2010年7月28日水曜日

鳥羽亮『剣客春秋 初孫お花』

 文字通りに「うだる」ような暑さが続いている。今朝、3月に注文していた新しい車が届けられたので、車内の荷物を引っ越したり、車の操作方法を調べたりしていた。これまでの車は平成元年のものだったから、22年間も使用われ、自分で修理しながら乗ったりしていたが、新しい車は便利になったとはいえ、自分では何もできないような仕様になっている。排気量がこれまでの半分ほどになり、小さくなったと思っていたが、外観に比して実寸はそうでもなかった。やがて乗り慣れるだろう。

 それはそれとして、昨日、鳥羽亮『剣客商売 初孫お花』(2007年 幻冬舎)を読んだ。これは、一昨日に記した『里美の涙』に続くシリーズの7作目で、夫婦になった町道場の娘里美と吉野彦四郎の間に子どもができ、主人公の千坂籐兵衛にとって初孫が誕生する。

 そういう中で、陸奥国高垣藩の江戸勤番の藩士たちが千坂道場に入門してきて、高垣藩から剣術指南役の話が持ち込まれる。ちなみに、陸奥国高垣藩というのは実在しないのではないかと思う。その藩からの要請の裏には、どうも藩の内紛に絡む問題があるようで、入門してきた藩士たちが襲われ、千坂道場の若い門弟も殺される。

 千坂籐兵衛は、藩の内紛に絡む問題には立ち入らないようにしながらも、門弟や師範が襲われたために、彼らを襲った高垣藩の一派が使う剣客らと対決していく。

 藩の内紛には、経済的に窮乏を喫した藩で、改革派と商人に癒着した保守派が血で血を争う抗争を繰り広げていた。そして、襲撃してきた者たちは、刀を横に払って顔面や首をはねる飛猿斬りと呼ばれる剣法の名手たちだったため、千坂道場の師範や彦四郎たちは傷を負い、彦四郎は千坂籐兵衛に手を引かせるために捕らわれたりする。

 この作品には、剣客小説の本領を発揮して、その飛猿斬りの名手と一刀流の千坂籐兵衛の激突の様が克明に描かれていく。もちろん、飛猿斬りというのも作者の創作だろうが、もし、俊敏な動きが可能なら不可能ではない秘剣となっている。

 こうして、籐兵衛の活躍によって藩の内紛騒動は解決していくし、藩から道場を広げるなら資金を出しても良いという提供を、自分はこのままでいいし、不要といって断る籐兵衛の無欲で質素な、ただ、家族や弟子たちに思いやりをもった姿が描かれていく。

 江戸時代も末期のこのあたりになると、どこの藩でも経済的にも政治的にも行き詰まって、どうにもならない状態が続き、改革派と保守派といった内紛もあちらこちらで起こっていくが、保守派が保身のために悪徳商人と結託したものでなくても、行き詰まりの中での内紛は起こっていた。そこには社会構造そのものの問題があったのであり、武家社会の構造そのものが歪みを是正できなくなっていたのである。明治維新は、そうした武家社会の状態が行き詰まってしまって、どうのもならなくなった果てに起こったもので、一部の英雄的な志士たちが先見の明をもって事を起こした以上に、そうした行き詰まりの切羽詰まった状況が引き起こしたものだと思っている。

 小説では、藩内の改革派と保守派の争いを明確にして面白くするために、保守派の商人と結託した姿として描かれているが、社会に対する思想的な対立の方が、リアリティーがあっただろうし、悪を悪として出現させる安易さを感じないわけではないが、主眼は剣客小説として、欲も何もなく、ただ初孫の誕生を心底嬉しがる人間としての籐兵衛の姿を描いているのだから、これはこれで十二分に面白いのである。籐兵衛は、どこまでも市井の人間として生きていく。

 人には、社会的に自分の存在を確立する必要などどこにもない。家族や周囲の人々を慈しみ、大切にして、日々の喜怒哀楽の中で、子どもや孫の誕生を喜び、人生の同伴者があることを無上のこととして、貧しくても日々の暮らしが営んでいければ、それでいい。そこには社会正義を大上段に振りかざす必要もなければ、つまらない批判精神なども発揮する必要もないし、自分の能力を誇示する必要もない。そんなことを感じながら、この作品を読み終えた。

 今日は、暑くてやりきれないが、これからシャワーを浴びて、車の保険の切り替え手続きなどが終わったら、少し買い物がてらに新しい車の慣らし運転でもしてみよう。これで車を買い換えることも、もうないだろう。

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