暦の上では今日は立秋だが、盛夏というより朝から猛暑で、今週は気温がうなぎ登りに上っていくようだ。
先日、演歌の作詞家で脚本も手がけているM氏と映画化される葉室麟の『蜩ノ記』について話をしていて、映画のロケ地が東北らしいと聞き、被災地をロケ地に選ぶのはとてもいいと思うが、あの光景はどうも九州ではないだろうかという話になった。あの光景は天領ではあったが豊後(大分)の日田か、あるいは山間の秋月がふさわしいような気がしていたからである。
それで、先日図書館に行った折に峰隆一郎『秋月の牙』(1996年 光文社文庫 2011年新装版)というのがあったので、ただ題名だけに気を惹かれて借りてきて読んだ。峰隆一郎という人は、時代小説の文庫本書きおろし作品の先駆的な役割を果たした人ではあったが、人が好むような売れるエンターテイメント性だけしか感じたことはなかった。それでも、「秋月」のことが記されているのだろうと思って読んだ次第である。
だが、これは、秋月藩士の西水又七郎(すがい またしちろう)が、妻の不義密通を知らされ、相手の男を殺して出奔し、すべてを失って山賊の仲間になり、そこで人斬りを覚え、やがて江戸に向かい、江戸で彼を仇として追ってきた者たちを返り討ちにしながら生き延びていくという物語を描いたものである。
二十歳になる又七郎の妻の沙登(さと)は、又七郎が参勤交代で江戸に行っている間に藩の重臣の息子で女好きの見次左之介(みつぎ さのすけ)に言い寄られ、身を任せ、その性技に溺れていく。江戸から帰参した又七郎は、そのことを知らされ、一時は家を守るために事を自分の胸に収めようとするが、左之介と沙登の密会の現場に向かい、左之介を斬り殺す。沙登は夫がある身でありながら命懸けで左之介との性技に溺れ、やがてそれが発覚して自害する。又七郎には老いた母がいたが、その母も又七郎が武家を捨てる覚悟をしたことで、重荷にならないように自害し、又七郎は藩を出奔する。
又七郎が不義を働いた沙登を殺さずに左之介だけを殺したために、左之介を溺愛していた重臣である父親は、仇討ちとして弟や妹、親族から人を募って又七郎のあとを追わせる。
又七郎は、、とにかく江戸へ向かおうとするが、途中の冷水峠で山賊に襲われ、その山賊の頭領から気に入られて山賊の仲間になり、山中で山賊としての生活をする。その間に、自分の剣はただ道場での竹刀稽古の剣であり、これでは人を斬れないと悟り、自分の腕を磨いて人斬りに精を出していく。
やがて凄腕の人斬りとなった彼は江戸に向かい、出会う女たちと交わり、いわば「ヒモ」として糊口をしのいでいく。
やがて、追っ手として江戸にやって来ていた左之介の妹の恵と交わり、その最中の隙が出てきた時に「ふぐり(睾丸)」を握り潰されて捕らえられ、藩主の前で対決させられ、彼はそれをことごとく打ち破る。ただひとり生き残った左之介の妹の恵は、実は仇討ちなどどうでもよく、江戸に出てきて自由に生きたいと願っていただけであるから、又七郎の体に溺れていくようになる。
物語としてはそれだけであるが、早い話、女との性交の話が繰り返される艷物の時代小説だった。ほとんどの場面で性交が微に入って描写されているが、だいたいワンパターンのような気もする。
一箇所だけ、又七郎が自由奔放に男女の交わりが行われる山賊の生活の中で「女の所有権がないというのはいいことだ。所有権があるから争いが起こる。沙登は又七郎の所有物だった。それを左之介が奪った。そのために左之介を斬ることになった」(202ページ)という描写があるが、人が人を所有する権利など、どこにもないというのは真実である。もちろん、本書は男の勝手な論理で描かれて、男の身勝手さと女のしたたかさが記されていくのだが、自由奔放に男女が交わっても、やがて残るのは虚しさだけに過ぎないのも真実だろう。肉体的な欲求の充足と精神的充足は、人間においては複雑に絡み合って、やがて一つとなるもので、片方だけでは虚しさしか残らない。
なんでもこれは シリーズ化された作品であるということだが、なにか同じような話が展開されるだけのような気がしないでもない。艷物というのは少し上品な言い方で、ありていに言えば、アダルトビデオの発想よりはマシではあるが、エロとグロ、そんな作品だった。もちろん、その手の小説が好きな人にとっては面白い作品なのかもしれない。
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