2012年9月21日金曜日

葉室麟『散り椿』(3)


 ようやく秋の気配が漂いはじめた感がある。今年は夏が異様に暑かったので、少しでも爽やかになってくると、なんだかほっとする。ふと思い返して日付を見たら、この読書ノートも三年を過ぎて、四年目に入ったことになる。文字数は百万字を超えてしまったし、三百冊以上の小説について記してきた。それにしては、いつまでたっても文章が上手にならないなあ、と改めて思ったりする。昔から一文が長かったので、わたしにとっては短くてキレのある文章というのは難しいものである。

 それはともかく、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)の続きであるが、舞台となっている扇野藩の藩内情勢が次第にはっきりしてくる。これまでのことは、ほとんど藩政の実権を握ってきた家老の石田玄蕃が画策してきたことであり、それに藩主の庶兄の行部家成が絡み、藩主の交代を機に後継者問題へと発展していこうとしているのである。こうした「お家騒動」はよくあることであるが、その動きの中で、瓜生新兵衛、榊原采女、坂下源之進、篠原三左衛門といったかつての一刀流道場で「四天王」と言われた友人たちが、なまじ優秀であっただけに次々と犠牲となっていったのである。

 坂下藤吾が藩の隠し目付である「蜻蛉組」に入れられた後、互いに想いを寄せ合って許嫁となっていた「美鈴」の父でもある篠原三右衛門が訪ねて来て、「美鈴」との破談を申し出る。そして、「蜻蛉組」に入れられるのは、単に隠し目付として探索をするだけではなく、相互に監視をされるということであり、藤吾が「蜻蛉組」に入れられたのは、彼と帰郷している瓜生新兵衛の動きを監視するためだと告げられる。そればかりでなく、榊原采女の父親を殺したのが藤吾の父親の坂下源之進であったことを告げるのである。

 榊原采女の父親の不正が明らかになれば自分に累が及ぶことを恐れた家老の石田玄蕃が、一刀流の道場主を通じ、坂下源之進と篠原三右衛門に暗殺を命じ、結局、源之進だけがそれを実行したと、篠原三右衛門は告白するのである。そして、それが明るみに出るのを防ぐための口封じとして源之進は自害に追い込まれたのである。「蜻蛉組」が動き出せば、そのことはやがて明るみに出るだろうから、「美鈴」との縁談は無かったことにして欲しいと言うのである。こうして二人の縁談は破談となる。

 しかし、藤吾はまだ諦めないと新兵衛に言う。榊原采女も父親を殺されたことで藤吾を恨んだりしないだろうと新兵衛は答える。なぜなら、藤吾は采女が想いを寄せ続けてきた「篠」の甥だからだと語る。そして、「篠」も、采女からの書状を大切に保管していたことやその最後の願いから、采女に想いを残していたと新兵衛は思っている。新兵衛は、愛する亡き妻の心が他の男にあるのを知りながら、妻の最後の願いを叶えようと国許に戻ってきた。「なにゆえ、そのようなことができるのだろう。ひとを愛おしむとは、自分の想いを胸にしまい、相手の想いを叶えることなのか。『わたしには、あなたというひとがわかりません』」(122ページ)と藤吾は言う。

 そうしているうちに、藩内の情勢が急激に変化していく。藩主の交代と国入りが迫ってきたためでもあるが、まず、新藩主となる政家が親政を敷くための手始めとして郡奉行と進めていた水路造りを推進していた村の庄屋が何者かに襲われて殺されるという事件が起こった。村々の意向を取りまとめていた庄屋が殺されたことで水路造りが頓挫する恐れがあった。藩の実権を握り続けるために藩主の親政に反対している家老の石田玄蕃がしくんだのである。そして、石田玄蕃と結託していた紙問屋も、すべての罪を自分に押しつけられて葬り去られるのではないかと恐れ、「鬼の新兵衛」と言われるほどの剣の腕をもつ瓜生新兵衛を用心棒に雇うのである。事態は切迫していくのである。

 瓜生新兵衛は、榊原采女の父親を殺したのが藤吾の父親である坂下源之進であるといった篠原三右衛門の言葉には裏があると思っていた。それを用心棒として雇われることで探ろうとするのである。源之進の妻であった里美も、源之進には人を斬ったような痕跡はなかったと言う。事件の真相は、まだ藪の中なのである。そして、藤吾は親しくしていた庄屋を殺したのが石田玄蕃の手の者であることを推測し、たとえ自分の立場が悪くなってもその犯人を捕らえると庄屋の女房に約束して、自分の道を決めていく。藤吾の父親は石田玄蕃に利用されたあげくに命を落とした。そして庄屋も殺された。もはや石田玄蕃の下で働くことはできない。かといって父親は榊原采女の父親を殺したことが事実なら、榊原采女の下で働くこともできない。両方から責められ、孤立無援となる。だが、それもやむを得ないと腹を決めていくのである。藤吾は、紙問屋の用心棒になるといった瓜生新兵衛を信用できないが、彼に任せるしか道はないかもしれないと思い始めるのである。

 そして、藤吾との破談を知った「美鈴」が藤吾を訪ねてくる。そして、「美鈴」は待ちたいと藤吾に告げる。藤吾は、その「美鈴」を見て、何があっても彼女を妻とし、そのためには何でもしようと決心する。「私闘のために刀を抜いてはならぬ」と教えた父が榊原采女の父親を暗殺したとはどうしても思えなかった。「美鈴」の父親である篠原三右衛門は何かを勘違いしているのかもしれない。それを明らかにしようと思うのである。藤吾は孤立無援のかなでひとりで立つことができる人間へと次第に変わってきていたのである。

 家老の石田玄蕃は次々と手を打ってくる。新藩主となる政家を支えていこうとする郡奉行の罷免を持ち出したり、榊原采女の弱点を探り出そうとしたりする。榊原采女の弱点は、不正を働いた父親にあり、その父親を殺したのが、実は采女自身ではないかと探りを入れていると言うのである。石田玄蕃は采女の父親殺しを命じたが、実行したのが誰かは知らなかった。玄蕃が放った暗殺者なら、いまさら玄蕃が実行者を探る必要なない。采女の父親は一刀流の四天王のひとりと見られている。采女の父親が殺されたとき、瓜生新兵衛は藩外にいた。篠原三右衛門と坂下源之進は玄蕃から暗殺を命じられていた。この三人でないとすれば、残るのは榊原采女だけである。采女を父親殺しで告発して、その力を奪おうと石田玄蕃は考えているのである。

 裏の裏の裏、そうした展開がなされて、事態の進展を探るだけでも相当面白く描かれているのだが、肝心なのは、新兵衛の妻であった「篠」の心である。そして、若い坂下藤吾もまた愛する「美鈴」とのことで、はからずも瓜生新兵衛と同じような道を歩む者となっていくのである。真実に愛する者のために生きるものは、真実に愛する道を同じように生きていく。それは真っ直ぐな道である。自分が何を大切にするか、葉室麟の作品はそれを問いながら進んでいく。そして、真実はいつも感動的である。続きは、また次回に。

2012年9月19日水曜日

葉室麟『散り椿』(2)


 九州西岸を通り抜けた台風のおかげで、なんとなく秋が一段と進んだような気配が漂い始めた。「暑さ寒さも彼岸まで」というから、これもあと少しかもしれない。昨今の新聞やテレビの報道に接しながら、ふと、かつてアメリカの哲学者であったR.フルガムが『人生に必要な知恵はすべて幼稚園で学んだ』で、私たちは幼稚園の砂場遊びで、みんなで仲良くわけあって使うこと、順番は待たなければならいないことなどを学んだ、と語っていたことを思い出したりした。過去の苦難の歴史を、人を恨んだり呪ったりすることに使っては、苦難の経験が泣いてしまう。「人生がもったいない」などとも思ったりする。

 それはともかく、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)の続きであるが、瓜生新兵衛の帰郷とともに、藩内の抗争が一段と激化していく。ひとつには、藩の実力者となって頭角を現した榊原采女の父親を殺したのが瓜生新兵衛だと噂されていたが、その事件の真相が彼によって明らかにされて行きそうになるからである。榊原采女の父親は、新兵衛たちが通っていた一刀流道場の中でも独特の技を使う者の手によって殺されていた。采女の父親の死には、領内で生産される紙を一手に握りたいと目論んだ紙問屋と、その紙問屋からの賄賂で自分の派閥を作ろうとした家老になったばかりの石田玄蕃が関わっており、事件は単純ではなかったのである。その石田派の資金集めと坂下藤吾の父親の自害とも関連があるのである。

 そういう中で、殖産方として水路造りを進言し、郡奉行も乗り気であった坂下藤吾の案が却下されてしまう。そこには政治的事情が絡んでおり、お国入りをきっかけにして藩の政治を藩主の手に取り戻そうとする若い藩主と藩の実権を握り続けようとする家老の石田玄蕃の対立があったのである。

 藩主になった千賀谷政家は、自分が行う藩政の手始めに、殖産の水路造りをしたいと考え、郡奉行を動かして計画案を進めていたのである。それを推進していたのが榊原采女であった。だが、藩を動かしてきた石田玄蕃はそれを阻止する動きに出てきたのである。殖産方として村の庄屋とともに水路の必要性を感じて動いて坂下藤吾は、何者かに命を狙われたりする。そして、危険を察知して後をついてきていた瓜生新兵衛によって救われたりするのである。瓜生新兵衛もまた、汚名を晴らすために榊原采女の父親殺しの犯人を探り出そうとする動きの中で、何者かに命を狙われていた。そして、殖産方を外され郡方とされ、隠し目付となって藩主側の人間である郡奉行の動きを見張るように石田玄蕃に命じられる。

扇野藩の隠し目付は「蜻蛉組(かげろうぐみ)」と呼ばれていたが、その実体は不明だった。しかし、「蜻蛉組」は、どうやら家老である石田玄蕃の意を受けて動いるらしいと坂下藤吾には思われたのである。

他方、亡くなった瓜生新兵の妻「篠」と榊原采女の間に、昔、実際に縁談があり、采女が「篠」を妻に望んだが、出世を望む気性の激しい采女の母親は家老の石田家の縁戚の者を妻に娶ることを望み、その縁談を壊してしまい、結局、「篠」が瓜生新兵衛の妻となったことが明らかになっていく。その後、榊原采女は妻を娶ることはなく、新兵衛が藩を放逐された時に「篠」が新兵衛と共に国を出たのも、そのことと関係があるらしいということがわかっていく。榊原采女は榊原家の養子であった。

坂下藤吾は「蜻蛉組」から呼び出しを受け、「蜻蛉組」が、家老の石田玄蕃のために動いているのではなく、実は藩主の直接の支持を受けて動いていることを知らされ、藤吾の命を狙ったのも石田玄蕃の手の者であり、藩主から十八年前の榊原采女の父親の不正事件の再調査を命じられていることを告げられる。十八年前、榊原采女の父親の橋渡しで、紙問屋の田中屋は藩の公許問屋として紙の扱いを独占した。しかし、田中屋からの運上金は藩には入らずに、利益は江戸の神保家に流れた。それを画策したのは、藩主の庶兄の行部家成で、行部家成は藩主の兄であるにもかかわらずに母親の身分が低かったために藩主になれず、彼の嫡男が神保家に養子に入り、その幕閣への出世のための賄賂として金の流れの仕組みを作ったのである。それを支えたのが家老の石田玄蕃であった。

現藩主の千賀谷親家は来年に藩主の座を政家に譲にあたって、藩内をきれいにしておくために、その証拠を掴むことを「蜻蛉組」に命じたのである。家老の石田玄蕃は、藩主の庶兄である行部家成には誰も手が出せないと驕って、坂下藤吾を自分のために使おうと彼に隠し目付を命じたのである。

話は変わって、藤吾の母であり、「篠」の妹である里美は姉の遺品の中から三通の書状を見つける。三通とも榊原采女が「篠」に宛てて、「篠」が新兵衛に嫁ぐ前に書かれたもので、「篠」はそれを大事に持っていたのである。榊原采女は、「篠」が新兵衛に嫁ぐことが決まった後も、「願うことなら、もう一度、坂下家の庭に咲く椿の傍らで話がしたい。これから何年でも、花開くころ、あなたをお待ちする」と書送っていた(107ページ)。

新兵衛は、この書状のことを知っていた。そして、「篠」の最後の願いの一つは、「庭の椿を自分の代わりに見て欲しい」ということだった。それは「篠」が采女に対する想いをずっと残していたことを思わせる。だが、新兵衛は、「篠が大切にしていたものは、それがしにとっても大事でござる」と書状を保管し、「篠」の願いを果たすために郷里に帰って来たのである。新兵衛は里美に言う。「人は大切に思うものに出会えれば、それだけで仕合わせだと思うております」と(111ページ)。

果たして、「篠」は采女に想いを残していたのか。「篠」の本当の思いはなんだったのか。やがて、新兵衛はそのことを知っていくが、彼はただ、それがどんなことであれ愛する者の願いを叶えることだけにまっすぐ進んでいくのである。昔の坂下家は、今、榊原采女の屋敷になっている。

藩の実情は混沌としてきはじめ、すべての謎はまだ藪の中である。こうした展開は一気に作品を読み進ませる。しかし、その後の展開については次回に記すことにする。

2012年9月15日土曜日

葉室麟『散り椿』(1)


 今日もまだ暑い陽射しが照りつけている。夜ともなれば虫たちの演奏会が始まっているが、日中はうんざりする暑さである。昨日から、なんとはなしに仕事をする気になれず、こんな調子ではまた「すべきこと」が山積みしていくなあ、と思いながら、依頼されている原稿の下調べなどをぼちぼちしていた。

 そんな中で、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)を深い感動をもって読み終わった。作者の作品群の中では、『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社)や『花や散るらん』(2009年 文藝春秋社)、あるいは直木賞受賞作品である『蜩の記』(2011年 祥伝社)という人の想いの深さを透き通るような文体で描き出した作品群のひとつだと言えるだろう。これらの作品は涙なしには読めない大きな感動を与えてくれる。読んでいる途中で、不覚にも涙がポロポロこぼれていくような作品で、『散り椿』は、特に人が人を想う姿を激動していく状況の中で描き出したものである。本書については、内容が豊かだから少し詳しく記しておきたいと思っている。

 本書は、十八年前に藩(扇野藩という架空の藩)の上司の不正を訴えたが認められずに藩を追われ、各地を転々としたあげくに京都の地蔵院の庫裡に住むようになった瓜生新兵衛の、苦労をかけた愛する妻が亡くなるところから始まる。地蔵院は加藤清正が豊臣秀吉に贈り、その秀吉が寄進した「五色八重散椿」があり、別名「椿寺」とも言われるから、物語の最初の地として設定されているのだろう。作者はこういうところにさりげない細やかさを見せる。二人は、その地蔵院の庫裡でひっそりと暮らしていた。

 だが、病を得た新兵衛の妻の「篠」は、「あなたにお願いしたいことがあります」と新兵衛に語り、故郷の扇野藩に戻るように最後の頼みをして、ひっそりと息を引き取っていく。妻の最後の頼みは新兵衛にとっては、ある意味で過酷なことではあったが、新兵衛は「わしはそなたに苦労ばかりさせて、一度もよい思いをさせたことがなかった。そなたの頼みを果たせたら、褒めてくれるか」と言う。彼の妻は、涙をにじませた目で、「お褒めいたしますとも」と答える(11ページ)。

 この「褒めてくれるか」、「お褒めいたしますとも」で、新兵衛はその後のすべての人生を歩み出す。世間的に成功することでもなければ、周囲から良い評価を得るためでもない。只々、愛する者から褒められることだけ、愛する者から認められることだけ、それだけで新兵衛は自分にとっては辛い道を平然と歩んでいくのである。こうして、瓜生新兵衛は、妻亡き後、妻の願いを入れて扇野藩に帰る。

 時、あたかも扇野藩では藩主の交代を巡る藩内抗争が勃発していた。藩主の側用人を勤め、藩の重責を担おうとする榊原采女と家老の権力の座を死守しようとする石田玄蕃が藩主の後継を巡る争いを展開していたのである。扇野藩の藩主である千賀谷親家は五十歳を過ぎたばかりだが病弱で、隠居をし、嫡男の二十五歳になる政家が来春に初めての国入りをしようとしていた時だった。

 扇野藩に帰郷した瓜生新兵衛は妻の妹である里美の家に寄留する。里美の夫の坂下源之進は、一年前に突然自害してこの世を去っていた。勘定方(経理)をしていた源之進は、家老の石田玄蕃に呼び出されて、玄蕃に使途不明金を糾弾されて、無実だと主張したが、突如別室に退き、そこで腹を切ったのである。坂下家は百八十石だったが、源之進が責任を取ったということで、九十石に減封され、息子の藤吾が家督を継いでいた。

 坂下藤吾は、まだ二十歳前後の若者であるが、失った家禄を取り戻すためにひたすら出世を望む青年で、馬廻り役を務める篠原三右衛門の娘である「美鈴」との縁談がまとまっていた。藩の出世頭である側用人の榊原采女に憧れてもいた。彼は殖産方(地場産業を管理する役)で、国境を見回っている途中で偶然に瓜生新兵衛と会い、新兵衛が襲い来る暴れ馬を制御する現場に立ち会っていた。その新兵衛が自分の家を訪ねてきたとき、藩を放逐された貧乏浪人が家にいてもらっては自分の出世に響くと考える。だが、母親の里美はなぜか新兵衛を温かく迎える。

 坂下藤吾は、義父となる篠原三右衛門から、かつて瓜生新兵衛や榊原采女、そして藤吾の父親の源之進と篠原三右衛門が同じ一刀流の道場で「四天王」とまで呼ばれて、仲の良い交わりをしていたことを聞く。だが、瓜生新兵衛が不正を訴えたのが榊原采女の父親で、新兵衛が放逐された後にその不正が明らかになったが、何者かに殺されてしまったこと、新兵衛が密かに榊原采女の父親を斬ったのではないかという噂があることなどを聞く。そしてまた、新兵衛の妻となった「篠」の父親は、榊原采女と坂下源之進を気に入り、いずれは采女と「篠」、源之進と里美が夫婦になるだろうと考えられていたことなども聞くのである。

 藤吾は、藩の中での実力者である榊原采女と瓜生新兵衛の関わりを知り、自分の出世や立場からますます新兵衛のことを疎んじるようになるが、新兵衛はただ亡き妻の願いを叶えることだけに集中して変わらず堂々と寄留しているし、母親の里美も新兵衛を深く尊敬しているように見えるのである。

 こうした人物の設定は、まことに絶妙で、父親が何者かに殺され、その父親の不正によって二百石から八十石に減封された榊原采女も、坂下藤吾と同じように懸命に失地の回復に努め、自分の力で側用人として藩内で実力を振るうまでに至った人物であることなどが示されていくし、それによって、出世をし、世間的に力を持つことの是非が、貧乏浪人となって、ただ愛する者のためだけに生きている瓜生新兵衛の姿と対比されていくのである。里美の存在は、世間的にどうであれ、新兵衛の真価を知る者がいるということを示すものであり、その存在自体が心を温かくしてくれる。そうした設定が初めから絶妙に展開されている。人は、ただ一人でいいから自分を認めてくれる者があるとまっすぐ生きていける。瓜生新兵衛はそのことを体現する人物なのである。

 物語は、榊原采女の父親を殺したのは誰か、坂下藤吾の父親はなぜ自害したのか、そして、夫婦としてふさわしいと言われていた采女と「篠」の関係はどうだったのか、「篠」の最後の願いとは何か、といったような謎を残したままに展開されていく。そして、そこに藩主の交代を巡る権力闘争が深く絡んでいくのである。それとともに、無骨だが正々堂々と真っ直ぐに生きている新兵衛に触れて、若い坂下藤吾が生き方を学んでいくことになるが、そのあたりの展開は、また、次に記すことにする。それにしても、なんと爽やかで涼やかな物語だろうかとつくづく思う。

2012年9月12日水曜日

林望『天網恢々 お噺奉行清談控』


 まだまだ30度を超す暑さが続いている。関東では渇水のために農作物への被害が出ることが心配され始めている。内憂外患の社会状況が続いている。社会全体がどこか浮ついた感じがしているのはわたしだけだろうか。

 それはともかく、林望『天網恢々 お噺奉行清談控』(2011年 光文社)を気楽に読んだ。作者の林望は、1949年生まれで、日本文学者でもあるが、イギリス留学経験を活かしてイギリス人の生活を紹介するエッセイなどで活躍し、今年の5月に日本経済新聞で「節約術」なるものを披露されたりしている(2012年5月30日付)。ただ、彼自身は、極めて恵まれていて、彼の父親は日本の高級官僚や大学学長、財団法人の理事を歴任した著名な未来学者であり、彼自身もケンブリッジに留学したり東京藝術大学助教授(准教授)を経たりして、彼の「節約」はお金がない節約ではなく、お金のある人間が行う「節約」である。質素に生活することは素敵なことだとわたしも思うが。

 その林望の時代小説である本書は、江戸時代の中後期に名奉行として活躍した根岸肥前守鎮衛を主人公にした短編連作で、物語の展開やスタイルは風野真知雄『耳袋秘帖』シリーズに酷似している。ただし、言うまでもないことではあるが、主人公の根岸肥前守鎮衛の人物像は若干異なり、本書で描かれる根岸肥前守鎮衛は、どちらかと言えば池波正太郎が『鬼平犯科帳』で描いた長谷川平蔵の姿に近く、悪も善もひっくるめて通じる清濁併せ呑むような器量の持ち主でありながら、情を持って細やかな配慮と世話をし、それでいて事件の本質を鋭く見抜いていくような慧眼の持ち主である。そして、本書では、下世話な下ネタ話もよくする柔らかさもあるという具合である。

 本書には、それぞれの事件が扱われた「猫眼の男」、「延宝院談綺」、「河童の平六」、「百両の始末」、「飼い殺し」の五話が収められている。取り扱われているそれぞれの事件の内容は比較的単純で、「謎」の解明というほどではなく、展開もストレートで、「読み物」としては流れるように読んでいけるものである。また、人間像が深く掘り下げられているというほどでもなく、それぞれの登場人物たちの姿も平明である。

 どちらかといえば、書き下ろし文庫版のような作品だが、気楽に読むにはいいかもしれないと思いながら読んだ。作者のスタイルとして、あまり物事にこだわらないというものがあるのかもしれない。根岸肥前守鎮衛は、一般に昨今の小説作品で表されるよりもはるかに慎重で思慮深いところがあったと思っているので、そういう人物として描かれることを期待するし、彼の『耳嚢(袋)』をもう少し題材として展開してもいいのではないかと、本作に対しては思った次第である。

 今日は、なぜか細々したことで時間が細切れになってしまった。まあ、こういう日もあるだろう。まとまった思索をする日ではなかったということだろう。それはそれで「よし」ではある。

2012年9月10日月曜日

乙川優三郎『五年の梅』


 まだまだ暑い日々が続いていて、「天よ、もういいのではないか」と言いたくなるが、天の下、地の上で生きるのが人間であるから、今しばらくの忍耐が必要なのだろう。ようやくにしていつものペースの戻りつつあるから、山積みしている仕事を片づけていこう。

 先日、図書館から乙川優三郎『五年の梅』(2000年 新潮社)を借りてきていたので、昨夜はこれを読んでいた。この作者についてわたしは全くの無知であったが、1953年生まれで、山本周五郎賞や直木賞を受賞されて、かなり良質の作品を書いておられることがわかった。本書は、2001年にその山本周五郎賞を受賞した作品で、手始めにこれを読んでみた次第である。

 本書は、「後瀬の花」、「行き道」、「小田原鰹」、「蟹」、「五年の梅」の五編からなる短編集で、いずれも男と女の愛情の姿を描いたものであるが、最初の「後瀬の花」、「行き道」、「小田原鰹」は適わぬ男女の腐れ縁のような関係が描かれ、後の「蟹」と「五年の梅」は、年月を経て深まっていく男女の関係を描いたものである。

 第一話「後瀬の花」は、商家の手代であった矢之吉が小料理屋の女中である「おふじ」に入れあげ、商家の金を盗んで駆け落ちするが、追っ手が迫ってきていると思い、二人とも崖から落ちて死んでしまい、その死んだあとで、「こんなはずではなかった」とお互いに愚痴を言い合ったり、人生を捨ててしまったことを後悔したりしながら、やがて道端の卯の花を見ながらほのかに心を通いあわせて行くようになるというもので、女のために人生を捨てることになった男のうじうじした後悔やどうしようもない男についていくことになった女の心情が描き出され、そして、ほのかな心の通いあいを感じていくというものである。話の展開は陰湿で、雨の中で死んだ二人がそれぞれの人生を話し合うという設定はその陰湿さに拍車をかけるようになり、最後に小さな卯の花が咲いていることが救いにつながっていくというものである。

 第二話「行く道」も、女の情念が展開されていくもので、小間物屋を営む「おさい」は夫の多兵衛が中風で寝たっきりとなり、息子もまだ一人前ではないために一人で店を切り盛りしている。

 「おさい」は十六歳の時に父親をなくして深川で女中奉公をしていた時に小間物売りの多兵衛と知り合い、やがて多兵衛は店を構えるまでになったが、「おさい」が労咳をやんだ時に、近寄ろうともせず、水の一杯も汲んでくれなかった。そのときから夫婦のあいだは冷え切り、彼女の労咳は治るが、今度は多兵衛が中風で寝たっきりになり、「おさい」は多兵衛に近寄ろうともせずに冷たくあしらうようになっていたのである。

 そういう中で、幼馴染で同じ小間物屋をしている清太郎が「おさい」に声をかけるようになる。清太郎は子どもの頃に「おさい」と夫婦になりたかったといい、清太郎の妻が派手好みで店の金を湯水のように使い、実家を鼻にかける傲岸な女であることがよく知られており、次第に清太郎と「おさい」は「焼けぼっくりに火がつきそうになる」のである。

 そして、清太郎といよいよ出会い茶屋(今のラブホテルのようなもの)で会うために「おさい」は家を出る。ところが途中で身投げをする娘と会い、それを止めることで、出会い茶屋に向かう自分の足も止めて家に帰るのである。

 人はそれぞれに悲しみや不幸を抱えて生きているが、その悲しみや不幸を嘆くことでさらに不幸になる。どこかで、生きることの辛さや悲しみを嘆くことを止める。そのことで、たとえ不幸や悲しみを抱えたままでもまた新しい歩みが始まるのだから、「嘆きを止める」ことから始める。そんなことを考えながらこの作品を読んでいた。作品そのものにそういう力はない気もするが。

 第三話「小田原鰹」は、どうしようもない亭主のもとを逃げ出したが、そのどうしようもない亭主に毎年初鰹を送る女の話で、人に寄りかかることだけて生きている男が、それによって少しずつ生活の仕方を変えていく話でもある。

 第四話「蟹」は、なかなかの作品で、家や保身のために嫁がされては離縁されてきた女が、最後に嫁いだ貧しい武士の飾らない深い愛情に触れていく話で、昔、ヤケになって情交を結んでしまった男たちから脅されたりするが、飾らない無骨な夫と蟹を食べる幸いを感じ始めた女のために、夫がすべてを知りつつも脅してきた男たちと対決して女を守ろうとしていることを知っていく話である。この話は本書の中では温かい。

 第四話「五年の梅」は、友人のために藩主に諫言をいい、それによって蟄居を命じられた豪胆な武士が、その友人の妹が不幸になっていることを知り、彼女のために立ち上がっていく話で、彼と友人の妹はお互いに想いを寄せる間柄であったが、藩主に諌言することを決意した彼は彼女と分かれて、切腹覚悟で大胆な諫言をし、蟄居を命じられる。

 友人の妹は、彼に想いを寄せながらも、金貸しをして吝い武家に嫁に行き、娘を儲けるが娘は盲目であった。婚家は娘を目医者に見せることもしないし、金、金のけちな生活をし、彼女はひとり苦労をしていく。

 そのことを知った彼は、ひとりで荒地を耕すことで金を作り、彼女の娘を目医者に見せようと働き始め、やがて、彼女の離縁話が進められて、ようやく、共に梅の花を見ることができるような関係になっていくというもので、長い年月を経て、お互いに苦労しながらも、結ばれていく男女の姿が軽妙な筆運びで語られていくのである。主人公がみみずや虫を食べる奇人ぶりが描かれたりするが、物語全体は、寒空に枝を伸ばして咲く梅の姿そのものである。

 この作者の作品を初めて読んだわけだが、どちらかと言えば良質な文学作品とでもよべるような作風で、「へえ、こういう作家もいたのか」と改めて思い、この作者の直木賞受賞作品である『生きる』というのを読んでみようと思っている。

 それにしても、まだまだ暑い。こう暑い日が続くと秋が短いような気がしている。今年の秋は例年の倍くらいすることがあるがどうなるだろう。まあ、「ぼちぼち」の信条は変わらないだろうが。

2012年9月7日金曜日

火坂雅志『天地人』


 このところ暑さがぶり返しているが、それでも季節がゆっくりと巡っていくのを感じている。この秋の予定やいくつかの仕事の依頼などをぼんやり見ていて、気力の減退もあって、いささかうんざりしないわけではないが、これも性分と思って諦め、ぼちぼちやっていこう。

 そんな思いを持ちながら、信義というのを生涯貫いていった戦国時代の武将である直江兼続の生涯を描いた火坂雅志『天地人』(2006年 日本放送出版協会)を、感銘をもって読んだ。これは2003年10月から2006年4月までの約2年半に渡って各地の新聞に掲載された新聞小説をまとめたもので、NHKが2009年に大河ドラマとして放映し、人気を博した作品の原作ともなったものである。

 NHKのドラマ自体は、取り上げた直江兼続という人間の魅力や演じた俳優の名演もあり人気を博したが、小松江里子という人が記した脚本には、時代考証の問題や非歴史的事実が平気で盛り込まれ、原作とは異なった人物設定などもあって若干の問題を感じながら観ていた。しかし、この世における「利」で動くことに対する直江兼続や当時の上杉家がとった「義(信義)」が明瞭に強調されて、その点では原作の意図がきちんと表明されていると思っていた。

 そこで、改めて原作を読んで見たのだが、新聞小説だけあって展開も丁寧で、直江兼続の人物像がよく浮かび上がる作品になっていた。

 直江兼続(1560-1619年)は、通説としては、樋口兼豊の長男として越後の上田庄、あるいは坂戸城下(現:新潟県南魚沼市)、あるいは南魚沼郡湯沢町で生まれたと言わる。父親の兼豊の身分は、坂戸城主長尾政景の家臣で、台所の薪炭の係りの役だったとも、あるいは上田長尾家の家老・執事だったとも言われており、母親についても諸説があるなど、実は、その誕生や実家についての歴史的確定がされているわけではないのである。本書では、兼続の父親の兼豊は算勘に優れた才能を持ち、薪炭吏から上田長尾家の家老にまで出世した人物とされている。しかし、父親が苦労人であったことは容易に想像がつく。

 兼続(幼名与六)は、幼い頃から聡明だったと言われ、上杉謙信の姉で長尾政景の妻であった仙桃院にその利発さを見出されて、政景の次男である顕景(あきかげ 後の上杉景勝)の小姓(遊び友だち)に推挙されている。特に、1564年に長尾政景が野尻湖で溺死したあと、上杉謙信は姉の仙桃院の子である顕景を養子とし春日山城に引き取ったときに、兼続も近習として春日山城に移ったと言われ、この時、顕景九歳、兼続四~五歳で、まさに異例中の異例と言っていいほどの子どもだったのである。

 上杉謙信は、顕景と共に春日山城にやってきた樋口与六(直江兼続)をことのほか可愛がり、自分の全てを教える愛弟子としたと言われ、兼続は名将謙信の薫陶を受けて育っていくのである。ただ、兼続の幼少年期についての歴史資料が確認されているわけではない。しかし、兼続が謙信の教えを生涯の杖としたことは事実である。

 生涯独身を貫いた上杉謙信には子がなく、顕景の他にもうひとり養子があり、上杉謙信が1570年に北条氏康と和睦した際に北条家から人質として出された北条氏康の七男である北条三郎(北条氏秀)を気に入って養子とし、上杉景虎の名を与えて、姉の仙桃院の長女と妻せるなどして自分の後継者候補の一人としていた。上杉景虎は美男で人を惹きつけるところがあったが、利にさといところもあり、無口で無骨なところがあった顕景とは対称的な人物でもあった。謙信が二人の養子を持ったことが、後に、上杉家の家督を巡って顕景と景虎は熾烈な争いをすることとなる。

 本書は、1573年に上杉謙信の長年の仇敵であった武田信玄が死去して後、1575年に長篠の戦いで武田軍が織田信長に敗れ、天下の情勢が大きく変わろうとしていた時代から始まる。与六は17歳となり、謙信の薫陶をますます受けつつも、新しい時代の到来を予感していくところが、かつて謙信と信玄が戦った川中島を見下ろす地に立ち、それを弟の与七(後に大国実頼と改名)と語り合うという展開で行われている。与七は兄の与六を「兄じゃ、兄じゃ」といって生涯尊敬し慕っていたと言われる。こういう書き出しの設定は、歴史の経過と物語の今後の展開を予測させる上で実に巧みである。

 やがて、越中を平定した上杉謙信は、前将軍足利義輝の弟で、織田信長のもとを去って亡命していた足利義昭の要請を受けるという形で上洛の軍を進める。上杉景勝もこれに従い、兼続も行を共にする。1577年、能登に侵攻した上杉軍は七尾城を包囲し、これを打ち破ることになるが、ここで直江兼続にとって手痛い事件が起こる。

 それは陣中で上杉景虎の兵たちが兼続の主君である長尾顕景を小馬鹿にする現場に行き合い、激怒して私闘をしたために、兵の私闘を、理非を問わず禁じた上杉謙信によって蟄居を命じられるという事態になったことである。謙信は愛弟子である兼続に厳しい処断をし、兼続を坂戸に帰す。兼続の生涯の中でそれは大きな挫折であるといえるかもしれない。

 しかし、人は挫折した時のあり方で、その後の人生が決まる。兼続は自ら深く反省し、座禅を組み、自らの精神を高めていく道を静かに選んでいくのである。それが兼続を大きく変えていく。彼は謙信が伝えた「義」から「自分にとっての義とは何か」を求めていくのである。そして、これがやがて「愛」の兜をかぶっていくという道につながっていく。直江兼続の「愛」は「仁愛」のことである。

 兼続がそうした自省の日々を過ごしている時に、突然、上杉謙信が倒れて死去してしまう。脳卒中だったと言われているが、1578年3月(現4月)のことである。謙信は前年に織田信長軍との手取川の戦いで勝利を収め、再び春日山城で遠征の準備をしている時だったと言われている。兼続は謙信が死去する前に蟄居を解かれてゆるされていた。

 しかし、この謙信の死で上杉家の状態は一変する。謙信が後継者を明白に定めなかったことから、養子であった景虎と景勝の間で、後継者をめぐる争いが勃発してしまうのである。この争いは「御館の乱」と呼ばれ、かつて上杉謙信が関東管領であった上杉憲政の居館として建てた「御館」に景虎が陣をしき、景勝が春日山城に陣をしいて戦ったことからこの名がつけられている。領内はこれによって二分してしまうのである。互いに死闘が繰り広げられることになる。

 景虎は実家である北条家と手を結んで景勝を攻めたが、直江兼続の進言もあっていち早く春日山城を収め、また、甲斐の武田家と同盟を結ぶことによって北条家からの援軍を抑えてこの戦いに勝利していくのである。景勝はこの時に武田家との同盟を結ぶしるしとして武田勝頼の妹の「菊姫」を正室として迎えている。しかし、一年以上続いたこの内乱で、上杉景勝は厳しい状況に置かれ、また世情もめまぐるしく変化していった。彼が同盟を結んだ武田家は、織田・徳川・北条同盟軍によって1582年に滅亡し、越後上杉家は北陸の柴田勝家、米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛隆、信濃の森長可、上野の滝川一益といった具合に全方向を敵に囲まれることになり、崩壊一歩手前まで追い詰められるのである。

 この時、上杉景勝は最も信頼できる兼続を若くして家老に抜擢し、兼続はその才能を発揮して困難によく耐えていく。しかし、兼続の実家である樋口家の家格が低かったことから、彼に更に重きをもたせるために上杉家中で名門であった直江家の直江信綱の妻であった「お船」と妻せられて、兼続は樋口与六兼続から直江兼続となるのである。「お船」の夫の直江信綱は、「御館の乱」で景勝側につき、景勝に重用されていたが、重臣の遺領をめぐるトラブルで春日山城内において殺されてしまっていたのである。「お船」は、直江家の姫で前夫の信綱は婿養子であり、直江家は「お船」によって存続していたのである。越後一の美女だったと言われている。本書では兼続と「お船」は幼い頃から知り合いで、それぞれの慕情を抱いていたと展開する。

 この後、状況は急激に変化し、時代はめまぐるしく変わっていく。何よりも周囲を敵に囲まれて存亡の危機に陥った越後上杉家に天が味方したとしか思えないような出来事が起こる。それは、明智光秀による本能寺の変である。甲斐の武田家を破り、破竹の勢いで天下布武を行ってきた織田家は、何よりも信長という中心に回っており、その信長を失って、上杉家を取り囲んでいた織田軍は撤退を余儀なくされたのである。そして、天下は秀吉のもとに統一されていく。その経過も詳細に追われているが、秀吉が直江兼続を見初めて自分の家臣にしたいと強く願ったが、兼続と上杉景勝の主従関係が強い信頼で結ばれていたことを知らされただけであったことはよく知られている。

 秀吉は、東北の要として上杉家を越後から会津に移封するが、その時、直江兼続に特別に30万石の所領を与えて厚遇したのである。しかし、直江兼続はこれを上杉景勝に返上し、6万石を受けただけである。直江兼続の名は天下に広まっていくし、また、文人としてもその深い知識と教養が京都で発揮されていくことになる。本書はここで直江兼続と千利休の娘「お涼」との出会いを描くが、やがて利休が秀吉によって自刀に追い込まれる過程も描き出している。また、石田三成との関係と相違点も明瞭に描き出していく。こうした展開と手法は実に見事であり、歴史理解もすっきりしている。

 直江兼続の生涯は、織田、豊臣、徳川と激動した戦国後期の時代と直接に関係があるから、それを述べると戦国史の全部を語ることになるので、詳細は割愛するが、やがて秀吉の朝鮮侵攻と死、徳川家康の天下覇権に向けた策略と石田三成、そして上杉家を守る直江兼続との関係、有名な「直江状(家康に堂々と渡り合った書簡)」などを経て、関ヶ原の戦いと大坂の陣、そして上杉家の減封と兼続の苦心などが、丁寧に展開されていくのである。

 本書は、真田幸村の異母姉「初音」を登場させたり、千利休の娘「お涼」を登場させたりして、人間直江兼続の姿を描くと同時に、利が支配する世の中で義を通していく姿をいかんなく描き出していくし、人間の信頼の強さともろさも描き出す。

 図書館の返却日が迫り、長くなったので、随分と省略してしまったが、直江兼続は、その智も勇も兼ね備え、多くの人々を魅了し、おそらく戦国の世の超一流の人間であったと思っている。彼を描いた作品も多いが、本書は一読に値するものだと思う。

2012年9月3日月曜日

葉室麟『霖雨』


 今年の8月は外出も多く、また、格別に暑かったこともあるのか、どこか気分的に浮ついたところがあって、沈思黙考の日々のはずであったのに、流れるように日々が過ぎていった感がある。読書もあまり進まなかった。そろそろネジを巻き直さなければならないと思っている。

 それでも、出先で読む本がなくなり、本屋をのぞいて、葉室麟『霖雨(りんう)』(2012年 PHP研究所)を買ってきて読んだ。独特の凛とした雰囲気をかもし出す文章に改めて感じ入りながら、静かに流れていく展開を追い続けた。

 本書は、江戸時代後期に日本最大の私塾となり、多くの優れた人物を排出した「咸宜園(かんぎえん)」を設立した広瀬淡窓(たんそう 1782-1856年)の姿を描いたもので、儒学者という枠内では収まらないほどの博学者で、漢詩人であり、何よりも教育者であり、「人材を教育するのは、善の大なるものなり」と語って生涯を教育にささげた淡窓の苦闘を描き出したものである。

 「咸宜園」という広瀬淡窓が設立した私塾の名前は、『詩経』の「玄鳥篇」の一節「殷、命を受くること咸宜(ことごとよろし)、百禄是何(ひゃくこれなに)」の「ことごとよろし」から採られたもので、そこには、身分の区別なく誰でもが学ぶことができるということや、偏りなくさまざまな学問を学ぶことをよしとすること、そして、学ぶ者(塾生)のそれぞれの個性を尊重するという、淡窓の教育方針の根幹が込められているといわれている。広瀬淡窓は、「鋭きも、鈍きもともに捨てがたし。錐と槌とに使い分けなば(人にはそれぞれに違った能力があり、鋭い錐のような者もいれば、鈍い槌のような者もいるが、役に立たない者など一人もなく、その能力にあった使い方が大切である)」と語り、すべての人に門戸を開いたのである。「咸宜園」からは、幕末に大きな影響を与えた人々が多く輩出している。

 広瀬淡窓が「咸宜園」を開いた豊後日田(大分県日田市)は、江戸幕府直轄の天領で、今でも当時の街並みが残されており、わたし自身も何度も訪ねたことがある温泉地で、筑紫次郎と呼ばれる筑後川上流の盆地である。今年の7月の集中豪雨で大きな被害が出たと報じられているが、普段は、盆地特有の気候ではあるが、風光明媚で穏やかな土地柄を持ち、鮎が川面をはねたりする。周辺の山間部では杉や檜の木材がとれ、筑後川を使っての「日田川通船」と呼ばれる海運が盛んであった。

 江戸幕府直轄の天領時代には、豊前。豊後、日向、筑前の全天領12万石を統率する代官が置かれ、日田陣屋が設置されて、江戸中期以降は西国郡代が置かれていた。そして、京や大阪、江戸を手本にした町人文化が栄え、「日田金」と呼ばれる資金をもとにした大名や豪商への貸付金を行う「掛屋」と呼ばれる商人が指定され、莫大な利益がもたらされた。この「日田金」をめぐっての小説を、かつて松本清張が『西海道談綺』(新装版 文春文庫 1990年)という大作を書いている。

 広瀬淡窓は、この「日田金」を扱う豪商であった博多屋三郎右衛門の長男として生まれ、幼少の頃から聡明であったが、病弱であったために家業を弟の九兵衛に譲り、自らは学問と教育に一生をかけていった人で、温厚で寛容な人であった。そして、真の寛容さというのは、自らを厳しく律することができることを前提にいているが、淡窓は「万善簿」という自己の善悪を判断する記録を晩年までつけていた。

 葉室麟『霖雨』の物語は、全国的に優秀な私塾として名の売れた「咸宜園」を支配下に置くことによって自分の名誉を高めようとする代官であった塩谷大四郎から真の教育に情熱を傾ける広瀬淡窓に加えられる数々の圧力と、その圧力の中でなんとか真偽を曲げないで生き抜こうとする淡窓の姿が描かれていく。

 ことに、1837年(天保8年)に大阪で大塩平八郎の乱が起こったことで、江戸幕府は学者や私塾に対する警戒と弾圧を強めたが、作中に、「咸宜園」の門弟が大塩平八郎の乱に加わり、幕吏の手を逃れて淡窓に保護を求めてくるということを登場させて、学問と政治、あるいは学問の実践という問題を絡ませながら、しかもそれを執着的な愛情や深い恋心などと合わせて人間の生き方と姿として描き出していくのである。

 日田地方は幾筋もの川が流れる盆地で、春から秋にかけては朝夕には「底霧」と呼ばれる霧がよく発生し、降水量も多くて、夏は暑く冬は寒いところであるが、作者は、「底霧」、「雨、蕭々(しょうしょう)」、「銀の雨」、「小夜時雨」、「春驟雨(しゅうう)」、「降りしきる」、「朝霧」、「恵み雨」、「雨、上がる」、「天が泣く」といった表題をつけて、その雨になぞらえながら物語を展開する。ちなみに表題として用いられている「霖雨」というのは、「幾日も降り続く長雨」のことで、教育者としての広瀬淡窓や彼を支えた弟の広瀬九兵衛が陥った困難が長く続いたことを表しているのである。

 この作品の中で、淡窓の父親である広瀬三郎右衛門が臨終を迎える時に、私欲に駆られた代官の様々な圧力の中で苦悩する淡窓に、次のように言い残す場面が描かれている。

 「ひとが生きていくということは、長く降り続く雨の中を歩き続けるのに似ている。しかしな、案じることはないぞ。止まぬ雨はない。いつの日か雨は止んで、晴れた空が見えるものだ」(89ページ)

 本書は、それが主題となって展開されていくのである。そして、いくつかの経過の後に圧力を加えていた代官の塩谷大四郎が更迭されて、「咸宜園」に平和が戻ってきた時に、淡窓が苦楽を共にしてきた弟の九兵衛に「わたしは一介の凡愚だ。だが、焦らずに、歩みを止めることのない凡愚であろうとは思っている。さすれば、少しずつであろうが前へすすむことができようからな」(261ページ)と語る。その降り続く雨の中を焦らずに少しずつ進んでいく姿が描かれるのである。

 題材が学者であり教育者であった広瀬淡窓という穏やかで思慮深い人を取り上げてあるのだから、本書も広瀬淡窓の抱えた苦悩が、まさに降り続く霖雨のように染み込んでくるように描かれていくし、その中で、決して争わず、自分の歩みをひたすら続けていこうとする人間の姿が描かれていくのである。葉室麟の作品は、やはり、味わい深い。つくづくそう思いながら読み終えた。