2010年7月30日金曜日

北原亞以子『月明かり 慶次郎縁側日記』

 昨日、久方ぶりに雨が降り、今朝も午前中までは雨が落ちていたが、午後から、ときおり夏の日差しがさし、今は曇り空が広がっている。気温も僅かだが低くなっているが、蒸し暑いのに変わりはない。『カフカ論』に少し手を入れていたが、論じても論じきれないし、書いても書ききれない感じがしてならない。こういう時は、後で読み返すと論理が堂々巡りをしていることが多いので、きっとそうだろう。

 昨夜は北原亞以子『月明かり 慶次郎縁側日記』(2007年 新潮社)を読んだ。これでおそらくこのシリーズで今まで出されているものは全部読んだことになるが、変わらずに淡々と枯れたような文章で人間の心情の顛末が綴られている。

 手籠めにあって自死した一人娘を失った元南町奉行所同心で「仏の慶次郎」と呼ばれていた森口慶次郎は、娘と結婚するはずであった晃之助を養子に迎え、家督を譲って酒屋の寮の寮番として生活しているが、彼をしたって持ち込まれる事件に関わっていくというのがシリーズの格子で、養子の晃之助は嫁を迎え、子どもができ、慶次郎は孫として可愛がっている。血は繋がっていないが、その親子や家族の姿も、慶次郎の人柄を現して爽やかで互いの思いやりに満ちている。

 本書は、その慶次郎の元に、子どもの頃に目の前で父親を殺された若者が、長い間かかってようやく父親の敵を見かけ、それを確かめたいと言ってきたのが始まりで、それを探っていく内に、若者の父親やその友人にまつわる男女のどろどろした愛憎関係が浮かび上がって来るというものである。

 登場人物のそれぞれに負い目と秘密があり、嫉妬や恨みもあり、男と女、親と子、兄弟がその中で、どうにもならない自分の気持ちを抑えきれずに愛憎劇を繰り広げていく。若者の父親は、思いやりのある人間で、彼に横恋慕した女の嫉妬心やその女に惚れている別の男のとばっちりを受けて殺されたのである。

 巻末の方で「月明かりの中での勘違いで不幸になる」というくだりが出てくる。それぞれの愛憎が月明かりの中での薄ぼんやりと見えた出来事に過ぎないというのである。「一生月明かりの中にいて、お互いごまかされていりゃ幸せなんだ。弥吉(父親を目の前で殺された若者)のように、月明かりの中ではっきり父親殺しの顔を見ちまうと、みんな不幸せのもとになる」(209ページ)と自分の恋が実らずに不幸せだと思っている女が思う。

 本書の表題は、そういうところから採られているのだろう。そして、それと対比するように、「ずっとやさしい気持ちでいられたら幸せ」という姿として、子どもが自分の子ではないと知りながらも自分の子として可愛がった若者の殺された父親の姿や森口慶次郎の姿が描かれる。

 もちろん、人に裏切られて悔しい思いをしなければならない人間の思いも赤裸々に描かれるが、それでも、「お互いにやさしい気持ちで生きられたら幸せ」の方へ傾いていくのである。そういうことは、寮番としていっしょに暮らす口うるさい左七という男を有難いと思っている慶次郎の姿の中に込められていく。

 北原亞以子の作品は、『深川澪通り木戸番小屋』でもそうだが、優しさにあふれている。どうにもならない状況の中で、「人の優しさ」というより「思いやり」が宝石のように光る作品である。もちろん、それだけではどうにもならないのが人間であるが、そんなことは承知の上で、なお、その「思いやり」を描こうとする。そういう姿勢がいいと思っている。

 ただ、本書を読みながら、「惚れたら、惚れたものは仕方がない」という思いを抱き続けていた。「あばたもえくぼ」とはよく言ったものである。「惚れる」というのは生物学的にはホルモンの働きに過ぎないが、惚れたら倫理も思想も、何もかもが吹っ飛んでいく。そして、そういう「惚れる」ことを経験することができる人間は、それだけでもう最高の幸福を知ることになるのだろう。「惚れる」ことは自分の実存を実感できることである。ただ、惚れていることを実感でき、心底惚れて、惚れ抜くということは実際の人間には「まれ」なことかもしれない。いいかげんの「月明かり」が現実かも知れないと思ったりもする。そう思うところに、夢も希望もないが。

0 件のコメント:

コメントを投稿