2011年11月14日月曜日

坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き 狩り蜂』

週末から今日にかけて陽射しが差す比較的温かい天気になっている。ただ、月曜日の朝というものは、いつもだいたい何となく身体の怠さを覚えるので、どこかに出かけたいと思いつつも億劫さを感じたりする。やはり、体力勝負のようなところがあるなぁ、と思ってしまう。コーヒーでも入れて、気分を変えてみよう。

 先日、坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き 狩り蜂』(2010年 徳間文庫)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。このシリーズには『十手綴り』と『十手裁き』の二つのシリーズがあり、『十手裁き』の方は、『十手綴り』の続編になっていて、あまり役に立たずに歩き廻ることだけが能であることから「うぽっぽ」と渾名されている主人公の長尾勘兵衛の、欲もなく情に厚い姿が結構気に入っていて、よく読んでいる。

 『十手綴り』の方は、主人公の長尾勘兵衛は奉行所の定町廻り同心であり、妻の靜は幼い娘を残して理由がわからないままに出奔し、勘兵衛はその苦悩を抱えているが、『十手裁き』では、定町廻りから臨時廻りで、還暦間近であり、出奔した妻の靜がある日突然帰って来て、その妻の心情をいたわりながら関わっていく事件の解決を図っていくというもので、一人娘の綾乃も彼の後輩で好人物の同心と結婚し、孫の綾をそれこそ「目の中に入れても痛くない」ほど可愛がる好々爺ぶりを発揮する設定になっている。

 本書では、往来で人目も憚らずに地蔵を抱いて嗚咽するひとりの女性を見かけたことから、この女性が後添えとして入った料理屋で亭主が何者かに殺されるという事件に勘兵衛がかかわっていくという「狩り蜂」と、義賊として強盗に入った者が無惨に殺されたことから、裏で窩主(けいず)買い(盗品の売買)をしている骨董商の存在があることを明らかにし、その骨董商と奉行所同心の結託も明らかにしてそれを討ち取っていくという「あやかり神」、災害の時などに出されるお救い小屋の献上金の一部を私腹していた奉行所の町会所見廻り与力とそれに絡んだ高利貸しの跡目争いの事件に巻き込まれた子だくさんの貧乏武士を救って不正をただしていく「弓煎筋の侍」の三話が収められている。

 いずれも、欲と権力が引き起こしていく出来事の中で巻き込まれていく弱者の側に立って、その欲と権力の正体を暴いていくという筋書きであるが、日常の「うぽっぽぶり」が巧みに描かれながら、どうしようもないところで生きている人間お姿もあり、面白く読めるものになっている。このシリーズの作品は、大体において権力にあぐらをかいて強欲ぶりを発揮する人間に対して、「うぽっぽ」と呼ばれながらもその悪を暴いていくという構図が取られているが、どの作品でも、その作品の良さが、複線の良さにあって、たとえば「狩り蜂」では、地蔵を抱いて泣いていた女性が、実はかつて尾張の御金蔵破りをするために手引きとして使われた女性で、強盗の手引きのために鍵番の役人と夫婦になったが、夫を愛するようになり子どもまでもうけ、しかもその子どもを強盗団の一味によって殺すように強要され、その失った子への業火に焼かれ続けている女性であったり、義賊として腹黒い骨董商に忍び込んで殺された強盗の家族が、かつて勘兵衛に助けられて裏店の家作をもって徳の高い人物になっている強盗の友人で、友人を殺した骨董商に一泡吹かせるのを勘兵衛が見逃したりしている。

 また、「弓煎筋の侍」では、事件に巻き込まれる侍が、上役が押しつける娘との縁談を断って、愛する者と結婚したために、上役ににらまれ、お役御免となり、多くの子どもたちを抱えながら貧しい生活を余儀なくされ、矜持をもっていながらも刀を質に出し、娘を売らざるを得なくなり、それを勘兵衛が止めて、家族が住めるように裏店を世話したりする。

 こういう展開が、本書の妙味で、このシリーズ全体の面白さを醸し出しているし、出奔し、ようやく帰って来た妻を案じ、おろおろしながらも大事にしていこうとする勘兵衛の姿が描き出されて、妙味を加えているのである。ただ、よけいなお世話ではあるが。シリーズも長くなっているので、そろそろ完結してもいい気がしないでもない。

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