2012年9月28日金曜日

南原幹雄『将軍家の刺客』


 接近している台風の影響で、曇って、ときおり、「野分」という言葉がぴったりのような強い風が吹く。今年の中秋の名月は30日(日)だそうだが、台風の本土上陸が予想されているので、観月はむりだろう。

少し前に、南原幹雄『将軍家の刺客』(2003年 徳間書店)を読んだ。これは江戸時代初期に徳川家康と共に江戸幕府を作り、智者、切れ者と言われながらも失意のうちに晩年を過ごさなければならなかった本多正純の晩年の姿を、幕閣から送り込まれる刺客と本多正純を守ろうとする忍者たちとの攻防を織り込みながら描き出したものである。

 本多正純(15651637年)は、徳川家康が最も信頼して参謀・相談役としていた本多正信(15381616年)の長男として生まれ、家康の側近となり、その才気で家康の寵愛を受けて、父正信とともに江戸幕府草創期の中心人物となった人間である。家康が将軍職の座を秀忠に譲り、駿府で大御所として二元政治を始めると、正純は家康の補佐として、そして秀忠の補佐に秀忠を支えてきた大久保忠隣がつき、両者の調停を正純の父親の正信が果たすという形が取られたが、当然、江戸の秀忠は駿府の家康に頭が上がらないのだから、正純は家康の懐刀として比類ない権勢を誇っていった。

 やがて、秀忠の補佐をしていた大久保忠隣を、慶長19年(1614年)に起こった「大久保長安事件」に関連させて謀略を用いて失脚させ、徳川幕府初期の政治の一切を掌握するようになり、豊臣家を滅ぼすための口実となった「方広寺鐘銘事件」(豊臣家が建立した鐘楼に家康を侮辱する銘が刻まれている問の言いがかりをつけた)を金地院崇伝らと画策して大阪冬の陣の発端を開くようにしたとも言われ、また、冬の陣の後、大阪城の外堀を埋め立てる交渉を成功させている。これによって難攻不落と言われた大阪城は裸城となり、続く夏の陣で豊臣家は滅びたのである。彼は策略家として徳川家第一の功労者になったのである。

 しかし、その2年後の元和2年(1616年)、徳川家康と、それに続いて後を追うようにして父親の本多正信が死去し、正純は秀忠の幕閣に加えられ、家康の遺言を聞いた者として、遺産の分配や日光東照宮造営奉行などを務めるが、亡き家康の権勢を傘にきたところもあり、秀忠やその側近の幕閣に疎まれ、秀忠側近として力をつけてきていた土井利勝から排斥されていく。

 正純の父の正信は、権勢を得て自ら大身になると、人々の嫉妬や恨みを買うことになるので、決して加増を望んではならないと言い残し、自らも家康の度々の加増を断るほど身を律していたが、正純は自分の働きの報酬としては当然のこととして宇都宮十五万五千石の大名となる。

 だが、このことが正純失脚の始まりで、正純が改築した宇都宮城に秀忠暗殺の仕掛けが施されているということが訴えられたのである。正純の宇都宮拝命で宇都宮城を追い出されることになった前城主の奥平忠昌の祖母は、家康の長女で、秀忠の姉に当たる加納御前(亀姫)であり、亀姫はまた、正純の策謀によって失脚させられた大久保忠隣の長男忠常の妻でもあったから、正純に対する恨みは骨髄のものだったのである。将軍秀忠は造成された日光参詣の帰路、宇都宮城に一泊する予定であったが、「正純が宇都宮城の天井に仕掛けを施して秀忠暗殺を企んでいる」との直訴を受けて、宇都宮城一泊を中止した(宇都宮釣天井事件)。

 やがて、幕閣は都合14箇条からなる罪状嫌疑を突きつけ、このうち、城の修築で正純の意に従わなかったという理由で将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、許可なく抜け穴の工事をしたことの三つが咎められることになる。秀忠は、先代から忠勤に励んだことを鑑みて、出羽の由利郡への五万五千石の減封に処すが、正純は謀反に身に覚えがないということで毅然とこれを拒絶した。それが秀忠の更なる怒りを買い、秀忠は本多家を改易し(取り潰し)、正純の身柄は佐竹義宣に預けられて、出羽の横手に流罪となったのである。正純の改易の表向きの理由は「日頃の奉公、よろしからず」である。こうした正純への処置には、将軍秀忠と老中土井利勝の思惑が働いていたというのが通説である。

 正純を預かった佐竹家では、流罪とはいえ、かつての老中首座であった正純を手厚くもてなしていたが、後に幕府がこれを知り、厳しい監視のもとで屋敷を釘付けにし、ひどい幽閉状態に置くことを命じたので、陽も射さない屋敷の中で、正純の嫡男の正勝は35歳で病死した。やがてこの釘付け状態はあまりにもひどいということで改善され、正純はその7年後の1637年まで生きた。享年73である。

 本書は、家康の時代に智謀を誇り、権勢を誇った正純が一瞬にして転落していき、佐竹家預りとなって生きていく姿を追いながら、正純を徹底的になき者にしようとする土井利勝が放つ刺客と、正純の身を守ろうとする者たちの死闘を描いたもので、放たれた刺客とそれを阻止しようとする者たちが、かつては師弟の中であり、それぞれの手の内を知る者どうしであることを前提に戦う姿を描いていく。ひどい境遇に落とされた正純がよく耐え抜いていく姿も克明に描かれる。

 もちろん、エンターティメント性の高い南原幹雄の作品であり、緊迫する死闘の描写や男女の絡みなども十分に描かれているが、本多正純と石田三成が同じような智略に溺れる者であるとされている点が興味深い。「智に働けば角が立つ」ではないが、謀に生きる者は謀に滅び、自分の智を頼りとする者は智によって裏切られていく。図る者は図られる。そんなことを痛切に感じさせる作品ともなっている。本田正純という、栄華を誇り、やがて転落して非業のうちに人生を終えなければならなかった人物を中心にエンターティメント性をふんだんに盛り込んだ作品である。

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