2013年3月4日月曜日

火坂雅志『臥竜の天』


 この2~3日、寒い日が続き、北海道では猛吹雪による被害が生じた。以前、札幌にいたころも地吹雪で前が全く見えなかったり、雪で道路に立ち往生したりするということがあったが、今回通過した低気圧は台風並みの風が吹いいて、猛威を振るった感じだ。ここでも寒い。

 いくつかのしなければならないことが頭を横切っていくが、何となく面倒だな、と思ったりもする。

 週末から、独眼竜の名で畏敬され、激動の時代に常に天下を睨み、悠然と志を貫きながらも生き残った伊達政宗(15671636年)の生涯を描いた火坂雅志『臥竜の天 上下』(2007年 祥伝社)を、面白く読んでいた。伊達政宗を描いた作品は、これまでにも小説や映画、テレビドラマなど数多くあり、その生涯も、彼の多くのエピソードもよく知られているが、火坂雅志『臥竜の天』は、文章の歯切れもよくて非常に読みやすい本だった。

 仙台には、仕事の関係で年に数回は訪れるが、青葉城址を訪れたりした時に、政宗が没して既に450年近くも経った今でも、その城下町の形成の仕方にいつも驚嘆させられる。

 本書は、著者自身が「あとがき」で記しているように、同じように傑出した人物であり、また互いに意識し合っていた上杉家の直江兼続との対比も意識されてはいるが(著者は前年の2006年に直江兼続を描いた『天地人』を発表している)、伊達政宗の独自の風采をよく描き出している。

 ちなみに、「あとがき」では、次のように述べられている。
 「政宗という男のおもしろさは、信長、秀吉、家康らほかの戦国群雄たちから遅れた時代に生まれ、地の利にもめぐまれなかったにもかかわらず、彼らに匹敵する強烈な印象を史上にとどめたことにある。
 それは直江兼続にしても同じで、二人はたがいの方法論に反発を覚えながらも、関が原合戦前後の激動期をしたたかに生き抜き、歴史の荒波をみごとに乗り切った。
 臥竜のごとくひたすら天下をめざし、目的のためなら手段を選ばなかった政宗と、みずからの理想に従って上杉家の舵取りをした直江兼続――。
 一見、正反対のように見える彼らだが、じつは大きな共通点がある。
 一炊の夢のような人生の中で、いかに自分らしく生き、悔いなくおのれをつらぬき通したか。結果として、伊達政宗は天下を取る夢が叶わず、直江兼続も上杉家を存亡の危機に陥れた張本人として長く汚名を着ることになるが、彼らが与えられた運命のなかで、ぎりぎりの自己実現をしたことはたしかである。そして、その果敢な生き方が人の心に響き、ある意味で、天下人となった秀吉や家康以上に勁い輝きを放つのではないか」(402403ページ)。

 「自己実現」というのは、その是非はともかく、いつでも個人にとっての大きな課題であり、ましてや下克上の世情の中では、意識ある人々にとっては最大の目標ともなるのだから、たとえそれが叶わなかったとしても、そこに向けて邁進していく人間の姿は大きな光彩を放つものとなる。伊達政宗は、まさにそうした人間の代表のような人物であるに違いなく、本書が、そうした伊達政宗の自己実現の記録として描かれるのは的を射ていることだろうと思う。

 本書でも描かれる伊達政宗の生涯やその事跡については、よく知られていることでもあり、ここでは触れないが、本書を読み終えての所感として次の二つのことを記しておきたい。

 ひとつは、伊達政宗という傑出した人物の形成には、彼の学問や人生の師として京都妙心寺出身の禅僧であった虎哉宗乙(こさいそういつ 15301611年)という人と、直江兼続と並び称されるほどの優れた人物であった片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな 15571615年)の力が大きかったということである。

 仏教の守護神である梵天に守護されているとして梵天丸と名づけられた政宗であったが、五歳の時に疱瘡(天然痘)にかかり、生死の境をさまよい、かろうじて命をとりとめたものの顔中に醜いあばたが残り、右目を失明するという悲劇で、そのあまりの醜さのために母親の義姫から嫌われる中で、政宗は幼少期を過ごさねければならなかった。

 そのために彼は、劣等感の強い、いじけてひねこびた子どもであったが、父親の伊達輝宗が守役(側近)としてつけてくれた片倉小十郎景綱と学問の師である虎哉宗乙が、実にしんぼう強く彼を包んで養育していくのである。片倉小十郎景綱は、政宗の中に眠る非凡な才能をどこまでも信じ、彼を将来の主君としてどこまでも仕えたし、虎哉宗乙は、隻眼(片目)であるのは心眼への道と説き、折に触れて人の歩むべき道を教えたのである。両者とも、伊達政宗の生涯を通じての優れた相談役であり、また、政宗自身も彼らを慕った。

 伊達政宗がもっていた底の抜けたような生死観は、それがその後に遭遇した幾度もの危機を救うが、この二人の人物によって育まれたのではないかと思う。こうした人物が人生の途上でいるかどうかで、人間は大きく変わる。三者は、共に絶大な信頼と尊敬の関係を築いた。

 もうひとつは、伊達政宗は退くべき時に退く力をもっていたということである。伊達政宗は、戦において連戦連勝したわけでは決してなかった。その事跡を見てみると、むしろ負け戦の方が多い。1854年の佐竹氏が率いる南奥州諸候連合軍との安達郡人取橋での戦いでは、政宗自身が矢弾を浴びるなどの敗北をきっしているし、1588年の大崎合戦では最上義光によって敗北している。豊臣秀吉の小田原合戦の際には、遅参によって叱責を被っているし、蒲生氏郷には頭が上がらなかった。関が原合戦の際の上杉軍との攻防にも苦慮している。徳川家康の治世下でイスパニアとの交易を図るために派遣した慶長遣欧使節も、結果的に見れば失敗である。

こうした敗北や失敗の中で、伊達政宗は退却を余儀なくされる。しかし、その退却は、単なる退却ではなく、自らの力を貯める退却であった。これは直江兼続もそうであったが、彼らの退き方は、決して敗北を意味しなかったのである。秀吉や家康からも恐れられ、常に警戒された中で、「鄙の華人」と言われるほどの教養も高かった伊達政宗は、自分が退かなければならなかった時に何をしなければならないかを知っていたのである。

改めて、本書で伊達政宗の姿を見ながら、そういうことを考えていた。なお、政宗の遺訓というのが残されていて、そこに直江兼続を意識した言葉などもあり、「なるほど」と思うところもあるので、以下に記しておく。

「伊達政宗遺訓」
1)仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐればへつらいとなる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
2)気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備うべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば、何の苦しみもなし。
3)朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来、客の身に成れば好き嫌いは申されまじ。
4)今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

このうちの「気長く心穏やかにして」は、伊達政宗には似つかわしくないかもしれないが、おそらく、ひとつの到達点でもあるだろう。

ともあれ、本書は「自己実現」を志した者としての伊達政宗の生涯を描いた力作であろうと思う。

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