着いた暮らしを送るようになっていた。

 そんな折、料亭の女将から突然、縁談話が持ち込まれた。相手は郡奉行のひとりで、西村宣左衛門という四十歳近くの男で、料亭で津南を見染めたというのである。津南は、その男があまり風采の上がらない小役人のように思えたし、結婚にも懲りていたので、その話を断る。女将のように自立した女になりたいと話すと、女将から、女がこうして生きていくのはさらに苦労すると言われてしまう。

 津南は、しばらく考えて、やはり断ることにすると言い出すと、女将は、実家の兄が既に支度金まで西村からもらっているという意外な返事をする。彼女の兄は金にこすっからい。兄が受け取ったという支度金を返すあてもなく、津南の結婚は決められたようなものだった。そこで、津南は西村に会って話をしてみることにする。

 会ってみると、風采の上がらない小役人のように思っていた西村宣左衛門は、体面などには拘わらない人物であることが分かり、彼女は彼の求愛を受け入れることにしたのである。西村の家には息子と姑がおり、姑は彼女を身分の低い女として蔑んだし、五歳の息子は彼女を母親とは認めなかった。彼女は再び孤独を味わったが、辛抱する道を選んだ。

 だが、やがて一年が経ったころ、家族の不和に気づいた宣左衛門が、姑にきっぱりと嫁を見下したような態度を改めるよう忠告したし、やりたいようにやっていいと夫に言われ、彼女は姑の顔色を見ることをやめて生き生きと自立していった。彼女は身分の差などなく誰かれと客を歓待したので、西村の人望も上がっていった。継子の又吉は気性が荒く、とはしばらくうまくいかなかったが、きっぱりと、「わたしが嫌いなら、いつかこの家から追い出しなさい。そのときがきたなら必ずあなたの指図に従いましょう」と言って、無理に馴染ませようとせずに乗り越えていくのである。津南は背筋をちゃんと伸ばす女になっていくのである。

 だが、こうして平穏になった家庭も長くは続かなかった。又吉が元服した年に、宣左衛門は視察のために出向いた海辺の村で津波に飲み込まれてあっけなく他界してしまうのである。それを追うようにして姑もなくなってしまう。津南と敬十郎と名を改めた又吉のちの繋がらない二人が残されたのである。

 津南は、昔、又吉に語ったように家を出る覚悟もあったが、敬十郎は津南を頼りにした。その後、敬十郎が妻帯するまでの十年間ほど、津南は西村の家を守って過ごした。やがて、敬十郎は妻帯し、三年後には松枝と名づけられた女の子が生まれた。だが、松江の母は、松枝が三歳の時に病没し、ほどなく敬十郎は後妻を迎えた。そして、男の子が生まれて、敬十郎は松枝に冷たくなり、それを見かねて血の繋がらない孫の面倒を見ることにしたのである。彼女は、血が繋がらないとはいえ、孫娘である松枝に愛情を注ぎ、「教えられること何でも教える」のである。

 ところが、津南が六十歳を過ぎてから、藩そのものが大変な事態となってしまう。藩主の実弟が江戸で旗本と斬り合って殺害されたうえに、藩がそれをもみ消そうとしたことが幕府に露見したのである。お咎めは必置で、改易の危機に瀕したのである。悲観した藩士は早々に家財道具の処分を始め、西村家でもその準備が進められた。

 幕府の評定で藩主が他家にお預けになることが決まった時、津南の兄が路銀を無心に来た。一家で遠国の親戚のところに身を寄せると言う。そのとき、彼女は穏やかに兄を諭す。

 「武士たるものが浅ましいことを考えるものではございません。殿さまが他家へお預けとなったいま、ご帰宅を願うのが家臣の務めであり、家財道具を片付けたり、他国へ逃れることを考えたりするのはもってのほかでございましょう。たとえ願いが叶わず、御家が断絶したとしても後始末というものがございます。諸道具の片付けはそれからでも遅くはありませんし、そもそも家財なるものは武具から衣服に至るまで俸禄のお蔭をもって調えたものです。さもしい真似をして後の世まで悪名をとるか、実否の定まるまでおまちもうしあげるか、武士としてすべきことは言わずと知れておりましょう」(173ページ)

 と言うのである。これを聞いて、西村敬十郎も家財の整理をやめて家の中を元通りにした。そして、幸い、藩は一万石の減封、揉み消しをした重臣らは重追放となったが、藩の存続は叶うのである。

 津南は次第に松枝の中に自分がかつて置いてきた子どもの幻影を見るようだったが、松枝に女としての生き方を教え、やがて他界した。

 松枝はその祖母の津南の生き方を思い起こす。そして、津南には孤独を丸め込んで生きていく力があったが、自分にはなかったと思う。だが、孤独に負けて夫を疑うのは、自分で自分を粗末にしていることだと思い直し、立ち上がって石段を下り、帰路につくのである。祖母と同じような道をたどる、そういう意味で、祖母の「うつしみ」という表題が付けられているのだろう。

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