昨日、気象予報士が大雪の予報を出していたが、ここでは、今朝は薄らとした雪化粧で、やがて雨に変わっていった。冬の入口では雨が雪に変わるが、春の入口では雪が雨に変わる。今日は一転して少し寒さが和らいだ日になっている。熊本のSさんから庭のチューリップが芽を出したとの便りを頂いたし、湯島天神の早梅も咲いたという。あと数回寒い日が訪れて、やがて春になるだろう。
昨夜、平安期の陰陽師たちを描いた高橋克彦『鬼』(1996年 角川春樹事務所)を読んでいた。陰陽師の中では、何といっても阿部晴明(あべのせいめい 921-1005年)が著名であるが、本書では彼の師であった賀茂忠行(生没不詳)やその子の賀茂保憲(やすのり 917-977年)についても記してあり、これらの陰陽師については主として「今昔物語集」に記されているものである。
陰陽師とは、古代中国で生まれた自然哲学や陰陽五行説に起源をもつ陰陽道に携わる者で、万物は陰と陽の二気から生じるとする「陰陽思想」と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるという「五行思想」が組み合わされて、自然界におけるその変化をよく観察して災厄などを判断し、人間の吉凶を占う実用的なものとして日本で発達したものである。それに、占星術や天文学の知識、道教や仏教、また神道などからも様々な事柄が取り入れられている。
陰陽五行説は古代中国の夏の時代(紀元前2000年頃)ぐらいから始まって、周の時代(紀元前1000年頃から紀元前256年)にほぼ完成していたと言われ、天文学や暦学、易、時間の概念などと合わせて飛鳥時代(592-710年)に日本に伝えられ、それらが自然の災厄や吉凶判断の技術として用いられてきたのが陰陽道で、当初は渡来人の僧侶によって行われていたが、やがて朝廷への奉仕を目的として(つまり政治を占うものとして)、7世紀頃から陰陽師という者が現れてきたのである。
平安時代の律令制が敷かれた7世紀後半から8世紀前半では、朝廷の政治組織として陰陽寮というものが組織化されて、天文の観察や暦の作成、吉凶の判断などが行われた。その頃には、道教の呪術や密教の呪法、占星術なども取り入れられ、やがて10世紀にはこれらを極めた賀茂忠行・保憲親子が登場してほぼ完成し、その弟子であった阿部晴明が卓越した才能を示し、宮廷社会から絶大な信頼を得ていた。
こうした陰陽道の思想や技術は、今日では、一見すれば非実用的で非科学的な古臭いものに見えるが、当時の自然科学であり、観察眼の鋭さは相当のものがあったのである。陰陽師は、いわば、自然科学者であったのである。
加えて、794年(延暦13年)に桓武天皇が都を平安京(京都)に移してから始まる平安時代は、日本史の中では古代から中世に至る過渡期のようなもので、奈良時代に制定された律令制度がほころびを見せると同時に、世襲による家職化が進んで、特定の摂関家による摂関政治が行われ、権門による独占や軍事帰属の台頭などで比較的どろどろした政争が展開した時代でもあった。こういう時代の中で、呪詛を行い、未来の吉凶を行う陰陽師は大きな力と影響力をもっていたのである。
一般の社会風習としても魑魅魍魎が信じられ、これらの魑魅魍魎の力を呪術によって封じるとされた陰陽師は神秘的な存在として認められていたのである。特に、賀茂忠行や賀茂保憲、そして阿部晴明が活躍した10世紀は、右大臣まで務めた学識豊かな菅原道真が左大臣であった藤原時平に讒訴されて太宰府に流され、903年に悲憤のうちに死に、その後で天変地異が多発し、災厄が多く発生したことから、朝廷はこれを菅原道真の怨霊による祟りと恐れていた時代であった。
まず、政敵の藤原時平が39歳の若さで病死し(909年)、時平の甥で醍醐天皇の皇子の保明親王、その息子の慶頼王が次々と病死し、930年には清涼殿が落雷を受けて多数の死傷者が出て、それを目撃した醍醐天皇も体調を壊して、まもなく崩御した。それらはすべて菅原道真の怨霊と結びつけられ、火雷天神と結びつけられ、朝廷は京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを沈めようとしたのである。道真を神と祭り上げることによって慰霊を図ったのである。道真を天神様とする天神信仰は全国に広まった。
こうした時代背景の中で、賀茂忠行は、道教の呪術に加え、密教などの呪術信仰を巧みに取り入れて、陰陽道を天文観測や暦の技術中心であったものから宗教的・呪術的なものに変えることに成功して、朝廷や貴族の中で影響力を獲得していったのである。その子の保憲も視鬼(見鬼・・鬼を見る能力)に長けていたと言われ、特に暦の制定には大きな力を発揮したと言われる。その弟子であった阿部清明はさらに卓越した能力を持ち、その事跡は神秘化されていった。
本書は、こうした陰陽師の姿を、「髑髏鬼」、「絞鬼」、「夜光鬼」、「魅鬼」、「視鬼」といったそれぞれの「鬼」との対決として、賀茂忠行の師にあたる陰陽寮の滋丘川人(しげおかかわひと)や弓削是雄(ゆげこれお)が活躍した866年から初めて、賀茂忠行、賀茂保憲、そして、阿部晴明で終わるように編まれた短編連作集である。しかも、単なる「鬼」との対決のファンタジーではなく、その裏に潜んだ出世欲や政争の出来事としてこれを取り扱っている。「鬼」は、もちろん魑魅魍魎的な存在ではあるが、人の力を越えるほどの力を持つ「恐ろしいもの」の代名詞でもある。「鬼」の解釈には種々あるが、「鬼」の存在が長く信じられ、また語られてきたことは事実である。
そして、作者は、「恐ろしいもの」として信じられてきた「鬼」というものや怨念、祟りといったことがらを利用して、敵対する者を排除しようとしたり、自分の地位を向上させようとしたりすることに対して、陰陽師としての闘いを繰り広げる姿として、これらの人を描きだしていくのである。「鬼」は人の心の中に住むものである。
「人を呪う」という精神は、極めて下劣な精神である。その下劣さに陰陽師たちがはるかに高い精神をもって立ち向かうというのが本書の主眼だろうと思う。内容そのものやいくつかのエピソードは「今昔物語集」から取られており、作者がそれを駆使して作品を書いたことがよくわかる作品だった。
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