2013年3月16日土曜日

千野隆司『戸隠秘宝の砦』


 再び春の暖かさがようやく戻ってきた感じだが、このところの疲れがたまっているのか、ときおり身体のあちこちが痛む。それでも、今日は、桜が開花し、気分はのんびりと穏やかな時間が流れていくのを眺めている。昨日の新聞に葉室麟『蜩ノ記』が映画化されるとの広告があったが、主人公の姿を描き出すことができる俳優がいるのかどうか、人間の美しさをどうあらわすのか、映像化は難しいかもしれないと思ったりもする。

 この数日、千野隆司『戸隠秘宝の砦』(2012年 小学館文庫)の三冊を読んでいた。この作品は、第一部「吉原総籬」、第二部「気比の長祭り」、第三部「光芒はるか」の三部で、各部ごとに出版されているが、彼の作品としては珍しく宝探しの冒険時代小説となっている。

 その隠された宝というのは、豊臣秀吉が臨終間近になって将来の豊臣家のために石田三成に託した百万両にも及ぶ埋蔵金で、石田三成は真田幸村、大谷吉継とはかって長崎にあった金を密かに隠し、そのありかを記した地図をギヤマンの皿と絵馬に記し、また、財宝が眠る石窟を開ける鍵を刀のなかごに仕組んで宝刀としたというのである。宝は、真田家の所領でもあった信州上田城に近い戸隠山のいずれかにあるというし、絵馬は大谷吉継が敦賀の気比神社に奉納したという。ギヤマンの皿は長崎から財宝を運んだ廻船問屋の高嶋屋が所蔵している。そして、宝刀は長崎で船積みを取り仕切った当時の寺社奉行に託され、それが豊後府内藩(大分)の城内の宝物庫に秘蔵されたという。慶長三年(1598年)のことである。

 そして、1652年(明暦2年)、豊後府内藩の城主となったのは松平忠昭で、大給松平家を起こした。物語は、その八代藩主大給(松平)近訓の時代で、天保年間(1830-1844年)のことで、秀吉の財宝秘匿から240年後ごろのことである。

 近訓は、逼迫した藩財政の救済のために代々伝わる宝刀にまつわる話にある豊臣秀吉の埋蔵金を用いようと、妾腹の子である近忠に秘宝の探索を命じたというのである。府内藩の財政が破綻していたことは、近訓が継子問題で帰国しようとsたとき、金がなくて江戸屋敷を売り払って工面したと言われるほどで、府内藩の大給松平家は明治まで続いたが、藩内は悲惨な状態だった。

 秀吉の隠し埋蔵金というのは、まあ、納得できる設定ではあるし、近訓には妾腹の子がいたが、藩の財政立て直しに埋蔵金をあてようというような発想は、いくら本作が宝探しの冒険伝奇ロマンをもつ作品とは言え、設定としては、いささか無理がある。しかも、第一部の舞台は吉原であるが、財宝探しを命じられた近忠が吉原に身を寄せたのが藩主であった松平(大給)近訓の口利きというのも、どうだろう。確かに江戸で独自の形態を保った吉原を物語の一つの場として登場させるのは、物語を面白くするのだろうが、安直すぎる気がしないでもない。

 ともあれ、秀吉の埋蔵金をめぐっての戦いが始まる。ギヤマンの皿を預かった廻船問屋の高嶋屋の末裔から江戸店を任されている高嶋屋五郎左衛門と彼に結びついた小浜藩城代家老や側用人、そして、真田幸村が使っていた真田忍びの末裔である鼠小僧次郎吉が、秀吉の埋蔵金のことを知り、互いに近忠と争奪戦を繰り返していくのである。それに加えて、私欲で財宝を狙う高嶋屋五郎左衛門の一人娘である「お絲」と近忠のロミオとジュリエット的な恋も描き出されていく。

 舞台はやがて、吉原から敦賀の気比神社へと移り、攻防が繰り返されて、高嶋屋五郎左衛門が隙をついてギヤマンの皿と絵馬を重ね合わせて財宝のありかを示す地図を造り、大給近忠も6割ほど完成した地図を造り、宝刀は鼠小僧次郎吉が奪うという展開になっていく。

 そして、第三部で、いよいよ戸隠山での攻防が展開されることになるのである。戸隠は、天照大神が天の岩戸に隠れた時に、その前で岩戸神楽を舞い、岩戸の隙間が少し空いたところをみすまして天手力雄命(あめのたじからおのみこと)がこれを開き、塞いでいた岩戸を投げ飛ばして隠した。その岩戸が落ちたところが戸隠だという神話に基づくところで、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社からなる戸隠社がある。

 秘境といえば秘境の地で、もう数年前の冬にT大のE教授らとここを訪れて宿坊に泊まった時に、宿のボイラーが壊れていて、「お湯が出ないんだよねぇ」と言いながら冷たい風呂に震えながら入った苦い思い出がある。

 第三部では、江戸から中山道を通って戸隠に向かうまでの、財宝を狙う者たちとの攻防が描かれるし、戸隠山中での鼠小僧次郎吉をはじめとする真田忍者の末裔や高嶋屋五郎左衛門との熾烈な攻防が展開されていく。

 そして、結局は、鼠小僧次郎吉や高嶋屋五郎左衛門は戸隠の山中で命を失い、秀吉の隠し金は見つかるのだが、その大半以上はすでに真田幸村によって使われていて、わずかに一万両ほどのものが残されていただけとなる。それでも貧窮に喘ぐ府内藩の助けにはなり、一件はめでたく解決して、松平(大給)近忠とお絲もめでたく結ばれていくという結末を迎える。

 地理を丹念にたどり、情景描写を巧みに入れていく作者の作風は、ここでも十分に生かされていて、設定や善悪三者のすくみあいといった登場人物などの安易さは別にして、冒険活劇として面白く読める。

2013年3月14日木曜日

坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎3 獅子身中の虫』


 昨夜から降っていた雨もあって、今日は曇天の寒い日になった。でも、この雨で空気中に飛散していた埃や汚染物質が洗われたかもしれない。九州から桜の便りが届いた。

 先に続いて、坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎3 獅子身中の虫』(2011年 角川文庫)を読む。これもT氏がくださったもので、本書では、一流の剣客となろうとする毬谷慎十郎を唯一負かした女剣士で、いつの間にか彼の大らかさや豪放磊落さに惹かれていく丹波咲が年来の思いであった父の仇を討つことを中心にして物語が展開されていく。

 主人公の毬谷慎十郎は、江戸の三大道場の一つであった男谷精一郎の門下の中でも白眉と称された島田虎之助との立ち合い(剣術試合)で引き分けとなり、丹波道場を出奔し、金もなく、再び空腹を抱えて大路で大の字になって寝込んでしまう。そして、そこでも貧しい母娘に助けられたり、大道相撲を取っていた青葉山との勝負に買って金を稼いだり、彼に関心を持つ元仙台藩士で男谷道場の門下生の奥井惣次の世話になったりして暮らしていくようになるのである。青葉山も奥井惣次も共に仙台藩と関わりがあるが、そのことがやがて仙台藩を中心にした抜け荷事件などと関わっていく伏線となっている。

 こうした日々の中で、毬谷慎十郎は、とうとう無宿人刈りで人足寄場に送り込まれるようになる。そして、その人足寄場で彼らを利用して私腹を肥やす不正を目の当たりにしていくのである。その不正には、火盗改めや寄場奉行なども関わっていた。

 他方、仙台藩の抜け荷を探っていた公儀隠密が薩摩示現流の使い手によって斬殺されるという事件が起こる。その手口は、十年前に丹波咲の父親を殺した手口と同じであることから、咲は父を殺した犯人の探索を始めていく。丹波咲の父親も、公儀大目付からの依頼を受けて仙台藩の探索を始めていて、そこで斬り殺されたのである。

 彼女は罠に嵌められたりするが、その犯人が仙台藩の剣術指南役となったことを知り、彼と戦うために仙台藩主の御前試合に出るために仙台に向かう。

 一方、人足寄場で集められた人足たちが悲惨な目にあったり殺されたりすることを目撃した毬谷慎十郎は、不正を働く者たちと戦い、彼らを解放していくが、悪の根源であった火盗改や寄場奉行にはお咎めなしであったし、そこに薩摩示現流の使い手がいて、彼が平然と人足の首をはねたりしているのを目撃していた。そして、彼は咲が仙台に向かったことを知り、その身を案じて仙台に向かう。

 そこには、仙台藩が藩ぐるみで抜け荷をしているのではないかという幕府大目付の依頼を受けた脇坂安薫(わきさか やすただ)による探索の依頼もあった。毬谷慎十郎は、咲の行くへを探しながら、仙台藩家老と商人が結託した抜け荷事件の真相を暴く。その事件の奥に幕府老中の一人も関与していたことがわかる。ただ、その時に一緒に行った青葉山は薩摩示現流の使い手によって斬り殺されてしまう。

他方、咲は、仙台藩主の御前試合に出場し、見事に薩摩示現流の使い手を破って仇を討つ。こうして、抜け荷事件の解決と咲の仇討ちは見事に成し遂げられるのだが、さらにその奥には、幕府老中を父親にもつ火盗改組頭の旗本が関与しており、彼は自分の出世のために、父親や商人などを利用していたのである。そして、事件の真相を知っている脇坂安薫の命を狙う。

毬谷慎十郎は、その旗本も成敗していくのである。物語の展開の中で、前作で登場した闇の元締めなども登場するし、人足寄場での人間関係や私欲で繋がった人間どうしの姿も描き出されていく。そして、汚泥の中でまっすぐ生き抜こうとする主人公の姿が描かれるし、仕方なしに脇坂安薫のために働かされながらも、安薫を尊敬していく姿も描かれ、咲の想いと咲への主人公の想いが傾いていく姿も描かれる。咲はようやく毬谷慎十郎に稽古をつけることを約束して、彼がそれを小躍りするところで終わるが、こういう終わり方も爽やかでいい。

物語は、主人公と同じように大雑把に進んでいくようでいて、あちらこちらに確かな時代考証と社会背景がしっかり押さえられていて、スッキリ読めるように構成されている。 本作でこのシリーズは終わりのような気もするし、続編があるような気もするが、娯楽時代小説として気楽に読めた一冊である。

2013年3月12日火曜日

乙川優三郎『さざなみ情話』


 このところ気温が高速エレベータに乗っているように上下しているが、今日は暖かな春の青空が広がっている。桜の開花まであと少しというところだろうか。

 昨夜は、震災2周年の支援活動の報告会を兼ねた集まりに出かけてきた。「行為と存在」ということを強く感じながら、行為から存在に移行するしんどい作業が必要なのだろうと思ったりする。これがなぜしんどいかといえば、人の判断がもっぱら行為にしか基づかないからで、「何をしたか」ではなく「どうあったか」、あるいは「どうあるのか」を大事にしたほうが良いと思っているからである。

 まあ、それはともかく、乙川優三郎『さざなみ情話』(2006年 朝日新聞社)を読む。これは、 時代小説というよりも純文学作品と言ってもいいような作品だった。物語は、利根川で高瀬船を操りながら荷運びをする男と、彼が想いを寄せる松戸の平潟河岸で食売旅籠の売笑(娼婦)をしている女の情話で、共に貧しさを抱えながら、なんとか希望を見出そうとしていく話である。

 修次は、銚子沖のイワシ漁で父親と兄を失い、老いた母親と妹の生活を支えるために、小さな中古の高瀬舟を借金をして買い、銚子から利根川を上って醤油や魚油などを運ぶ仕事をしている船頭である。彼の妹は、幼い頃に彼の不注意で身体に火傷を負って、その痕が身体に残っているために、嫁にも行けずに鬱屈した日々を過ごしているし、彼の肩には、一家の生活が重くのしかかっていだけでなく、妹に対する負い目もある。

 二十三歳のころ、少し自由になる金もできて遊び盛りだった彼は、松戸の平潟でひとりの売笑を買った。それが「ちせ」で、「ちせ」は越後の貧農の生まれで、十三歳の時に売られ、下女奉公から初めて十五歳で客を取らされた。彼女が修次と会ったのは十六歳の時であったが、まだ年季が四年ほど残っていた。また、年季が明けたからといってそのあいだに借金ができる仕組みになっていて自由になれるわけではなく、悪くすればまた別の宿に娼婦として売られるだけであった。

 仕方なく男を受け入れす仕草にぎこちなさがあって、修次は罪深さを覚えつつも、「ちせ」に惹かれていった。「ちせ」は、どうあがいてもどうにもならない境遇の中で、ほかの女たちとは違う素直さや素朴をさもった女だった。

 そして、「ちせ」もまた、修次に安らぎを見出すようになり、二人は互の想いを交わす仲になったが、二人ともどうにもならない境遇にいることは変わりなかった。修次は、彼女の年季が明けたら、なんとか借金を払って身請けして夫婦になりたいと思っていたが、頼りない中古の小さな高瀬舟を操るだけでは金が貯まらなかった。

修次の船で働く男や「ちせ」の同輩たち、いじけた修次の妹、そういう人間が渦巻く中で、出口の見えない希望だけが二人を繋ぐ日々を過ごしていく。その間の二人の心情がそれぞれに情感的に描かれていく。

 そうしているうちに、「ちせ」の身請け話が起こってしまう。相手は大店の醤油問屋である。修次は何とかしようとするが、金の力に負けそうになる。だが、彼は決断して、「ちせ」を足抜けさせ、高瀬舟で海に出て、心中を装って、二人でその苦境から脱出していくのである。

 そういう顛末が描かれているのであるが、貧しさのために売られて売笑(娼婦)として生涯を過ごさなければならない女の悲しみや苦労、重荷を抱えて生活に追われていく男のやるせなさ、そういうものが溢れて、作品を仕上げている。

 最後は、誰も知らない九十九里浜で二人は漁師として生きていく道が開かれて行くのだが、希望は決断によってしか生まれないということを思いながら読み終えた。ただ、こういう「情話」は、今ひとつわたしの好みではなく、少し読むのに時間がかかった作品だった。

2013年3月8日金曜日

坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎2 命に代えても』


 日中の寒暖の差はあるものの、すっかり春めいた陽射しが明るく降り注いでいる。中国からの黄砂や大気汚染の飛来はあるが、こういう暖かさは本当にありがたい。今年は立て続けに友人たちが召天し、自分の身のあり方も考えているが、能天気で有りうるのは幸いなことだと思ったりもする。わたしの能天気さに春が拍車をかける。

昨夜は、坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎2 命に代えても』(2011年 角川文庫)を気楽に読んだ。これは、多分、先月(2月)にこのシリーズの最初の作品を読んで所感を掲載していたのに同級生で演歌の作詞家をしているT氏が気づいて下さり、わたしに送ってくださった本の一冊で、この続編もいただいている。感謝の極みである。

 前作で、主人公となる毬谷慎十郎の背景なども詳細に記されていたが、本作では、主人公が大奥の年寄(取締役)の絡む事件に巻き込まれ、彼が身を寄せていた丹波道場の一人娘で毬谷慎十郎を完膚なきまでに打ち負かした女剣士である「咲」も囚われの身となったりして危機を迎える話が展開されている。

 主人公の毬谷慎十郎が属していた播州龍野藩の藩主であり、江戸幕府の老中である脇坂安薫(わきさか やすただ)は、長く寺社奉行を務めたころに、大奥の女中と谷中の延命院の僧の日潤、日道が淫行にふけっていた「延命院事件」を摘発して裁いたことで有名で、藩を出奔した浪人でありながらも脇坂安薫に気に入られているという設定で物語が進められているから、本書で大奥絡みの話が展開するのもうなずけられる。

 大奥は女の悲しさと欲望が渦巻いたところであるが、その大奥で並ぶことのない権勢をもつ年寄の霧島は、その権勢を利用して、役者買いをしたり、高価な麝香の抜け荷をしたりで、権勢を傘にして好き放題をしていた。彼女は、いくぶん狂気を帯びて、大奥に忍ばせてきた役者が気に入らないと丸焼けにさせて、それがもとで江戸城の西の丸の火災を引き起こしたりもしていた。もちろん、その罪は他の者にかぶせるのである。

 また、麝香の抜け荷のために、大奥で仕える女中を「神隠し」と称して監禁し、麝香取引の値の一部として売り飛ばしたりもしていた。咲も霧島に捕らえられて売り渡されそうになったりするのである。

 毬谷慎十郎は、大胆不敵にも大奥に忍び込んで女中を助けたりして活躍するが、咲に「命に代えても守る」と約束したとおり、咲を救出するために奔走していくのである。闇の元締めというのも登場したりする。

 これはこれでおもしろく読めるのだが、読んでいる途中で、だんだん、作者の代表作の一つともなっている『うぽっぽ同心』にどことなく主人公や構成が似てきたところを感じたりもする。咲は次第に毬谷慎十郎に想いを寄せていったりするし、慎十郎は慎十郎で彼を藩主の手先として使おうとする龍野藩家老の娘のことを心にもっており、それがどうなるのか、といったことや、咲は父親を殺されており、その仇を討つことを考えており、そうした展開がどうなるのかということもあるが、まあ、あまりしゃちこばったことは考えずに、娯楽作品として、ほかの多くの娯楽時代小説文庫の一冊と同じように楽しめる作品だろうと思う。

 ただ、時代は天保9年で、社会が危機に瀕して騒然とし始めた頃で、将軍家斉は惚けたように淫蕩にふけっており、時代が大きく変わろうとしているころであり、そうした中で、何者にも捕らわれずに鷹揚に豪放磊落に生きるという姿を描くというところには、実は大きな意味があるように思っている。「何ものにもとらわれない」という姿勢は大事である。

 ただ、「なにものにもとらわれない自由」というものは、しばしば飢える。その点では、この作品の主人公も飢えて路頭に迷うことしばしばであるが、その飢えにもとらわれないというのが爽快である。「まあ、飢えたら死ねばいい」、わたしもそう思っている。

2013年3月6日水曜日

高橋義夫『ご隠居忍法 不老術』

 温かさに誘われて土中の虫たちが顔を出すという啓蟄も過ぎて、ようやく昨日あたりから春を感じる日々となり、今日は、気温も20度近くまで上がって穏やかに晴れ渡っている。「春は平和にのんびり」が一番似つかわしい。

 ただ、中国からの大気汚染や黄砂が広がって、花粉も大量に飛び、「う~む」と思ったりするし、ちょうど中国で「全人代」が開催され、新たな富国強兵策が打ち出され、富国強兵策が向かう先が帝国主義的侵略であることを思うと、「騒がしい国」を隣に控えて何とも言えない気になったりする。「あげひばり、名のりいで、かたつむり、枝にはひ、神、空に しろしめす、すべて世は 事もなし」とはいかないものだろうか。

 閑話休題。少し軽いものをと思って、高橋義夫『ご隠居忍法 不老術』(2001年 中公文庫)をおもしろく読んだ。これは、『続・ご隠居忍法 黄金谷秘録』として1997年に実業之日本社から出されたものを文庫化したものである。「続」と付いているように、このシリーズの2作目で、このあとに続く『鬼切丸』、『唐船番』、『亡者の鐘』などを既に読んでおり、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲って隠居した元公儀隠密の鹿間狸斎の活躍を描いたもので、中年の悲哀なども盛り込まれて娯楽時代小説のおもしろさがある。

 彼は隠居して、奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らしているが、「おすえ」という手伝いの娘に手をつけて子どもをもうけ、気の強い実の娘のひんしゅくを買っている人物だが、元公儀お庭番伊賀忍者としての抜群の技量をもっている。当然、薬草などにも詳しく、生薬を作って生計の足しにしたりしている。

 本書では、その彼が男として役に立たなくなり、烏骨鶏の卵などの回春を試みるがうまくいかないところから始まり、ふとしたことから笹野藩領北部で隣藩と接する霧降山での不可解な事件と関わっていくという展開がされている。

 霧降山の麓で、白骨化された人の手首が発見され、なおそのあたりで多数の殺害遺体が発見されたのである。近隣の村々から行くへ不明になった男たちの話も伝わってくる。狸斎の友人で娘の義父である元郡奉行の新野耕民も何事かを秘しているようであり、公儀隠密も関わっているような事件であった。

 霧降山山麓は、その昔、銅山や金山があり、今は廃鉱になってしまっているが、どうやらそこに隠し金があるようで、狸斎は、この事件が隣藩の戸沢藩の奏者番と天領の代官、そして京都の金工が関わって、金の横流しをしていることをようやく突きとめていくのである。

 物語の大筋としてはそれだけだが、五合桝村の祭礼としての相撲取りがあったり、その相撲取りが狸斎を助ける振りをしながら、実は隣藩の奏者番と繋がっていたり、新野耕民が幽閉されたのを助け出したり、天領の代官の悪巧みがあったりするし、真相を突きとめようとする狸斎が襲われたり、様々な事件が勃発していく。その間に、狸斎の回春の苦労が盛り込まれ、なかなかの妙味で物語が展開されていくのである。

 隠し金山を巡る物語では、その多くが最後は金山が爆破されたり、跡形もなく土中に埋没したりする展開になるが、本書も、黄金谷という隠し金の埋蔵地は土砂に埋もれていく。こうした展開は、ひとつの安心感と期待感が交差して、気楽に読める物語となる。気楽に読める一冊だった。

2013年3月4日月曜日

火坂雅志『臥竜の天』


 この2~3日、寒い日が続き、北海道では猛吹雪による被害が生じた。以前、札幌にいたころも地吹雪で前が全く見えなかったり、雪で道路に立ち往生したりするということがあったが、今回通過した低気圧は台風並みの風が吹いいて、猛威を振るった感じだ。ここでも寒い。

 いくつかのしなければならないことが頭を横切っていくが、何となく面倒だな、と思ったりもする。

 週末から、独眼竜の名で畏敬され、激動の時代に常に天下を睨み、悠然と志を貫きながらも生き残った伊達政宗(1567-1636年)の生涯を描いた火坂雅志『臥竜の天 上下』(2007年 祥伝社)を、面白く読んでいた。伊達政宗を描いた作品は、これまでにも小説や映画、テレビドラマなど数多くあり、その生涯も、彼の多くのエピソードもよく知られているが、火坂雅志『臥竜の天』は、文章の歯切れもよくて非常に読みやすい本だった。

 仙台には、仕事の関係で年に数回は訪れるが、青葉城址を訪れたりした時に、政宗が没して既に450年近くも経った今でも、その城下町の形成の仕方にいつも驚嘆させられる。

 本書は、著者自身が「あとがき」で記しているように、同じように傑出した人物であり、また互いに意識し合っていた上杉家の直江兼続との対比も意識されてはいるが(著者は前年の2006年に直江兼続を描いた『天地人』を発表している)、伊達政宗の独自の風采をよく描き出している。

 ちなみに、「あとがき」では、次のように述べられている。
 「政宗という男のおもしろさは、信長、秀吉、家康らほかの戦国群雄たちから遅れた時代に生まれ、地の利にもめぐまれなかったにもかかわらず、彼らに匹敵する強烈な印象を史上にとどめたことにある。
 それは直江兼続にしても同じで、二人はたがいの方法論に反発を覚えながらも、関が原合戦前後の激動期をしたたかに生き抜き、歴史の荒波をみごとに乗り切った。
 臥竜のごとくひたすら天下をめざし、目的のためなら手段を選ばなかった政宗と、みずからの理想に従って上杉家の舵取りをした直江兼続――。
 一見、正反対のように見える彼らだが、じつは大きな共通点がある。
 一炊の夢のような人生の中で、いかに自分らしく生き、悔いなくおのれをつらぬき通したか。結果として、伊達政宗は天下を取る夢が叶わず、直江兼続も上杉家を存亡の危機に陥れた張本人として長く汚名を着ることになるが、彼らが与えられた運命のなかで、ぎりぎりの自己実現をしたことはたしかである。そして、その果敢な生き方が人の心に響き、ある意味で、天下人となった秀吉や家康以上に勁い輝きを放つのではないか」(402-403ページ)。

 「自己実現」というのは、その是非はともかく、いつでも個人にとっての大きな課題であり、ましてや下克上の世情の中では、意識ある人々にとっては最大の目標ともなるのだから、たとえそれが叶わなかったとしても、そこに向けて邁進していく人間の姿は大きな光彩を放つものとなる。伊達政宗は、まさにそうした人間の代表のような人物であるに違いなく、本書が、そうした伊達政宗の自己実現の記録として描かれるのは的を射ていることだろうと思う。

 本書でも描かれる伊達政宗の生涯やその事跡については、よく知られていることでもあり、ここでは触れないが、本書を読み終えての所感として次の二つのことを記しておきたい。

 ひとつは、伊達政宗という傑出した人物の形成には、彼の学問や人生の師として京都妙心寺出身の禅僧であった虎哉宗乙(こさいそういつ 1530-1611年)という人と、直江兼続と並び称されるほどの優れた人物であった片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな 1557-1615年)の力が大きかったということである。

 仏教の守護神である梵天に守護されているとして梵天丸と名づけられた政宗であったが、五歳の時に疱瘡(天然痘)にかかり、生死の境をさまよい、かろうじて命をとりとめたものの顔中に醜いあばたが残り、右目を失明するという悲劇で、そのあまりの醜さのために母親の義姫から嫌われる中で、政宗は幼少期を過ごさねければならなかった。

 そのために彼は、劣等感の強い、いじけてひねこびた子どもであったが、父親の伊達輝宗が守役(側近)としてつけてくれた片倉小十郎景綱と学問の師である虎哉宗乙が、実にしんぼう強く彼を包んで養育していくのである。片倉小十郎景綱は、政宗の中に眠る非凡な才能をどこまでも信じ、彼を将来の主君としてどこまでも仕えたし、虎哉宗乙は、隻眼(片目)であるのは心眼への道と説き、折に触れて人の歩むべき道を教えたのである。両者とも、伊達政宗の生涯を通じての優れた相談役であり、また、政宗自身も彼らを慕った。

 伊達政宗がもっていた底の抜けたような生死観は、それがその後に遭遇した幾度もの危機を救うが、この二人の人物によって育まれたのではないかと思う。こうした人物が人生の途上でいるかどうかで、人間は大きく変わる。三者は、共に絶大な信頼と尊敬の関係を築いた。

 もうひとつは、伊達政宗は退くべき時に退く力をもっていたということである。伊達政宗は、戦において連戦連勝したわけでは決してなかった。その事跡を見てみると、むしろ負け戦の方が多い。1854年の佐竹氏が率いる南奥州諸候連合軍との安達郡人取橋での戦いでは、政宗自身が矢弾を浴びるなどの敗北をきっしているし、1588年の大崎合戦では最上義光によって敗北している。豊臣秀吉の小田原合戦の際には、遅参によって叱責を被っているし、蒲生氏郷には頭が上がらなかった。関が原合戦の際の上杉軍との攻防にも苦慮している。徳川家康の治世下でイスパニアとの交易を図るために派遣した慶長遣欧使節も、結果的に見れば失敗である。

こうした敗北や失敗の中で、伊達政宗は退却を余儀なくされる。しかし、その退却は、単なる退却ではなく、自らの力を貯める退却であった。これは直江兼続もそうであったが、彼らの退き方は、決して敗北を意味しなかったのである。秀吉や家康からも恐れられ、常に警戒された中で、「鄙の華人」と言われるほどの教養も高かった伊達政宗は、自分が退かなければならなかった時に何をしなければならないかを知っていたのである。

改めて、本書で伊達政宗の姿を見ながら、そういうことを考えていた。なお、政宗の遺訓というのが残されていて、そこに直江兼続を意識した言葉などもあり、「なるほど」と思うところもあるので、以下に記しておく。

「伊達政宗遺訓」
1)仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐればへつらいとなる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
2)気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備うべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば、何の苦しみもなし。
3)朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来、客の身に成れば好き嫌いは申されまじ。
4)今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

このうちの「気長く心穏やかにして」は、伊達政宗には似つかわしくないかもしれないが、おそらく、ひとつの到達点でもあるだろう。

ともあれ、本書は「自己実現」を志した者としての伊達政宗の生涯を描いた力作であろうと思う。

2013年3月2日土曜日

高橋義夫『渤海国の使者』


 昨日は春一番が吹き荒れて、強風の中でも暖かく感じられ、本当に春が近づいて来た、という感じだった。今日は冬型の気圧配置の中で、気温は上がらないものの、以前のように寒さに震えるということはない陽射しがさしている。このところ小さな地震が頻発して、2011年の東日本大震災を思い起こしたりする。どことなく気が重い。

 それはさておき、日本の奈良時代(710-794年)に交流があった中国東北部の沿海に位置した渤海国との最初の使節団の活躍を描いた高橋義夫『渤海国の使者』(2003年 廣済堂文庫)を読んだ。高橋義夫は、エンターテイメント性の高い時代小説だけでなく、優れた歴史小説もいくつか書いているが、これもまた、そのひとつである。

 渤海国(698-926年)の詳細な歴史は不明なところが多く、主に中国で記された『旧唐書』、『新唐書』や朝鮮の『大金国史』などの周辺の諸国の歴史書による以外にはないのだが、中国東北部(現在はロシア連邦の日本海沿岸地方)で農耕と漁業を行っていた靺鞨族(まっかつぞく)の指導者大祚栄(だいそえい)が、それまで中国東北部の南部から朝鮮半島の北中部までの広範囲な領土をもって治めていた高句麗(紀元前37-668年)が唐と朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ・しんら)の連合軍によって滅んだことにより、自立を画策して、698年に自立の動きを抑制しようとした唐軍を破って、「震国」を建国したのが始まりとされている。

 唐は、その後も懐柔策を打ち出したり軍事的な圧力をかけたりし、特にこの時代には朝鮮半島全域を治めていた新羅と共同して渤海国に脅威を与えており、唐とは緊迫した状態にあったが、周囲との交易で栄えて、最盛期の領土は朝鮮半島北部からロシアの沿岸にかけての広大なものとなったのである。

 渤海国二代目王の大武芸は、唐から「渤海国王」の冊封(中国の天子が称号や任命書、印章などを授けて名目的な宗属関係を結ぶこと)を受けたが、独立色を強め、唐との関係は常に大きな問題となり、特に隣接した新羅との関係は悪化し、これらを牽制するために日本との交流を求めたのである。

 本書は、その渤海国からの最初の使者として727年に日本海の荒海を越えてやってきた高仁義らの使節の山形漂着から始まる。その時、高仁義らは蝦夷と呼ばれていた人々によって殺され、生き残った高斉徳ほか8名は翌年に聖武天皇に奈良で拝謁し、やがて、引田虫麻呂を頂点にした送渤海客使を派遣して彼らを送り返し、軍事同盟的な交流が始まった。そういう過程を、それぞれ渤海国の高文矩(こうぶんく)と日本側の船人(ふなひと)という二人の人物の深い信頼と友情を描くことで描き出したものである。渤海国との交流は、その後軍事的なものから商業的、文化的なものに変わったが、以後200年ほど続いた。

 渤海国側では、二代目王大武芸の兄弟で唐に渡って親唐派であった高武門との確執や、武芸の子で三代目となった大欽茂(だいきんも)による親唐的な文治政治への転換などの変化が起こっているし、日本では、729年に権勢を誇った長屋王(天武天皇の孫)と藤原家の争いが起こり、藤原不比等の子らが長屋王を自殺に追い込む事件が起こっている。

 こうした事件を織り込みながら、高文矩と船人の妹秋津との恋や新羅側の画策などが展開されて、読み物として面白く読めるように構成されている。渤海国の文化や風習などは、詳細は知られていないが、唐の影響が強く、唐文化を踏襲したものとして描き出されるし、高句麗の住習慣なども取り入れられている。政治は唐の制度を模倣したものであったと言われる。

 それにしても、よくこれだけの物語にまとめたものだと感服する。渤海国は、やがて、907年に唐が滅びたあと、926年に、中央アジアの民族であった契丹に滅ぼされて歴史から姿を消したが、華北人として命脈を保っている。奈良時代について、わたしはあまりに知らなさ過ぎるところがあるが、この時代がわずか84年しかなかったことを改めて思ったりする。