気温は低いが、穏やかな冬晴れといってもいいだろう。かすかながらも春の気配を感じたりする。
先週の土曜日にテレビ朝日で放映された滝口康彦原作の『上意討ち 拝領妻始末』を見た。友人で作詞家のT氏が放映を知らせてくださったので、おそらく、以前、小林正樹監督、橋本忍脚本、三船敏郎主演の映画のリメイクだと思って、元の映画を見ていないので、関心を持って見た次第である。主演は田村正和で三船敏郎とは本質的に味の異なる役者であり、拝領妻となる「いち」を仲間由紀恵が演じるのにも興味があった。
放映されたものは、原作と異なり、藩主から拝領妻として「いち」を下げ渡された笹原与五郎の父親が中心の主人公となり、結末も全く異なっていたが、理不尽な藩のやりかたに穏やかな与五郎の父が激怒する場面は圧巻だった。ドラマでは「いち」は自害し、与五郎も斬られてしまうのである。最後に江戸に訴えに向かう与五郎の父が鉄砲で打たれるという結末はどうかな、と思ったが、結構見応えがあった。
滝口康彦の本があざみ野の山内図書館にはないのが残念で、いつか九州に行くことがあれば、佐賀の彼の足跡を訪ねてみたいと思っている。
閑話休題。今日は海音寺潮五郎『列藩騒動録』(新装版 2007年 講談社文庫)の下巻に記されている「仙石騒動」について記しておくことにする。
「仙石騒動」とは、江戸時代の末期の天保年間(1830-1843)に但馬(現:兵庫県)の出石(いずし)藩仙石家で起こった騒動だが、逼迫した藩の財政政策を巡る問題であると同時に、人間の欲や嫉妬心、あるいは驕りと傲慢性が生み出した事件であるということができるかもしれない。
この時代になってくると諸大名の財政はどこもどうにもならないくらいに逼迫していて、武士の生活は困窮を極めてくるが、出石藩も同様で、第六代藩主の仙石政美(1797-1824年)の頃になると、藩の借金は6万両にも及ぶようになり、藩の財政改革が急務のこととなってきた。
そこで、家老であった仙石久寿(左京)は、勝手方年寄(財務責任者)で仙谷左京家の分家筋に当たる仙石久恒(造酒 みき)を解任し、筆頭家老になると自分の財政政策を強行した。彼の財政政策というのは、産物会所を中心にして生糸の専売と魚市場の育成などの、いわば重商主義的産業振興策と、家臣の俸禄の平均4割削減という緊縮、領民への御用銀の賦課という重税政策であった。
産業振興策は頷けるとしても、これは家臣や領民の生活を踏みにじって藩庫を豊かにするだけのもののように見えなくもないし、このあたりに仙石久寿(左京)という人間の考えが透けて見えるような気もするが、他方、これに真っ向から対立した解任された仙石久恒(造酒)も、質素倹約の励行という従来のあまりに無策としかいいようがない方針しか持つことができなかったのである。
藩主の仙石政美は、仙石左京の政策を支持し、強い権限を与えて、これを断行させたのである。このあたりに、家臣や領民の生活を何とも思っていない大名の軽薄さがあるのだが、人々の生活を犠牲にするような政策がうまくいくはずがない。左京の政策は頓挫し、藩主の政美は失脚していた仙石久恒を復権させて藩政を執らせるのである。こういう処置は、仙石久寿(左京)と仙石久恒(造酒)の対立を煽るようなもので、それがやがてこの騒動を生んでいく因となったのである。
そして、文政7年(1824年)、藩主の仙石政美が参勤交代の途中で発病して、享年28の若さで死去し、嗣子がなかったために、江戸で隠居していた前藩主であり政美の父である仙石久道が後嗣を決めるための会議を開く会議を開くことにした。筆頭家老であった仙石左京は国元を代表してこの会議に出席するために上京するが、彼はその時に実子である10歳になる小太郎を同伴するのである。この行為が、敵対していた仙石久恒(造酒)の疑惑を招いた。左京が実子を後継に押すつもりだと考えたのである。実際、左京は小太郎を久道に謁見させるなどしており、「あわよくば」という考えはあったであろう。仙石左京家もまた藩主の血筋ではあったのだから。
しかし、後継藩主決定の会議は、直系を重んじるということで、久道の四男で前藩主政美の弟に当たる道之助を元服させて久利とし、藩主に据えることに決するのである。久利は妾腹の子で、まだ幼く、父の久道が後見となった。そして、仙石久恒(造酒)が、左京が小太郎を同伴したのは「我が子を藩主にして主家を乗っ取るつもりだった」と久道に訴え、久道は左京を家老職から罷免させ、仙石久恒(造酒)が藩の実権を握るようになったのである。
能力もないのに権力がだけは握りたがる人間というのはどこにでもいるものだが、わたしにはどうも仙谷久恒という人がそういう人物だったとしか思えない。彼は藩の実権を掌握したが、質素倹約だけしか打ち出すことができずに、藩財政はますます窮乏し、出石藩が再建されることはなかったのである。久道も、流石にここまで来て久恒(造酒)を解任し、今度は久寿(左京)を取り立てるのである。他に有能な人材はいなかったと思いたくなるが、そういう視点は久道にはなかった。人材は育てなければ生まれてこないが、出石藩にはその発想すらなかったのではないかと思ってしまう。造酒はまもなく病死する。
ここから、再び藩の実権を握り、反対する者がなくなった仙谷久寿(左京)の増上慢が始まっていく。彼は家臣の扶持(俸給)を極端に減らし、商人からは運上(営業税)を厳しく取り立て、領民に御用金を課した。その割に、自らは、その頃の大名家でもしなくなっていた鷹狩りをしたり、瀟洒な生活をしたりして、贅と権力を楽しみ、息子の小太郎には老中首座の松平康任の姪を嫁に迎え、それを迎える時も、まるで大名のように振舞ったのである。中途半端に賢くて、少しお金が回り始めるとまるで成功したように思い込む人がいるものだが、久寿(左京)もそういう人間だった気がしないでもない。他の者が彼よりも愚かだったことは間違いないが。
こういう久寿(左京)に対して、当然、家中から反発が起きる。特に政敵でもあった仙石久恒(造酒)の実弟であった酒匂清兵衛は、左京の息子の小太郎の婚儀に際し、老中首座の姪を嫁にもらうなどという大名家のような振る舞いから、「左京が主家を横領し、乗っ取ろうとしている」という訴えを後見であった仙石久道に起こすのである。この時、仙石左京の横領を証拠立てたのが勝手役(財務)の河野瀬兵衛という人物であった。
しかし、小賢しい仙石久寿(左京)の巧みな弁舌にかなうわけがなく、久道は、反対に、酒匂清兵衛を蟄居、河野瀬兵衛を追放処分としたのである。これでますます仙石久寿(左京)は増上慢となっていく。
追放された河野瀬兵衛は、自分は忠を果たしていると思っているから、この処分に我慢がならずに、仙石家の江戸詰め家臣であった神谷転という人物に自分の正義を訴えて、彼とともに幕府閣僚や仙石家の分家に訴えを起こすのである。この時の河野の訴状を海音寺潮五郎は克明に記しているが、読んでいてばかばかしくなるような内容ではある。
老中首座であった松平康任と縁戚関係を結んでいた仙石左京は、その関係を巧みに利用して弁舌をもってこの訴えを退け、江戸南町奉行の筒井政憲に二人の捕縛を依頼する。筒井政憲としては老中の息のかかった依頼であるからこれを断りきれずに、河野を捕らえ、左京に引き渡すのである。河野瀬兵衛は、このとき天領であった生野銀山に逃げ込み、本来なら天領での捕縛は幕府勘定奉行の許諾が必要なのだが、左京はその違法行為を行うのである。老中首座の松平康任がなんとかするだろうという奢りがここでも顔を出すのである。左京は河野の処断を急いで、河野瀬兵衛に切腹させる。天保6年(1835年)のことである。ところが、神谷転は捕縛される前に虚無僧に身を変えており、虚無僧は町奉行の管轄下にはなく、仙石家に引き渡されることなく慰留されたのである。
ここで、神谷転が帰属していた虚無僧寺の普化宗一月寺が、僧は寺社奉行の管轄に属し、しかもその独立性が幕府によって認められているから町奉行所で彼を捕らえることはできないはずだから、即刻釈放するように要求するのである。当時の虚無僧は、武士が一時身を変えるためのものでもあり、武家社会を支えるものとして認められていると主張した。そして、それを神谷転が所持していた河野瀬兵衛の訴状とともに寺社奉行に訴え出たのである。この時の一月寺の役僧であった愛璿(あいせん)という人の文章はなかなかのものである。
この時の幕閣内でも、松平康任に対抗するものとして水野忠邦が権力掌握を狙っており、松平康任が絡んでいるこの騒動を取り上げて、将軍家斉に言上し、徹底的に調べるのである。これを調べたのは、後の日米修好通商条約などでも活躍した川路聖謨(かわじ
としあきら)である。そして、江戸幕府は、仙石左京に罪有りとして、彼を獄門とし、息子の小太郎を遠島とした。そのほかも死罪で、藩主の久利も「家政不取締り」として、5万8千石の所領を3万石に減じられた。老中松平康任も罷免されている。
海音寺潮五郎は、この騒動は、幼君の下で家臣の勢力争いが引き起こしたものだが、この騒動は極めて愚かな騒動だったと断じている。「井の中の蛙」的に、傲慢になり、時代や社会をよく読むことなく、訴訟を起こし、その結果、お互いに切腹させられ、しかも減封された結果しか産まなかった。
出石藩仙石家では、この騒動のあとも、実は幕末期にもう一度お家騒動が起こっている。これについては、本作では触れられないが、何とも人材不足の結果としか言い様がないものである。ちなみに、第7代藩主の仙石久利は、幕府への反発もあり、尊皇派となって、戊辰戦争で新政府に恭順し、明治2年(1869年)には出石藩知事に任じられたが、翌年、家督を養子の政固に譲って隠居している。明治30年(1897年)に、享年78で死去。
海音寺潮五郎『列藩騒動録』については、また、機会を見て書き記したいと思っている。
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