2012年9月3日月曜日

葉室麟『霖雨』


 今年の8月は外出も多く、また、格別に暑かったこともあるのか、どこか気分的に浮ついたところがあって、沈思黙考の日々のはずであったのに、流れるように日々が過ぎていった感がある。読書もあまり進まなかった。そろそろネジを巻き直さなければならないと思っている。

 それでも、出先で読む本がなくなり、本屋をのぞいて、葉室麟『霖雨(りんう)』(2012年 PHP研究所)を買ってきて読んだ。独特の凛とした雰囲気をかもし出す文章に改めて感じ入りながら、静かに流れていく展開を追い続けた。

 本書は、江戸時代後期に日本最大の私塾となり、多くの優れた人物を排出した「咸宜園(かんぎえん)」を設立した広瀬淡窓(たんそう 17821856年)の姿を描いたもので、儒学者という枠内では収まらないほどの博学者で、漢詩人であり、何よりも教育者であり、「人材を教育するのは、善の大なるものなり」と語って生涯を教育にささげた淡窓の苦闘を描き出したものである。

 「咸宜園」という広瀬淡窓が設立した私塾の名前は、『詩経』の「玄鳥篇」の一節「殷、命を受くること咸宜(ことごとよろし)、百禄是何(ひゃくこれなに)」の「ことごとよろし」から採られたもので、そこには、身分の区別なく誰でもが学ぶことができるということや、偏りなくさまざまな学問を学ぶことをよしとすること、そして、学ぶ者(塾生)のそれぞれの個性を尊重するという、淡窓の教育方針の根幹が込められているといわれている。広瀬淡窓は、「鋭きも、鈍きもともに捨てがたし。錐と槌とに使い分けなば(人にはそれぞれに違った能力があり、鋭い錐のような者もいれば、鈍い槌のような者もいるが、役に立たない者など一人もなく、その能力にあった使い方が大切である)」と語り、すべての人に門戸を開いたのである。「咸宜園」からは、幕末に大きな影響を与えた人々が多く輩出している。

 広瀬淡窓が「咸宜園」を開いた豊後日田(大分県日田市)は、江戸幕府直轄の天領で、今でも当時の街並みが残されており、わたし自身も何度も訪ねたことがある温泉地で、筑紫次郎と呼ばれる筑後川上流の盆地である。今年の7月の集中豪雨で大きな被害が出たと報じられているが、普段は、盆地特有の気候ではあるが、風光明媚で穏やかな土地柄を持ち、鮎が川面をはねたりする。周辺の山間部では杉や檜の木材がとれ、筑後川を使っての「日田川通船」と呼ばれる海運が盛んであった。

 江戸幕府直轄の天領時代には、豊前。豊後、日向、筑前の全天領12万石を統率する代官が置かれ、日田陣屋が設置されて、江戸中期以降は西国郡代が置かれていた。そして、京や大阪、江戸を手本にした町人文化が栄え、「日田金」と呼ばれる資金をもとにした大名や豪商への貸付金を行う「掛屋」と呼ばれる商人が指定され、莫大な利益がもたらされた。この「日田金」をめぐっての小説を、かつて松本清張が『西海道談綺』(新装版 文春文庫 1990年)という大作を書いている。

 広瀬淡窓は、この「日田金」を扱う豪商であった博多屋三郎右衛門の長男として生まれ、幼少の頃から聡明であったが、病弱であったために家業を弟の九兵衛に譲り、自らは学問と教育に一生をかけていった人で、温厚で寛容な人であった。そして、真の寛容さというのは、自らを厳しく律することができることを前提にいているが、淡窓は「万善簿」という自己の善悪を判断する記録を晩年までつけていた。

 葉室麟『霖雨』の物語は、全国的に優秀な私塾として名の売れた「咸宜園」を支配下に置くことによって自分の名誉を高めようとする代官であった塩谷大四郎から真の教育に情熱を傾ける広瀬淡窓に加えられる数々の圧力と、その圧力の中でなんとか真偽を曲げないで生き抜こうとする淡窓の姿が描かれていく。

 ことに、1837年(天保8年)に大阪で大塩平八郎の乱が起こったことで、江戸幕府は学者や私塾に対する警戒と弾圧を強めたが、作中に、「咸宜園」の門弟が大塩平八郎の乱に加わり、幕吏の手を逃れて淡窓に保護を求めてくるということを登場させて、学問と政治、あるいは学問の実践という問題を絡ませながら、しかもそれを執着的な愛情や深い恋心などと合わせて人間の生き方と姿として描き出していくのである。

 日田地方は幾筋もの川が流れる盆地で、春から秋にかけては朝夕には「底霧」と呼ばれる霧がよく発生し、降水量も多くて、夏は暑く冬は寒いところであるが、作者は、「底霧」、「雨、蕭々(しょうしょう)」、「銀の雨」、「小夜時雨」、「春驟雨(しゅうう)」、「降りしきる」、「朝霧」、「恵み雨」、「雨、上がる」、「天が泣く」といった表題をつけて、その雨になぞらえながら物語を展開する。ちなみに表題として用いられている「霖雨」というのは、「幾日も降り続く長雨」のことで、教育者としての広瀬淡窓や彼を支えた弟の広瀬九兵衛が陥った困難が長く続いたことを表しているのである。

 この作品の中で、淡窓の父親である広瀬三郎右衛門が臨終を迎える時に、私欲に駆られた代官の様々な圧力の中で苦悩する淡窓に、次のように言い残す場面が描かれている。

 「ひとが生きていくということは、長く降り続く雨の中を歩き続けるのに似ている。しかしな、案じることはないぞ。止まぬ雨はない。いつの日か雨は止んで、晴れた空が見えるものだ」(89ページ)

 本書は、それが主題となって展開されていくのである。そして、いくつかの経過の後に圧力を加えていた代官の塩谷大四郎が更迭されて、「咸宜園」に平和が戻ってきた時に、淡窓が苦楽を共にしてきた弟の九兵衛に「わたしは一介の凡愚だ。だが、焦らずに、歩みを止めることのない凡愚であろうとは思っている。さすれば、少しずつであろうが前へすすむことができようからな」(261ページ)と語る。その降り続く雨の中を焦らずに少しずつ進んでいく姿が描かれるのである。

 題材が学者であり教育者であった広瀬淡窓という穏やかで思慮深い人を取り上げてあるのだから、本書も広瀬淡窓の抱えた苦悩が、まさに降り続く霖雨のように染み込んでくるように描かれていくし、その中で、決して争わず、自分の歩みをひたすら続けていこうとする人間の姿が描かれていくのである。葉室麟の作品は、やはり、味わい深い。つくづくそう思いながら読み終えた。

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