2013年8月27日火曜日

乙川優三郎『生きる』第二作『安穏河原」

乙川優三郎『生きる』(2004年 文藝春秋社 2005年 文春文庫)に収められている第二作「安穏河原」は、遊女となった一人の武家の娘と、何の取り柄もないままに無頼の徒となった男の話しで、どうにもならない状況の中で、人としての心の豊かな原風景を持ち、それを大事にしながら生きる姿を描くことで、人間の生き方を直截的に物語った作品である。

主人公の一人である双枝(ふたえ)は、幼いころに両親と晩秋の河原に紅葉狩りにいった幸せな記憶を心に宿しながら、それをときおり思い起こすことで生きる力をもつことができるような厳しい状況に置かれていた女性だった。


そのころ、彼女の父親の羽生素平は小藩の郡奉行で、80石を賜わり、毅然として、家族にも自分にも清廉な人であった。藩では財政の危機に加えて凶作が加わり、藩の執政たちは領民から一律に金を集める策を取ろうとした。郡奉行として羽生素平は、その策が百姓たちを苦しめることになると、その策に真っ向から反対し、退身する覚悟で意見書を執政たちと藩主に提出した。だが、素平の意見は顧みられず、素平は、退身して国を出て、江戸での浪人暮らしをすることとなった。そして、何とかなると思っていたえどでの暮らしはどうにもならず、持っていた金は三年で使い果たし、八年後には母親が病臥し、その二年後には、ついに娘を遊女に売らざるを得なくなったのである。「これからどんなことがあろうとも人間としての誇りだけは失うな」(文庫版 109ページ)、それが双枝が女衒に売られていく時の素平の言葉だった。


こうして、双枝は遊女となり、彼女のもとへ井沢織之助が通ってくるのである。織之助は、口入れ屋で素平と知り合い、素平に頼まれて双枝のいる遊女屋に行き、素平から金をもらって双枝を一晩買うのである。織之助は、それが素平の娘打と気づいてからは、話をするだけで同衾することはなかった。遊女である双枝の身体を休ませるということも素平の父親としてのささやかな望みであることを織之助は察していた。素平は、あらゆることをして金を工面して月に一度くらいの割合で織之助に双枝を買うことを依頼していたのである。


井沢織之助は、父親が羽州山形の浪人で、織之助が生まれた頃には既に江戸で木戸番などをしながら暮らしていたが、学問もなければ武家の匂いもしない男で、織之助は武芸の素養もなければ、武家の礼儀作法なども知らず、両親がなくなったあと、一時は瓦職人の見習いに出たこともあったが、三年たっても無給で、それに不平を言うと追い出され、刀をさしていることだけで、大工や人足の見張りを頼まれたりして糊口をしのいでいた。どの仕事も長続きせず、身についたのは、酒と女と世渡りの知恵くらいだった。彼は、気ままに生きていながらも、心の中に寂寞を抱え、座頭の金貸しの借金取りたてなどをしていた。

双枝は、女郎に身を堕としていたが、武家の娘として凛としたところがあり、今も尚、父親が厳格で毅然としていると思い込んでいた。「わたしは、お腹いっぱい」と言って人の施しは受けない姿勢を貫いていた。それが、武家としての誇りを失わない父親の教えだったのである。そして、実はその毅然とした父親の姿こそが彼女の原風景だったのである。たとえ、実際の父親の姿が萎れた草のようだったとしても。

女郎としての双枝の借金は膨れ上がり、たとえ年期が明けても、彼女が自由になる望みはほとんどなかった。やがて病臥していた母親が死に、素平は何とか双枝の借金返済の金を作ろうとしていた。


その年、江戸は暴風雨に見舞われ、織之助が住む長屋も水に浸かる出来事があった。織之助は刀と巾着に入るだけの金を持って屋根の上にしがみつき、懐の巾着は重いために捨て去り九死に一生を得ることができたが、無一文に戻っていた。素平も嵐で金の大半を失ったという。その素平が織之助に同行を依頼して、以前に仕えていた藩の上屋敷に堂々と向かったのである。

そこで素平は、おのれの不明のために零落したのだから、せめて上屋敷の庭を拝借して武士として切腹することを望んだのである。彼は、江戸家老に、かつて自分が反対した政策がどうなったかを尋ね、その政策が取りやめになったと聞いて満足し、見事に腹を斬るのである。そして、それを見た江戸家老も、素平の死後をきちんと弔い、三十両の金を出したのである。この出来事に立ち会った織之助の中で何かが変わっていった。彼は、素平の望み通り双枝を自由にするために、その三十両をもって出かけていく。

だが、双枝がいた女郎屋は、彼が行ったときには閑散としており、役人の手入れがあって、双枝の行くへがわからなくなっていた。双枝は役人の手を逃れたと聞いたが、ついに彼女を見つけることができなかった。自由になれるその日に、双枝はいっそうの不幸に見舞われたのである。


それから月日が流れ、織之助は古着の商いを始めて、商売は順調に伸び、柳原の床店を買う話しが持ちあがる。そこで、団子屋の前で店先に立つ四〜五歳の少女に目が留まる。織之助は思わず団子屋に行き、団子を買ってその少女に「さあ、お食べ、遠慮はいらないよ」と声をかけた時に、その少女は首をふって「おなか、いっぱい」と答えたのである。


織之助は驚き、その少女の名前を聞いたら、「織枝」と言う。一月ほど前に夜鷹をしていた母親が死んで、柳原の稲荷の物陰に住んでなんとか生き延びてきていたのである。床店の売主は、「夜鷹の子ですよ。あんなものに関わっちゃあうけない」と言うが、織之助は、「わたしにはもっと大事なことができました」と、商売の話を断り、少女の母親が死んだという川端へ行き、「わたしは、おまえのかかさまをよく知っているよ、それは潔い人だったね」と語る。

物語の最後は、
「気が付くと、いつの間にか空を紫紺色に染めていた日の光は失せて、二人のいる川辺はすっぽりと闇に包まれていた。風が揺らすのだろう、川面がひたひたと音を立てている。
『かかさまが、ほら、そこで笑っているよ』
織之助は儚い笑みを浮かべた。二十三歳のまま変わらない双枝の顔が見えている。娘は微かにうなずいたようだった。にわかに冷えてきた風に吹かれながら、無心に団子を頬張る娘も、じっと川面を見つめる織之助も、いつしか湛々とした安らぎの中にいた」
で閉じられている。

 二人がこれから共に、しかも、大切なものを心に宿しながら生きていくことが暗示されて、それが黄昏から闇に変わっていく川面の景色と合間って、実に情感溢れた光景として描かれる。こういう優れた描写をすることができる作者の感性と姿勢がよく光るラストである。これもまた、本当に良い作品だと思う。

2013年8月23日金曜日

乙川優三郎『生きる』 第一作 「生きる」

 驚くほどの暑さが続いている。これほど暑さが長く続くさすがに体力的に厳しい。だが、乙川優三郎『生き』(2004年 文藝春秋社 2005年 文春文庫)を非常に感動して読んだ。これは2002年の直木賞受賞作品だが、表題作「生きる」の他に、「安穏河原」、「早梅記」の三編の中編を収めた中編集である。いずれの作品も、文字通り「生きる」こと、あるいは「どうにもならないことの中で真摯に生きること」を主題としたものであり、主人公たちだけでなく、主人公たちを支えた女性たちの生き方にも深く胸を打たれた。

   第一作「生きる」は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、武家の「忠義」の証しとして行われていた「殉死」の問題を取り扱いながら、「生きることの苦闘を抱えた中での生」を直接物語るものである。「殉死」は、主君の死に続いて忠義の臣が追腹を斬ることであり、権力者が権力者であることの証しとなり、愚かにも「殉死者の数」を競うようなところがあったのである。

  石田又右衛門は、関ヶ原の合戦で父親が浪人となり、少年の頃は非常に貧しい暮らしを強いられていたが、やがて父親がある藩の藩主によって召抱えられるようになり、ようやく、貧を脱して、以後、藩主の寵遇を得て順調に出世し、馬廻り役五百石を賜わるようになっていた。娘は既に嫁ぎ、孫もでき、息子も成長していた。気がかりといえば、妻の佐和が病がちであったことと息子が苦労知らずで直情的に育ったことくらいであった。

  ところが、石田家を取り立ててきた藩主が死期を迎えるようになり、「殉死」が取りざたされるようになってきた。藩主は才覚にも自覚にも富み、穏やかで徳もあり、家中で慕われていたので、彼の後を追って追腹を斬る者が続出することが予測された。追腹を斬ることは主君に仕える武しらしいことであると考えられていた。石田又右衛門自身は、当然、藩主の寵遇を得て来てここまでこられたのだがら、追腹を斬って殉死の覚悟を決めていたし、藩内でも彼が殉死するのが当然とみなされていた。

  しかし、筆頭家老の梶谷半左衛門から呼び出され、旗奉行の小野寺郡蔵と共に、家中でやたら追腹を斬っていたずらに有為の人物を失うことを避けるために追腹禁止を出すことを話し出されて、二人とも追腹を斬らない誓紙を出すよう依頼される。二人は不承不承ながらそれを受け入れ、追腹をしないことを誓う。

   そして、藩主が江戸表で亡くなり、梶谷家老命で追腹禁止令が出される。だが、藩主の遺体が国もとに運ばれてくる途中で、藩主の小姓、又右衛門とは旧知の郡代、近習など、次々と追腹を斬って殉死する者が現れた。又右衛門の周囲でも、この時とばかり彼に追腹を斬ることを露骨に勧めるものたちも現れ、又右衛門の息子も誇りのために父親の武士としての当然の殉死を望んだりする。

  そういう中で、又右衛門の娘が嫁いだ先の婿が殉死をするのではないかと案んじられた。娘は、そのことを恐れ、又右衛門になんとか殉死をしないように説得してくれと依頼されていた。だが、藩主の葬儀の際に娘の婿は、幼い子を残して追腹を斬ってしまった。そして、娘から婿の追腹を止めて欲しいと頼まれていたにも関わらず、そのような事態になったために、娘の家から義絶されてしまう。

  追腹禁止令が出されたとはいえ、家中では見事に殉死した者たちへの喝采が叫ばれ、殉死するだろうと思われていながらいに残っている石田又右衛門に非難と侮蔑の目が向けられていった。藩内でも、追腹禁止令を出した首席家老を追い落とすために、殉死を奨励する一派の力が強くなり、殉死者に対して始めは厳しい処罰がなされたが、次第に処罰が緩められ、又右衛門の娘の家も減封されたものの家の存続は保証された。だが、夫をなくした娘は次第に精神の錯乱を来たすようになっていた。藩内の雰囲気から首席家老の梶谷半左衛門は追い落とされて反対勢力が実権を握るようになっていた。そんな中で、又右衛門の息子も、自分の父親を恥じて自死する。

  追腹をしない誓約をした石田又右衛門は、あらゆる屈辱に耐えながら生きていた。そんな中で、妻の佐和が、彼が死なないでいることを喜んでくれて、それだけが彼の支えであり、慰めとなっていた。だが、その佐和も病が重くなり死を迎え、又右衛門は、全くの孤独となった。藩内で、彼は臆病者と罵られ針の筵に座っているような心地であった。

   そうして2年の歳月が流れ、ある日、同じように追腹を斬らない誓紙を立てた小野寺郡代と出会う。彼もまた、同じように人々の蔑みを耐えて生き、そしてそれに疲れていた。そして、それから数日後に、追腹は斬らなかったものの彼は餓死したのである。

   そのことがあってから石田又右衛門は自らを改める。人々の蔑みを耐えることだけの日々をやめて、「お前らに人間の値打ちがわかるか」という思いをもって堂々と生きる道を選ぶのである。こうして、月日が流れ、彼は年老いた。その間に藩の執政は二度変わり、殉死を称えていた者が実権を握ったが対したことはできず、再び罷免されていた梶谷半左衛門が首席家老が復権した。その復権には、徳川幕府が正式に殉死を禁じたことも大きかった。又右衛門は、それらを眺めながら、「陋習にとらわれてきたのは自分を侮蔑した家中であって、そのくせ絶大な権力が決めたことには従順ではないか。物事が正しいか否かは権力の意向とは別のものであるのに、自ら判断を放棄したも同然だろう。そういう輩がのうのうと生き長らえて、一途な人が死んでいった」(文庫版   96ページ)と思うのである。

  彼は、毅然として生きることを決め、そのように生きてきたが、孤独であった。だが、長い間彼に仕えて来た女中から彼が追腹を斬らずに生きることを喜んだ病んでいた妻の佐和が「何を幸せに思うかは人それぞれで、たとえ病いで寝たっきりでも日差しが濃くなると心も明るくなるし、風が花の香を運んでくればもうそういう季節かと思う、起き上がりその花を見ることができたら、それだけでも病人は幸せです」と言っていたことを聞く。その時、義絶されていた娘が成長した孫を連れて来たのである。「又右衛門はもう一度、背筋を伸ばし、かたく拳を握りしめた。震える唇を噛みしめ、これでもかと凛として二人を見つめながら、やがておろおろと

   なんという壮絶な終わり方だろうかと思う。「おろおろと泣き出した」という短い一文が、この物語の主人公の生き様のすべてを物語る。「生きる」、それはすべてこの瞬間に凝縮され、この瞬間があれば、人は生きていける。そういうことが、しみじみと伝わる。


2013年8月19日月曜日

乙川優三郎『蔓の端々』

「猛暑」、「酷暑」、「炎暑」、どれをとっても暑い。ほんの少し身体を動かすだけでも汗が滴り落ちる。この暑さはまだまだ続くらしい。明日から休暇に入る。

 週末から乙川優三郎『蔓の端々』(2000年 講談社 2003年 講談社文庫)を読んでいた。これは、小藩の政争に否応なしに巻き込まれた軽輩の下級武士たちの姿を描いたもので、本書の中に、「おそらく一生を足軽として終えるであろうことは物心がついたころには覚悟し、上から命じられるままに働き、これからも藩の豊約に関わりなく暮らしに追われてゆくに違いない。言ってみれば、か細い蔓の端に生まれたために、否応なく大木にしがみついて生き延びるしかない人間だった」(文庫版 236ページ)という一文があるが、その「か細い蔓の端」で生きなければならない人間の物語である。

 主人公の瓜生禎蔵は、幼い頃に父と母を失い、下級藩士であった瓜生仁左衛門に引き取られて育てられ、十法流という流派の剣術道場で修行を重ねている青年だった。養父は武具方の軽輩で、禎蔵は養父の養子となって武具方のあと目を継いでいた。だが、禎蔵は、いずれは自分の力で這い上がることを志して剣の修行を重ねていた。彼の隣家の娘八重とは幼馴染で、禎蔵は八重を嫁に貰おうと考えていたし、八重も幼い頃から禎蔵を慕い、二人は相愛のように思われていた。

 ところが、ある日突然、禎蔵の剣術道場の親しい友人で、剣の腕では禎蔵と双璧をなすと言われていた黒崎礼助と八重が出奔した。禎蔵はわけがわからなくなり、友人の礼助に裏切られ、想いを寄せいていた八重に裏切られ、失意のどん底に落ちる。そして、その後、藩の実権を握っていた首席家老が何者かに暗殺され、暗殺者として黒崎礼助の名前が上がり、追っ手がかけられる。だが、礼助と八重の行くへはようとしてわからなかった。黒崎礼助は藩の剣術師範を務めるほどの腕で、追っ手を斬り抜けていた。

 しかし、この首席家老の暗殺を皮切りにして、藩の大目付の詮議が始まり、藩内で横行していた不正も暴かれて、30余名の藩士が処分され、執政たちの顔ぶれが変わっていった。役替えで、瓜生禎蔵の飲み仲間であり剣術道場の同僚で同輩である三代川勇吾は寺社目付となり、瓜生禎蔵は剣術師範となった。だが、出奔した黒崎礼助と八重の行くへはわからないままだった。そして、この状態で藩の実権を巡る争いが上層部では隠密裏に進行し、暗殺された元首席家老の一派と新しく主席家老となった一派の対立が続いていた。それには、病弱な藩主の跡目相続の問題も絡んでいた。その抗争は、一年の間に次々と藩の重職たちが四人も暗殺されるという事態を生んでいった。

 下級武士としてなんとか這い上がりたいと思っている三代川勇吾、剣術師範として否応なく藩内抗争に巻き込まれ、多くの軽輩たちの犠牲を出し、心を痛めていく瓜生禎蔵。そうした姿が克明に描かれ、それに、礼助と八重の出奔の事実に深く傷ついている重い心を抱えた禎蔵の心象風景が重ねられていく。やがて、十七年前にも同じような権力争いによる藩内抗争があり、瓜生禎蔵の実父が暗殺者として仕立てられ、黒崎礼助の父親に殺され、その黒崎礼助の父親も闇に葬られるようにして殺されていたことが分かっていく。

 藩の上層部が変わっても、下級武士たちの暮らしは変わらず、むしろ使い捨てのようにして取り扱われ、さらに貧困を招く状態が続いていた。「この一年の間に、守口、大島、小津、原田と暗殺が続いた果てに、家中同士の、それも権力とは無縁の軽輩たちの斬り合いがはじまろうとしている。何のための抗争なのか、下のものには分からぬだろう。少なからず織部家老に関わってきた禎蔵にさえ、二転三転する状況の中では、何が正しく、どこでどう道を間違えてきたのかは分からなかった」(文庫版 334ページ)のである。だが、陰湿な抗争は続き、命令されるだけの軽輩どうしの激突が始まり、多くの死者と傷ついた者が出た。だが、上の者たちはそれをただ見ているだけだった。

 多くの血が流れた後で、藩内抗争は一段落つくが、抗争によって得られたものは上の者が分け合うだけで、実際に血を流して死んだ軽輩には、わずか三両の報奨金が出ルコとが決められただけで、それもなかなか実行されず、傷ついた者たちは捨て置かれた。「役替えもほぼ済んだというのに、生き残ったものの半身の自由を失った三弥に未だ褒賞の沙汰がない。」禎蔵は、「藩という器の底に沈んでいる土砂を見るような重苦しい気分」になっていく(文庫版 348ページ)。

 そして、彼らが何とか生きることができるように瓜生禎蔵は苦心する。そんな中で、藩の重職暗殺に手を染めていた三代川勇吾が殺される。三代川の妻は少し家格が上のところから嫁いで来ていたが、暮らし向きの質を落とさずに傲慢なところがあり、そのために三代川は借金をし、その金のために暗殺に手を染めていたが、その暗殺を理由に強請ったために殺されたのである。彼の殺害に彼の妻が手引きしていた。三代川の妹は、借金を理由に無理矢理に吝嗇家の武士のところに嫁がされていたが、抗争の際に殺され、婚家を出され、行くところがなくなっていた。

 だが、半身を失った三弥は、畑を作って働くと言い出すし、三代川の妹は料理屋の女中として働き始める。それらを見て、「三代川は食うために生きるのは惨めだというようなことを言っていたが、人間は無心に日々の営みに追われている方が幸せかもしれないという気がした。そうして生きていれば、腹の底から笑える日が来ないとは限らないし、下手に欲をかくから笑えることまで笑えなくなる」(文庫版 366ページ)と禎蔵は思っていくのである。「痩せ地に芽を出した葛のようで、人の力は計り知れない」(文庫版 413ページ)のである。

 こうして一段落ついた後で、出奔した黒川礼助と八重の行くへがわかり、瓜生禎蔵は二人を捜し出す。八重はやつれ、苦労しているのが一目で分かるほどだったが、「何故?」という問いに、まだ隣家どうしだった頃に真剣に禎蔵の嫁になりたいと言った時に禎蔵が笑ってしまったことで、禎蔵の嫁になることを諦め、その頃に黒川礼助に真実に求められて黒川の嫁になることを決心したといい、その黒川が暗殺者となったとき、もし黒川が断れば禎蔵に暗殺者の命が下ることもあって、首席家老を斬って出奔したのだと打ち明ける。そこには藩主の座を巡る黒い陰謀と恨みが渦巻いていたと事の真実を告げるのである。そして、もうどうかそっとしていて欲しいと語る。瓜生禎蔵は、いったんは黒川礼助と斬り合う覚悟をするが、二人を残して国元に帰っていく。「国に帰れば、待っているのは偽善と窮乏だが、そんなところにも根を張り、たくましく生きている人間が大勢いる。嵐が去って大木は次々と倒れたが、葛はもう新しい葉をつけはじめている。仮にいつかもっと大きな嵐が来ても、彼らは生き残るだろう」(文庫版 443ページ)と思うのである。

 蔓の端々のようにして生きている人間、それは、端々として捨てられるかもしれないが、存外、したたかにたくましく生きるのである。本書は、そうした人間の姿を描くのである。描写や展開が綿密でどの文章にも作者の「心」が込められているようで、これもまた優れた作品だと思う。同じモチーフでも最近の多くの書き下ろし時代小説とは、随分質が違うのを感じる。
 

2013年8月14日水曜日

白石一郎『銭の城』

 文字通りの記録的な「酷暑」が続いている。もう脳みその半分以上が溶けてしまったのではないかと思えるほどの暑さの連続であるが、そろそろピークを超えて欲しい。気象庁の予報では、まだしばらくは続くらしいが。

 この暑さの中で、白石一郎『銭の城』(1983年 講談社文庫)を爽快な気分で読み終わった。本書には、表題作の他に『さいころ武士道』という、これも爽快に読める作品が収められている。

 『銭の城』は、戦国末期、豊後(大分)の大友家、肥前(佐賀)の龍造寺家、薩摩の島津家が九州の覇を巡って争っていた時代に、壱岐の百姓の息子が、子どもの頃に見た博多の豪商島井次郎右衛門の姿に憧れ、当時は蔑視されていた商人になることを決断し、博多に出てきて、持ち前の才覚を発揮して博多でも有数の卸商人となっていく姿を描いた成功物語であるが、よくあるような「成功者のいやらしさ」がどこにもなくて、実に爽やかに描かれているし、そこで発揮される商人としての才覚にも面白いものがある。主人公の商人としての才覚が人間としての才覚ともなっているからである。

 壱岐の水飲み百姓の子であった右近は、母親と妹たちとで貧しい暮らしをしていたが、自ら進んで読み書き算盤を学んでいくような子であり、豪胆で、一本筋の通ったような子どもだった。父親は、当時海賊として玄界灘を暴れていた松浦党の水夫として徴用され、朝鮮か明(中国)で死亡したと伝えられていた。彼は一家の暮らしを守りながら生活をしていた。

 だが、彼の豪胆さに目をつけた松浦党から海賊に徴用されそうになり、島抜けをして博多にでる。彼は、当時は「言をもって他人を欺き、謀(はかりごと)をもって人目を抜く者」として蔑まれていた商人になるつもりであった。代官や供侍を恐懼させるような博多の豪商であった島井次郎右衛門の姿を見て、自分も島井次郎右衛門のような人間になりたいと願ったのである。

 ところが、商売のいろはも知らず、博多の市で、もってきた壱岐するめを売ろうとして市場荒らしとして殺されかける。だが、そこに市場監督の島井徳太夫(次郎右衛門の息子で後の豪商島井宗室)がやってきて命を助けられる。右近は、命は助かったが途方に暮れ、さらに博多の無頼の子どもたちの集団である「博多わらべ」に襲われる。だが、持ち前の胆力を発揮して「博多わらべ」の一団に加わる。彼らは博多を支配して滅んだ大内家の家臣の子どもたちなどを含む浮浪児の集団で、強盗やかっぱらい、売春などありとあらゆることをして混乱した社会の中で生き延びた子どもたちだった。

 だが、強盗に入った先で捕縛された一人が殺され、博多わらべたちに動揺が走る。そのときに、仲間同士が結束を固めて互いに助け合っている姿に気づいていた右近は、彼らの「結束した仲間意識」を用いて、これを善用できればと考え、まともに協力して働くことを提案し、博多の町を支配していた町会所に出かけ、町会所の年行司の豪商の神屋紹策とかけあって町会所の人夫として雇って欲しいと申し出るのである。

 右近はそのために博多の町政に関することを自分の足で調べ、社会状況を考え、町に必要なことを調べていた。こうした右近の熱意と物事を見る目、物怖じせずにまっすぐに進んでいく力で、博多わらべをまとめ、交渉に成功して、こうして博多わらべの仕事を始めるのである。彼と出会った豪商の神屋紹策もそんな彼がいたく気に入り、援助の手を差し伸べていく。また、読み書きもできない博多わらべの浮浪児たちに読み書き算盤を習わせていくのである。博多わらべの頭領だった牡丹も右近に想いを寄せていくようになる。

 博多わらべの仕事は順調に伸びていき、そのころ危険なためにあまり取られていなかった陸上輸送の道を開き、勢力を伸ばしていた佐賀の龍造寺家にまで足を伸ばすようになったりしていた。龍造寺家の鍋島直茂に出会ったりする。こうして彼は「わらべ屋」を創設していくのである。だが、決して順調に進んだわけではない。知り合った鍋島直茂の要請に応えて敵対する龍造寺家に鉄砲や武器を売ったということで大友家の役人に捕縛され、拷問を受けて死にかけたりするし、彼が商売と人生の拠点とした博多の町そのものか戦火で灰燼に帰してしまうのである。

 博多は、元々、周防地方(山口一帯)を支配していた大内義隆の配下にあったのだが、家臣の陶晴賢に殺され(陶晴賢は毛利元就によって滅ぼされた)たあとは、豊後の大友宗麟の領地となっていた。だが、戦国末期になると大友家で内乱が起こり、それに肥前の龍造寺家、中国地方一帯を支配するようになった毛利家の介入によって、戦闘地帯となり、灰燼に帰したのである。

 右近は、博多での戦火を避けて唐津に避難していた神屋紹策の下に身を寄せ、そこで海上貿易や商売の様々なことを学び、やがて、博多の町を興すために博多に帰る。焼け野原となった博多の町で彼がとった再興策が奇抜であった。まず、彼は唯一焼け残ったが荒れ果てていた櫛田神社を修復し、それを中心にした「博多山笠」を復興させることで人々の思いを集め、門前市場を開催させて成功してくのである。こうして彼は博多でも有数の卸問屋となり、やがて海上貿易に船出していくのである。

 もちろん、この作品には右近の恋も描かれていくが、それもまた面白い展開になっている。成功物語なのだが、描写や語り口に爽やかな楽天性が漲っているから、読後感がすばらしい。

 『さいころ武士道』は、福岡藩黒田家の大身の旗本の次男坊だが、剣の腕も学問もあり、藩主の小姓として仕えていた小池半次郎が、博打好きが高じて城中でサイコロ博打をし、それが発覚して長崎に左遷され、そこで元禄の腐敗した幕府に一石を投じていくという人生をかけた大博打を打っていく物語である。

ここには、長崎警護を命じられて長崎に駐屯していた福岡藩の藩士たちの姿や権力を利用して長崎の唐蘭貿易を利用して私腹を肥やそうとした傲慢な商人、貧しい暮らしを強いられてきた人間の金への執着、徳川綱吉の「生類憐れみの令」で父親を失った娘が旅芸子として登場するなど、登場人物たちが多彩で、その中での主人公の恋なども描かれ、まるで博打を打つように真っ直ぐに進んでいく主人公の姿が、その楽天性と共にテンポ良く描かれている。

これを読みながら、話の展開は全く異なっているが藤沢周平の『用心棒日月妙』の主人公である青江又八郎を思い起こしたりした。本作の主人公の小池半次郎もなかなか魅力的で、この作品の続編が書かれてもよかったのに、と思ったりする。

白石一郎の作品は、これまでも『海狼伝』や大友宗麟を描いた『火炎城』、『十時半睡』のシリーズ、明治初期の横浜を描いた『横浜異人街事件帖』などを読んでいたが、本書はまた一味違った作品で、彼の力量と性格がよく表れた作品と言えるような気がする。

2013年8月12日月曜日

上田秀人『お髷番承り候 潜謀の影』

 猛烈に激しい暑さが続いている。こう暑い日が続くと、身体が参ってしまい、この夏は、もうどこかに出かける気力も湧いてこないが、日々の暮らしの営みがあるだけに、そうも言ってられないところもある。これがいつも少々「しんどい」ことではある。

 読書の方もこのところ軽く読めるものばかりを読んでいるが、上田秀人『お髷番承り候一 潜謀の影』(2010年 徳間文庫)を気楽に読んだ。これは徳川将軍の小姓(身の回りの世話をする)のうちの髷の世話をする「お髷番(月代御髪番―さかやきおぐしばん―)」が4代将軍徳川家綱の密命を帯びて活躍していく物語で、初めからシリーズ化が計画されているものの第1作目の作品である。「お髷番」というのは、まあ、将軍専用の床屋のようなものだが、将軍のそば近くにいて、唯一将軍の身体に刃物を当てることがゆるされた者であるとされ、それだけに信頼されて密命を帯びていくという設定である。こういう係りが実際にあったかどうかは定かではないが、将軍の身の回りの世話をする小姓は臣下の旗本の出世街道の一つではあった。

 主人公の深室賢治郎(みむろ けんじろう)は、松平の姓をもつ譜代の旗本の妾腹の子であったが、幼い頃に4代将軍となる徳川家綱の遊び相手となる「お花畑番」であり、通常はそこから小姓、側役と出世していくはずのところ、家督を継いだ兄の悋気で役を退かされ、格下の深室家に婿養子に出されていた。婿養子といってもまだ幼く、深室家の娘の三弥との婚儀をしたわけではなく、深室家でも肩身の狭い思いをしながら暮らしていた。

 徳川家綱は、父の3代将軍徳川家光の死去に伴ってわずか11歳(満10歳)で将軍位を継いだが、彼が幼い頃は家光時代の、いわゆる寛永の賢老といわれる名臣たちの補佐があり、その頃は政務を老中たちに任せて「左様せい」と決済するだけだったことから「左様せい将軍」とも言われ、脳に障害があったのではないかとか、色々言われたりしたが、温厚で文化や学問に対しての趣向や後半の治世などを見ると、江戸幕府が武断政治から文治政治へと切り替わろうとするときに、それをうまく乗り切った人物であるといえる気がする。ただ、彼はあまり身体が丈夫ではなく、病弱で、30代の半ばまで男子が生まれず、そのために幕府内で後継者をめぐる暗躍が行われた。享年40で死去し、実は彼によって徳川家の直系は途絶えている。

 本書は、その家綱の治世の後半が時代として設定されており、老中が幅を利かせている幕府内で、なんとかして信頼できて自分の手足となってくれる人物を欲した家綱が、かつての「お花畑番」として寵愛した深室賢治郎を「お髷番」として登用し、彼に密命を与えていくという筋書きである。

 事柄の発端は、3代将軍家光の死去と共に起こった「慶安の変(由井正雪の乱)」の裏側に紀州徳川家の徳川頼宣がいるのではないかということで、頼宣を江戸留置にしていたのだが、その頼宣が紀州に国帰りを求めたことに始まる。その際、「我らも源氏でございます」という謎の言葉を頼宣が語り、その言葉の真意を深室賢治郎に探らせるというのである。たがてそれが将軍の後継をめぐる陰謀に繋がっていくことが明らかになっていく。

 家綱が病弱で子がなかったために、そのころ、将軍位を巡って尾張徳川家、紀州徳川家の御三家はもちろん、家綱の兄弟である甲府藩主の徳川家綱、館林藩主である徳川綱吉などが将軍候補としてあげられ、それぞれが対立する状況にあったのである。

 本書の中で面白い歴史解釈として、家光の乳母で大奥を作った春日局が、実は家康とのあいだに子を為していたことと「慶安の変」で紀州徳川家の名前が使われたのは、徳川頼宣を排除するための策謀であったが、これを察知した松平伊豆守信綱があえて頼宣を江戸留置とすることで、春日局の流れを組む甲府徳川家の策謀を阻止しようとしたとされているところである。もちろん、その歴史的な確証はなく、作者の解釈である。「慶安の変」をそういう解釈で展開するのはなかなか面白い。

 物語の中で、「お髷番」となった深室賢治郎は命を狙われていく。それは、家綱の暗殺などを企む者たちのしわざであり、小太刀の業を身につけた深室賢治郎はこれとの対決を余儀なくされていく。

 物語は、密命を負わされた青年武士、権力者たちの暗躍、刺客たちとの死闘、それに加えて男女の恋や愛情など、作者のほかの作品と同じような構成をとっていて、格別新しいものではないが、文章のテンポもあって一気に読ませるものになっている。気楽に、気ままに読むにはちょうどいいような気がする。

2013年8月9日金曜日

坂岡真『冬の蝉』

 朝からうだるような暑い日差しが射している。このところ眠りも浅くなっているが、幸いにして急ぎの仕事もなく、比較的のんびりとすることができるようになり、暑い夏はのんびりするに限る、と思ったりしている。もっとも、わたしの場合は年中のんびりしてはいるのだが。昨日は新宿伊勢丹の屋上ガーデンで「慰労会」と称して、E教授ご夫妻やT氏らとビールを飲んできた。

 その往復の電車の中で、坂岡真『冬の蝉』(2008年 徳間書店 2011年 徳間文庫)を読む。これは、これまでの文庫本書き下ろし作品とは異なって、作者の初の単行本として発表された『路傍に死す 冬の蝉』を文庫化し、その際に、改題と共に「流灌頂(ながれかんじょう)」という短編を加えて出されたものだが、これまで『うぽっぽ同心』のシリーズとか『照れ降れ長屋風聞帖』のシリーズとか、どちらかといえば包容力があって鷹揚でいながらも情のある人物を主人公にした作品を書いてきた作者が、一変して、シリアスで非常に重いテーマで書いた短編集である。

 ここには、「逆月」、「龍神」、「鬼(のぎ偏のない「おに」が使われているが、わたしの変換ソフトでは表示できなかった)」、「案山子」、「冬の蝉」、「流灌頂」の6編の短編が収められており、いずれも罪を犯した人間がその贖罪を求めて彷徨う姿が描かれている。

 第一話「逆月」は、武士の義と友情、そして愛の狭間で死んでいく人間の物語である。須坂藩士の潮田源兵衛と小柳新九郎は、共に直心影流の道場で龍虎と言われる腕前で、お互いを認め合っていた仲であり、道場主の娘の安芸乃に想いを寄せていたが、安芸乃は何事にも優れていた小柳新九郎に思いを傾け、新九郎と安芸乃は婚約をした。

 だが、藩の勢力争いの中で、二人に一方の勢力であった次席家老を斬る密命が下され、新九郎が手をかけ、その際に顔を見られて出奔する。それから7年の歳月が流れ、新九郎は苦労を重ね、源兵衛は安芸乃と結婚して幸せな家庭を築いていた。

 だが、7年前の事件は、次席家老を斬ることを命じた者の陰謀であり、今ではその男が次席家老になっており、源兵衛はそのことを知りながらも安芸乃との生活を壊したくないので口をつぐんでいた。彼は妻の安芸乃がまだ新九郎に想いを残していることも知っていた。そして、自分が口をつぐんで今の生活を行っていることに自責の念を抱いていた。

 そうして、新九郎が再び帰ってきて、陰謀を図った今の次席家老を惨殺し、逃走したのである。潮田源兵衛は小柳新九郎の捕縛を命じられ、彼と対決しなければならなくなった。

 安芸乃は、「どんな惨めな姿になっても、きっと、お戻りください」と懇願し、源兵衛は妻の安芸乃が新九郎ではなく自分のことを心底案じてくれていることを知るが、源兵衛と新九郎は斬り結んで、結局、二人共死を迎えるのである。

 源兵衛は、自分が一切の口をつぐんでいることで、友人の新九郎を裏切り、武士の義を裏切り、表面の安定だけを望んでいるのではないかと自責の念に駆られていくが、安芸乃の愛によってそれが氷解していくのを感じる。結局、罪は、それがどんな形のものであれ、愛によってしか贖われない。この物語はそんなことを考えさせる作品であった。

 第二話「龍神」は、因業、あるいは同じように繰り返される過ちということを感じさせるような作品だった。公儀御馬預役の組下に入れられた草壁求馬は、傲慢不遜な上司の新妻と不義を犯すようになり、不義の現場に上司に踏み込まれて斬殺されかけるところを偶然が幸いして、女性は上司に斬り殺されたが、反対に上司を殺して逃げた。

 だが、彼は追っ手の影に怯える者となり、逃げる途中で、旅の僧から北の果てにあらゆる罪を食ってくれる龍神がいる湖があると聞き、そこへと向かう。途中で路銀が尽き、空腹に苛まれながら農家を襲うが失敗し、ついに力尽きる。だが、大男に助けられ、そこにしばらく身を置くようになる。

 その大男のところには口の聞けない娘がいて、娘は求馬に自分を連れて逃げて欲しいと頼み、二人は交わる。大男もまた、かつて南部侍だった時に、自分の妻を上司から饗応に召し出せと言われ、彼は断るが、夫の立場を慮った妻が饗応先にいった時、彼はその場に駆け込んで相手の男と妻を刺殺して逃げていたのであった。

 また、娘の母親も、大男の妻同様に、嫁いだ先から饗応のために一夜の伽を命じられて、子までもうけてしまったことから、嫁ぎ先を追い出されて自ら命を断っていたのであった。そして、逃げていた大男に娘は拾われ、育てられ、やがて大男の妻とさせられていたのである。

 求馬は娘を連れて逃げたのは良かったのだろうと思うが、やがて龍神が住むという十和田湖にたどり着いた時に、追いかけてきた大男は、娘を殺して来て、その首を投げて求馬を殺すのである。

 同じような過ちが繰り返される。それは因業かもしれない。この物語に救いはない。だが、それが「罪のゆるし」を知らない人間の現実だろう。男と女が、それがささやかなものであっても、現状から逃れたいという思いで結ばれるとき、その関係は因業となり、出口のない底なし沼に引きずり込まれていくのかもしれないと思う。

 第三話「鬼(表字はのぎ偏がない)」は、日本橋の橋番として、ただ晒し刑の罪人を見続けてきた男が、自分の人生の中でただ一度の恋に命をかけ、そしてまた今度は自分が晒し刑の罪人として晒される話である。男の命がけの行動は報われないし、全ては無意味に見える。だが、彼は人を恋することによって命のきらめきを知った。本作の中ではこれが唯一救いのある話のような気がする。

 第四話「案山子」は、友人の依頼によって藩内の抗争に巻き込まれた男が、「武士の義」のために反乱に加担し、そのために愛する妻は自害をし、自分を巻き込んだ友人は裏切り、その絶望の中で斬り合いを繰り返して死んでいく話である。彼の絶望が克明に描かれていく。

 第五話「冬の蝉」は、かつて加賀騒動に加わって藩主の影武者を鉄砲で撃ち殺した男が、追っ手を逃れて山中で孤独な生活をし、贖罪のために一万体もの立木仏を彫り続けていたが、ついに追っ手が来て、お互いに鉄砲で対峙することとなる。だが、その時に雪崩が起きて、彼の追っ手も、彼が彫り続けていた立木仏も雪に流されてしまうという話である。そして、それから百年後、すべてが朽ち果てた中に、彼が彫った一万体の立木仏が人知れず立っているという話である。

 これは、短編として深い余韻が残る作品である。彼の贖罪は長い年月の中で沈黙のうちになされていくのである。

 第六は「流灌頂」は、文庫化にあたって書き下ろして加えられた作品であるが、三年前に役人を斬り、凶状持ちとなった男が、罪の意識に苦しめられながらも、女郎として売られた娘を助けていくのだが、それが禍してついに捕縛されて死罪を言い渡されていく話である。「流灌頂」というのは、お産で死んだ人の霊を弔うために、川辺に棚を作って布を張り、そこを通りかかった人に水をかけてもらうという風習だが、彼の贖罪は、身も知らぬ娘のために働いて、「ご恩は一生忘れません」と言われることで、成し遂げられていく。

 ここに収録されている作品は、それぞれの罪を背負った人間が、罪の意識に苛まれながらも贖罪の旅をして、やがて死を迎えるというもので、その死の迎え方がそれぞれに異なっている。そして、愛することによって贖罪が果たされていく姿を描いたもので、それぞれに含蓄のある作品になっている。

 物語の展開としては第一話「逆月」、短編としての作品の出来としては表題作である「冬の蝉」が優れていると思う。
 

2013年8月7日水曜日

峰隆一郎『秋月の牙』

 暦の上では今日は立秋だが、盛夏というより朝から猛暑で、今週は気温がうなぎ登りに上っていくようだ。

先日、演歌の作詞家で脚本も手がけているM氏と映画化される葉室麟の『蜩ノ記』について話をしていて、映画のロケ地が東北らしいと聞き、被災地をロケ地に選ぶのはとてもいいと思うが、あの光景はどうも九州ではないだろうかという話になった。あの光景は天領ではあったが豊後(大分)の日田か、あるいは山間の秋月がふさわしいような気がしていたからである。

 それで、先日図書館に行った折に峰隆一郎『秋月の牙』(1996年 光文社文庫 2011年新装版)というのがあったので、ただ題名だけに気を惹かれて借りてきて読んだ。峰隆一郎という人は、時代小説の文庫本書きおろし作品の先駆的な役割を果たした人ではあったが、人が好むような売れるエンターテイメント性だけしか感じたことはなかった。それでも、「秋月」のことが記されているのだろうと思って読んだ次第である。

 だが、これは、秋月藩士の西水又七郎(すがい またしちろう)が、妻の不義密通を知らされ、相手の男を殺して出奔し、すべてを失って山賊の仲間になり、そこで人斬りを覚え、やがて江戸に向かい、江戸で彼を仇として追ってきた者たちを返り討ちにしながら生き延びていくという物語を描いたものである。

 二十歳になる又七郎の妻の沙登(さと)は、又七郎が参勤交代で江戸に行っている間に藩の重臣の息子で女好きの見次左之介(みつぎ さのすけ)に言い寄られ、身を任せ、その性技に溺れていく。江戸から帰参した又七郎は、そのことを知らされ、一時は家を守るために事を自分の胸に収めようとするが、左之介と沙登の密会の現場に向かい、左之介を斬り殺す。沙登は夫がある身でありながら命懸けで左之介との性技に溺れ、やがてそれが発覚して自害する。又七郎には老いた母がいたが、その母も又七郎が武家を捨てる覚悟をしたことで、重荷にならないように自害し、又七郎は藩を出奔する。

 又七郎が不義を働いた沙登を殺さずに左之介だけを殺したために、左之介を溺愛していた重臣である父親は、仇討ちとして弟や妹、親族から人を募って又七郎のあとを追わせる。

 又七郎は、、とにかく江戸へ向かおうとするが、途中の冷水峠で山賊に襲われ、その山賊の頭領から気に入られて山賊の仲間になり、山中で山賊としての生活をする。その間に、自分の剣はただ道場での竹刀稽古の剣であり、これでは人を斬れないと悟り、自分の腕を磨いて人斬りに精を出していく。

 やがて凄腕の人斬りとなった彼は江戸に向かい、出会う女たちと交わり、いわば「ヒモ」として糊口をしのいでいく。

 やがて、追っ手として江戸にやって来ていた左之介の妹の恵と交わり、その最中の隙が出てきた時に「ふぐり(睾丸)」を握り潰されて捕らえられ、藩主の前で対決させられ、彼はそれをことごとく打ち破る。ただひとり生き残った左之介の妹の恵は、実は仇討ちなどどうでもよく、江戸に出てきて自由に生きたいと願っていただけであるから、又七郎の体に溺れていくようになる。

 物語としてはそれだけであるが、早い話、女との性交の話が繰り返される艷物の時代小説だった。ほとんどの場面で性交が微に入って描写されているが、だいたいワンパターンのような気もする。

 一箇所だけ、又七郎が自由奔放に男女の交わりが行われる山賊の生活の中で「女の所有権がないというのはいいことだ。所有権があるから争いが起こる。沙登は又七郎の所有物だった。それを左之介が奪った。そのために左之介を斬ることになった」(202ページ)という描写があるが、人が人を所有する権利など、どこにもないというのは真実である。もちろん、本書は男の勝手な論理で描かれて、男の身勝手さと女のしたたかさが記されていくのだが、自由奔放に男女が交わっても、やがて残るのは虚しさだけに過ぎないのも真実だろう。肉体的な欲求の充足と精神的充足は、人間においては複雑に絡み合って、やがて一つとなるもので、片方だけでは虚しさしか残らない。

 なんでもこれは シリーズ化された作品であるということだが、なにか同じような話が展開されるだけのような気がしないでもない。艷物というのは少し上品な言い方で、ありていに言えば、アダルトビデオの発想よりはマシではあるが、エロとグロ、そんな作品だった。もちろん、その手の小説が好きな人にとっては面白い作品なのかもしれない。

2013年8月5日月曜日

火坂雅志『武者の習』

 八月の声を聞いて、再び太平洋高気圧が関東地方を覆い始め、猛暑を迎えようとしている。今年の暑さは、本当に身体にこたえる。冷えたビールを片手に夕涼みをする日々にならないかなあ、と思ったりする。

 先日、図書館に行った折に、火坂雅志『武者の習』(2009年 祥伝社文庫)があったので、借りてきて読んだ。これは、「尾張柳生秘剣」、「吉良邸異聞」、「鬼同丸」、「結城恋唄」、「愛宕聖」、「浮かれ猫」、「青田波」の7篇の短編が収められた短編集だが、それぞれの短編は一応のまとまりがあるものの、作者が長編で示したような作風をあまり感じることなく、あっさりと読んでしまうような作品だった。

 第一話「尾張柳生秘剣」は、尾張柳生を創設した柳生兵庫助利厳(15791650年)の長男であった柳生清厳の姿を描いたもので、剣術兵法者である父の兵庫助利厳との確執と美しい叔母へのかなわぬ恋に悩む姿が描かれている。

 柳生清厳は、幼少から読書を好み、詩歌を善くするなどの学問を積み、父親の兵庫助利厳の柳生新陰流もよく身につけて、早くから尾張藩主の徳川直家の小姓として仕え、特別に300石を賜るほどの人物であったが、剣の天分は、天才と言われた弟の柳生連也斎厳包には劣り、やがて、病を得たために蟄居となり、島原の乱が起こったときに、このまま病死するのは不名誉なこととして島原に行き、そこで討ち死にした人であった。

 本作では、彼の名前が新左衛門と記されて、柳生新左衛門といえば、柳生新陰流の祖であった柳生石舟斎を思わせるので混同しやすいし、彼の境遇を妬んだ父親の兵庫助利厳によって殺されかけるなどの設定になっている。恋に悩み、剣に悩み、父親との確執に悩みながら修行を積み、やがては父親と互角に渡り合える剣を身につけるようになるが、「剣鬼であるよりも、おれは人でありたい」(124ページ)と語って去っていく姿が描かれる。

 第二話「吉良邸異聞」は、1638年(寛永15年)に鳥取で急死したと伝えられる剣豪と言われた荒木又右衛門が赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際に現れて、討ち入りの夜に堀部安兵衛と対決したという話である。

 荒木又右衛門の死については謎が多く、実際には1643年(寛永20年)という説もあるが、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、1702年(元禄15年)であり、まさにこれは「異聞」ではある。ただ、「鍵屋の辻の決闘」(1634年 寛永11年)で本懐を遂げて剣豪としての名をなした荒木又右衛門と「高田馬場の決闘」で名をなした堀部安兵衛との対決という面白い組み合わせではある。

 第三話「鬼同丸」は、摂津(兵庫県)で初めて武士集団を形成し、武家の源流ともなった清和源氏(第56代清和天皇の子どもたちを祖とする皇族)の二代目、源満仲(912997年)の長男で、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『御伽草子』に登場する源頼光(9481021年)の物語で、彼が「鬼同丸」と呼ばれる悪党と対決していく姿が描かれている。

 源頼光は、大江山での酒呑童子退治や土蜘蛛退治といった説話で知られているし、渡辺綱や坂田金時などの四天王と呼ばれる人物たちを率いていたという説話が残されているし、本作でも剣の達人として描かれている。物語はそれと同時に、頼光の祖父で清和源氏の祖でもあった源経基の若い妻である叔母の「美子」との道ならぬ恋も描かれる。

 第四話「結城恋唄」は、結城紬にまつわる話で、徳川家康の子でありながら、家康から忌避されて、兄の結城秀康の養子となった松平民部の悲しみを描きながら、彼が新しい結城紬を生み出そうとする若い職人と織子の恋の橋渡しをして、旧来の風習が変わっていく中で新しい姿を求めていくという筋立てである。

 第五話「愛宕聖」は、室町幕府の管領家(将軍を補佐して幕府の政務を司る)であった細川政元の野望を彼に使えるようになった若い武士の姿を通して描いたもので、本作では、細川政元は愛宕山に篭り、修験道を会得して恐るべき呪術の使い手となった人物として描かれる。細川政元は、やがてもう一つの管領家であった畠山家を滅ぼし、将軍の足利義材を追い出して、意のままに操ることができる足利義澄を将軍にして室町幕府を牛耳った。だが、そのあまりの傲慢さによって、入浴中に家臣から殺されている。こうして時代は戦国時代に突入していくのだが、怪しい修法を使う人物として細川政元を描いているのである。欲に固まった人間というのは怪物のようでもあるのだから、それもありかもしれないとも思うが、どうにも三文話のような気がしないでもない。

 第六話「浮かれ猫」は、幕末の剣士と言われる新選組の沖田総司が猫に取りつかれていく話であり、第七話「青田波」は、明治初期の混乱期に重税で苦しめられた貧村を自ら命をかけて救っていく武士の話である。高崎県(高崎藩)の検見役(農作物の出来を調べる役)として派遣された片柳礼三は、心底村のことを心配し、重税と冷害にあえぐ村で自分の世話をしてくれる少女の小春が身売りされると聞き及び、減税を訴えるが聞き届けられず、ついに、命をかけて減税の令を発し、責任を取って自害するが、村の窮乏を救うのである。

 第七話だけが、剣にまつわる話ではないが、この結末が、本書では一番いい。
 「あくる年―。
 越後では、青々とした稲田が豊かに風に揺れた。
 その青田波のなかに建つ片柳の墓の前に、小春は焼き味噌の握り飯をそなえ、両手をそっとあわせた。
 (また、私(おれ)の握り飯を食ってくんなせて・・・・)
 小春の目から大粒の涙がこぼれた」(327328ページ)

 こういう光景とか、一個のまんじゅうを涙をぽろぽろこぼしながら「おいしい、おいしい」と言って食べる姿とか、ようやく手に入れた肉饅頭を握りしめて、降りしきる雪の中を足を引きずって歩きながら、「ほら、おまえへのおみやげだよ。苦労をかけたね」とつぶやいて、やがて倒れて死んでいくような光景とか、そういう人間の姿には心が震えるような思いがして、それが描かれる作品には駄作はないと、わたしは思っている。