2013年2月22日金曜日

乙川優三郎『武家用心集』(3)「九月の瓜」、「邯鄲」


 晴れ間が戻っているが、冬型の気圧配置が続いてまだまだ気温が低く寒い。青森県で5mを超える積雪が記録されている。ある学校の理事長が訪ねて下さり、このところ静かに沈考する日々を過ごしていたが、今日あたりはぶらりと図書館にでも行ってみようかと思っている。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)の三作品目は「九月の瓜」と題される作品で、人の生き方を簡明に描いた、これもまた秀作だと言えると思う。

 懸命に働いて勘定奉行にまで登りつめた五十二歳になる宇野太左衛門は、妹の娘が婿を取る祝言の席に出かけていく。姪の婿は、私塾の秀才と言われるほどだが、どことなく腰が低すぎて入婿としての如才がないように見えた。だが、「辛抱強いのが一番」と妹は喜んでいた。

 その席に、粗末な形をした青年が妹の夫の配下の者として出席していた。その青年は、かつて若い頃にしのぎを削りあった中であった友人の桜井捨蔵の息子だった。

 太左衛門と捨蔵は、共に勘定方で、優秀であり、共にあと少しで勘定組頭に手が届きそうなところに来ていた。だが、その時に藩の政変が起こり、ほんの些細な遣り取りがその後の二人の運命を決める分かれ道になったのである。政変というのは、藩の重職どうしの権力抗争で、当時の勘定奉行も罷免され、彼らにも役替えの波が押し寄せてきたのである。

 時の勘定組頭が勘定奉行となり、太左衛門に勘定組頭の話が舞い込むのである。その時に、勘定吟味役(監察)の聞き取り調査があるが、罷免された前の勘定奉行に近かったもう一人の組頭とそれに繋がる桜井捨蔵を切ると言い出される。太左衛門は、捨蔵は力量を備えているというが、それを言えば、彼自身の昇進が危うくなると言われ、結局は、もうひとりの組頭も桜井捨蔵も罷免された前の勘定奉行に繋がる者だと言ってしまうのである。捨蔵については、根も葉もない誹謗に過ぎないことを承知の上で、彼はそう言い、やがて、もうひとりの組頭と桜井を陥れたのが太左衛門であるとの噂が広がり、それ以来捨蔵とは疎遠になってしまったのである。以後、太左衛門は順調に出世を重ね、捨蔵は陰鬱な影を帯びて四十八歳で隠居した。彼は桜井家の婿養子であったが、その立場も武士としての気概もないまま、疲れた果たようにして職を去った。

 これまでも太左衛門は自分が語ったことで捨蔵の人生が狂ってしまったことに対して何度か捨蔵に詫びを入れようとしたが果たせずじまいで、捨蔵の息子にも親の憂き目が現れているようだった。

 太左衛門は捨蔵のことが気になり、配下の者に探らせてみると、捨蔵は二年前に妻女をなくし、息子夫婦と孫の四人暮らしをし、日中はほとんど畑作りをしているということが分かってくる。捨蔵は、あの時から寡黙になり、淡々と役目をこなすだけで、昇進も加増とも縁がないままに隠居を迎えた。生活は慎ましやかで、ただ家の柿の木がたくさんの実をつけていることだけがいいことのように思えたと彼の部下は太左衛門に伝えた。

 やがて、秋、太左衛門は意を固めて捨蔵に会いに行く、柿はもう赤くなり、捨蔵は畑で鍬を振るっていた。暮らしが楽そうではなかったので、太左衛門が「楽隠居というわけにはいくまい」と言うと、捨蔵は「そう見えるか、だとしたら生き方が違うせいだろう」と答える(107ページ)。

 「おぬしにはそう見えるかも知れんが、わしはこれでいいと思っている、人より早く隠居したのも、だいが、家内が重い病になってな、死にそうだったからだ、あれには苦労をかけたので最後はわしが面倒をみてやろうと思った。お蔭で二年も生き延びてくれたから十分に尽くせたし、よい別れもできた。城勤めを続けていたならこうはいかなかっただろう、倅も力になってくれたし、嫁も優しい」(108ページ)

 捨蔵は、そう淡々と太左衛門に語るのである。そして、詫びなど、もう自分にはどうでもいことだ、こうして会えたことが嬉しいと言い、太左衛門の帰りに、自分が作った立派な冬瓜を持たせるのである。その冬瓜を抱えて、太左衛門は清々しい気持ちで歩いていくのである。

 この作品は、人間にとって何が大事かをそれとなく描ききった作品であるが、こういう展開や描写もうまさに、つくづく感嘆した作品であった。

 第四話「邯鄲(かんたん)」も同じ主題の作品であるが、邯鄲(かんたん)というのは、中国の唐の時代の沈既済という人の小説「枕中記」から取られた言葉であろう。「枕中記」は、「邯鄲の夢」としてよく知られた話で、次のようなものである。

 あるとき、廬生(りょせい)という若者が一旗上げようと邯鄲(中国河北省の都)に向かって旅をしていた。彼は食事をとろうと旅舎に入り、そこで呂翁という一人の老人と出会い、あくせくと働きながら苦しんでいる自分の身の上の不平を語り、自分の将来の夢を語る。呂翁は彼の話を熱心に聞き、食事ができるまで一休みするように枕を貸す。

 それは両側に孔があいた陶製の枕で、廬生は、枕を借りて眠っている間にその孔が大きくなったので、その中に入ってみると、そこには大きな家があった。その家で廬生は唐代の名家の娘を娶り、進士の試験にも合格して官吏となり、順調に出世して、武功も挙げた。

 しかし、時の宰相に妬まれて左遷させられる。しかし、そこで三年辛抱して、再び返り咲いた彼は、やがて宰相となり、以後十年、天子をよく補佐して善政を行い、賢相の誉れを受けるまでになっていく。彼は、位人臣を極めて得意の絶頂にあったのだが、突如、周辺の将と結束して謀反を企んでいるという理由で逆賊となる。

 彼は縛につきながら妻子に言う。
 「わしは、山東の家にはわずかばかりだが良田があった。百姓をしていれば、それで寒さと飢えは防ぐことができたのに、何を苦しんで録を求めるようなことをしたのだろう。そのために今はこんな姿になってしまった。昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが懐かしい。だが、今はもうどうにもならない」

 彼はそう語って自刀しようとするが、妻に止められてそれを果たすことができなかった。そして、その時に捕らえられた者たちはみんな殺されてしまうが、彼は宦官の計らいで死罪を免れるのである。

 こうして数年が過ぎ、やがて天子はそれが冤罪であったことを知り、彼は再び呼び戻され、彼の息子たちもそれぞれに高官に出世し、十数人の孫たちも与えられて幸福な晩年を迎え、死去するのである。

 そこで「さあ、食事が出来ました」という声で彼は目を覚ます。すべてが消えて、そこにいたのはみすぼらしい身なりをした廬生だった。五十年にわたる波乱万丈の人生も、わずか栗粥が煮えるまでのつかの間のできごとに過ぎなかったのである。

 彼は、自分が見た夢の儚さを思い知り、呂翁に「人生の栄華盛衰のすべてを見ました。先生は、わたしの欲を払ってくださいました」と言って、邯鄲に行くのをやめて故里へ帰って行った。

 これが、「邯鄲の夢」とか「邯鄲の枕」とか言われる「枕中記」の内容で、能の演目にもなっている。

 この故事を踏まえて、作者は一人の青年が、身近なものの中にある真の幸いを見出していく話を綴る。

 新田普請奉行の添役という下級役務を勤めている津島輔四郎(すけしろう)は、気位ばかりが高くて骨をしみする妻と離縁し、「あま」という女中と城下の外れで暮らしていた。彼の妻は家政が破綻した責任を彼の甲斐性の問題にして責め立て、輔四郎の我慢の限界を越えてしまったのである。彼は一人暮らしを決心し、農家の娘を女中として雇うことにしたのである。

 「あま」が津島家に女中奉公にきたのは、十四歳の時で、「あま」は飢餓の年に生まれてどうにか生き延びてきた十一人家族の末子だった。初めて彼女が津島家に来た時は、風呂敷とは言えないような裂に包んだ肌着だけしかもたず、その姿は、まさに貧しさを纏ったもので、哀れを通り越して悲愴で、浅黒い手は傷だらけ、寸足らずの着物からはみ出した脛にはいくつもの痣ができていた。

 輔四郎は、その「あま」に母の形見から普段着を二枚と櫛を与えたが、言葉使いや立ち居振る舞いを一から教えなければならず、果たしてこの娘に奉公が務まるだろうかといぶかい、「とにかく、煮炊きだけは覚えろ」と語った。「あま」は恐怖に近い不安を顔に浮かべ、とにかく、痩せた体に染み付いた臭いと藁束のような髪をなんとかしなければ、と思った次第であった。

 ところが、半年ほどは口がきけないのかと思うほど無口であった「あま」は、やがて武家の奉公人らしい言葉を使うようになり、身だしなみも整い、三年もすると家の中のことはもちろん、来客の応対もそつなくこなすようになっていた。そして、「あま」はときおり虫の音を上手に真似るようになり垣根の側や小さな畑の側で虫たちと声を競って遊んでいるようにも見えた。

 輔四郎は、「あま」のお蔭で平穏に暮らして行けていることに気がついていたが、その時に、突然、藩の家老から呼び出しを受けて、藩には藩主直属の忍びの者である「小隼人組み」というのがあり、二月ほど前に藩の中老が急死したのは、その「小隼人組」を支配している谷川次郎太夫が、力をつけすぎた「小隼人組」の弊害を案じて廃止を画策した中老を殺したのだと告げられ、その谷川を殺せと命じられるのである。

 谷川次郎太夫は剣の使い手であるだけでなく忍術も使うと言われているが、津軽家は代々剣の名家であり、秘伝の奥義もあることから、輔四郎が刺客として選ばれたのである。輔四郎は、その藩命を断ることはできなかった。そして、今後のことを「あま」に話すが、「あま」は、「どうか、お供をさせてください」というだけであった。「あま」には、もうほかに行く所がなかった。彼女の実家は、彼女が帰ると食べるものはおろか寝る場所さえない状態であった。輔四郎は、剣の達人である谷川次郎太夫と戦っても。自分が死ぬだけだろと思っており、「あま」の行く末を案じて、「あま」に家財の整理を言いつけて、その金子を「あま」に渡そうとするが、「あま」は頑なに「お供をさせてください」と言うだけだった。そして、後のことは考えないで、自分が生きて帰ることだけを考えてくれと言うのである。

 その夜、彼は「あま」を置いて、刺客として谷川次郎太夫の家に赴く。行ってみれば、なぜか谷川次郎太夫は島津輔四郎が来ることを知って準備しているようだった。輔四郎は、彼と堂々と立会をはじめる。輔四郎は追い回されて追い詰められるが、何とかして一太刀を谷川の首に斬り入れる。そして、、虫の息となった谷川から、自分に中老を殺させたのは家老で、今度はお前が殺されると告げられる。

 輔四郎は、谷川が最後に告げたことが真実であることを悟り、このままでは自分も殺されるだろうと思って、その場から逃げ出す。死闘の果てに藩を出奔しようとするのである。やがて野辺に出る。そこで一息入れているときに、不意にあたりの草むらから虫の音が聞こえてきた。そして、それによって彼は、今までは自分のことばかり考えて出奔してきたが、こうしている間にも「あま」は森閑とした家で自分のことを案じてくれていると思い至る。家老の陰謀にひとりで立ち向かうのは無謀に違いないが、「あま」のところに変えることを決心するのである。

 これほど身近に妻にふさわしい人がいることに、どうして今日まで気がつかなかったのか、と彼は思う。「ゆくところもなく、ただじっと待っている女に、帰った、と言ってやりたい。・・・あてもなく待たされるばかりで、供をしたいとしか言い出せなかった女の胸中を考えると、谷川の家へむかったときとは比べようもなく激しい闘志が湧くのを感じた」のである(143ページ)。

 この話は、もちろん「邯鄲の夢」とは全く異なっているが、人は自分を慕う者を愛して生きるほど幸いなことはないのだから、「あま」の境遇と合わせて、それを切々と物語るものである。作者がこの作品に「邯鄲」という表題をつけたのは、「邯鄲はすぐ近くにある」ことを語るためであろう。

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