2013年3月8日金曜日

坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎2 命に代えても』


 日中の寒暖の差はあるものの、すっかり春めいた陽射しが明るく降り注いでいる。中国からの黄砂や大気汚染の飛来はあるが、こういう暖かさは本当にありがたい。今年は立て続けに友人たちが召天し、自分の身のあり方も考えているが、能天気で有りうるのは幸いなことだと思ったりもする。わたしの能天気さに春が拍車をかける。

昨夜は、坂岡真『あっぱれ毬谷慎十郎2 命に代えても』(2011年 角川文庫)を気楽に読んだ。これは、多分、先月(2月)にこのシリーズの最初の作品を読んで所感を掲載していたのに同級生で演歌の作詞家をしているT氏が気づいて下さり、わたしに送ってくださった本の一冊で、この続編もいただいている。感謝の極みである。

 前作で、主人公となる毬谷慎十郎の背景なども詳細に記されていたが、本作では、主人公が大奥の年寄(取締役)の絡む事件に巻き込まれ、彼が身を寄せていた丹波道場の一人娘で毬谷慎十郎を完膚なきまでに打ち負かした女剣士である「咲」も囚われの身となったりして危機を迎える話が展開されている。

 主人公の毬谷慎十郎が属していた播州龍野藩の藩主であり、江戸幕府の老中である脇坂安薫(わきさか やすただ)は、長く寺社奉行を務めたころに、大奥の女中と谷中の延命院の僧の日潤、日道が淫行にふけっていた「延命院事件」を摘発して裁いたことで有名で、藩を出奔した浪人でありながらも脇坂安薫に気に入られているという設定で物語が進められているから、本書で大奥絡みの話が展開するのもうなずけられる。

 大奥は女の悲しさと欲望が渦巻いたところであるが、その大奥で並ぶことのない権勢をもつ年寄の霧島は、その権勢を利用して、役者買いをしたり、高価な麝香の抜け荷をしたりで、権勢を傘にして好き放題をしていた。彼女は、いくぶん狂気を帯びて、大奥に忍ばせてきた役者が気に入らないと丸焼けにさせて、それがもとで江戸城の西の丸の火災を引き起こしたりもしていた。もちろん、その罪は他の者にかぶせるのである。

 また、麝香の抜け荷のために、大奥で仕える女中を「神隠し」と称して監禁し、麝香取引の値の一部として売り飛ばしたりもしていた。咲も霧島に捕らえられて売り渡されそうになったりするのである。

 毬谷慎十郎は、大胆不敵にも大奥に忍び込んで女中を助けたりして活躍するが、咲に「命に代えても守る」と約束したとおり、咲を救出するために奔走していくのである。闇の元締めというのも登場したりする。

 これはこれでおもしろく読めるのだが、読んでいる途中で、だんだん、作者の代表作の一つともなっている『うぽっぽ同心』にどことなく主人公や構成が似てきたところを感じたりもする。咲は次第に毬谷慎十郎に想いを寄せていったりするし、慎十郎は慎十郎で彼を藩主の手先として使おうとする龍野藩家老の娘のことを心にもっており、それがどうなるのか、といったことや、咲は父親を殺されており、その仇を討つことを考えており、そうした展開がどうなるのかということもあるが、まあ、あまりしゃちこばったことは考えずに、娯楽作品として、ほかの多くの娯楽時代小説文庫の一冊と同じように楽しめる作品だろうと思う。

 ただ、時代は天保9年で、社会が危機に瀕して騒然とし始めた頃で、将軍家斉は惚けたように淫蕩にふけっており、時代が大きく変わろうとしているころであり、そうした中で、何者にも捕らわれずに鷹揚に豪放磊落に生きるという姿を描くというところには、実は大きな意味があるように思っている。「何ものにもとらわれない」という姿勢は大事である。

 ただ、「なにものにもとらわれない自由」というものは、しばしば飢える。その点では、この作品の主人公も飢えて路頭に迷うことしばしばであるが、その飢えにもとらわれないというのが爽快である。「まあ、飢えたら死ねばいい」、わたしもそう思っている。

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