2011年3月30日水曜日

山本一力『かんじき飛脚』

 気温はまだ充分高いとは言えないが、今日は少し春を感じる日になった。このところ東京電力による計画停電の実施も見送られて、町は平穏さを取り戻しつつある。人はいつも、それが劣悪な環境であれ、その時々の状況の中で生きていくのだし、環境への順応性も高い。課題は、これまで築かれてきた社会のシステムそのものを変換することだろう。ささやかなことの中に「こころ」が感じられるような人間となり、そこからシステムが構築され直されればいいと思ったりする。


 毎日報道される被災地の様子を見て涙を流さない日々はないが、壊滅した町々の復興について、あるいはこの社会全体のあり方について、学者は専門家として、対処療法ではなく、もっと素直に、素朴に、そして大胆に未来への道筋を提言するべきかも知れないと思ったりする。


 個人的な風邪の症状はだいぶ治まってきて、体力が完全に回復するとまではいかないが、咳も止まって楽になってきた。それでも夜遅くまで仕事をするというわけにはいかないので、たいていは、ニュースを見ながら小説を読んでいる。


 昨夜は、山本一力『かんじき飛脚』(2005年 新潮社)を「?」と思いながら読んだ。これは寛政の改革を行った松平定信(1759-1829年)の統治下で、加賀金沢藩の存亡をかけた藩御用達の飛脚の活躍とその姿を描いたもので、江戸から金沢までの、特に難所の多い北国街道を藩の密命を帯びて駆け抜ける飛脚たちの厚い友情や信頼、人情、そしてそれを阻止しようとして放たれた公儀お庭番との攻防を描いたものである。  作者らしい「男気」や「信頼」、また「愛情」の姿を描いた場面が随所に盛り込まれているし、当時の飛脚の生活、各宿場の様子など、食べ物から寝食に至るまで細かな描写があり、それはそれで物語として面白く読めるが、「?」と思ったのは、全体の構成の中で飛脚が加賀金沢藩の密命を帯びて駆け抜けなければならない肝心の理由に納得がいかない点があったことである。


 加賀金沢藩が老中松平定信から正月に内室同伴で招待を受けた。こうした招待を受けること自体や内室(藩主の正室)同伴というのも前例のないことであり、そこに松平定信の企みの匂いをかいだ加賀金沢藩では困惑が走る。調べてみると招待を受けたのは加賀金沢藩と土佐藩だけであり、それぞれの留守居役どうしが互いに信頼して内情を打ち明けてみると、両藩共々に内室が病の床にあることがわかり、「内室同伴」というのが不可能に近いことが分かる。


 加賀金沢藩では、内室の病状回復のための「蜜丸」という秘薬があり、「内室同伴」を果たすためにはそれが必要となる。そこで、その「蜜丸」の運搬を飛脚に依頼するのである。松平定信は、その秘薬の運搬を阻止し、加賀金沢藩の落ち度を攻めるために、公儀お庭番を送るのである。


 しかし、なぜ松平定信がそのような画策をしたのか、果たしてそれが有効で必要な画策なのかの根拠がいまひとつわからない。


 本書では、松平定信が行った札差(武家の俸給であった米をあずかり、それを担保に武家に金を貸した)への借金棒引き策である「棄損令」によって、金を貸し渋るようになった札差からの借金ができなくなった武家が一気に窮乏に陥った。江戸の経済も全く停滞した。松平定信は、貸す金がないといって武家への貸し渋りをする札差に五万両もの金を貸し付けようとするが、札差たちはこれを拒否四、武家の生活はさらに窮乏を極めていくことになる。


 そして、「かくなるうえは、内室同伴を果たせぬことを責めるしかない」(257-258ページ)となるのだが、札差への公金貸付と加賀金沢藩と土佐藩を責めることが、どうにもつながらない。加賀金沢藩と土佐藩は、それぞれに幕府に内密にしている火薬の製造や鉄砲の貯蔵などがあるが、江戸の経済打開策と両藩を責めることに根拠が見いだせないのである。


 もうひとつは、松平定信が老中であったとしても、内室同伴の招待は「私的な招待」であり、内室の病状が幕府に届けられていなかったにしろ、「内室が急な病ゆえに」という理由が立つはずで、それを藩の存亡をかけたことがらとして受け止める加賀金沢藩の姿にリアリティーがない。また、飛脚たちが命がけで守ることになる「蜜丸」という秘薬で、病の床にある内室の病状が一時的にしろ招待に応じられるほど回復するというのも、どうもしっくりこない。


 飛脚たちや飛脚問屋の主人たちの姿は、それぞれに味のあるものになっているが、その飛脚たちを走らせる根拠に「?」を感じてしまったのである。飛脚の姿を描くのに妙な政争を持ち込まなくても良かったのではないかと思ったりする。


 作者は歴史的考証も丹念であり、物語の展開にも力量があって読ませる力をもっているが、もちろん、それは本書でも充分に感じられるが、本書に関してはそういう思いをもった次第である。

2011年3月29日火曜日

佐伯泰英『密命 弦月三十二人斬り <巻之二>』

 この2~3日、久しぶりに晴れ渡った青空が広がっているが、気温が低いために寒い。暦の上では春で、先日、熊本のSさんから「熊本では桜の開花宣言が出されました」というメールをいただき、こちらでもそろそろ咲き始めるころだろうが、今年の冬は頑固に頑張っている感じがする。被災した東北では雪が舞って、身も心も凍るような日々もある。


 原子力発電所から流失している放射能の被害もかなり広範囲となり、決死の覚悟で事態の収拾に臨まれている作業員も被曝されたという報道が伝わり、痛み、嘆き、悲しみの中で人々の不安も増大し、未曾有の困惑だけが一面を包んでいる。復興に向けての歩みも始められているが、悲嘆は覆う術がなく、人はいつも痛みと悲しみを抱えながら生きていかなければならない。ただ、人はどんな状態の中でも生きていけるし、生きていく知恵もある。いたずらに薄っぺらな希望を振り回すよりも、黙々と歩むこと、そのことを改めて覚えたりしている。日本の社会の中で、とくに東北の人たちは、歴史的にも多くの辛苦をなめ、その中を忍耐強く、粘り強く生きてきた資質を宿されているのだから、その資質に深く頭が下がるのを今回も覚える。24日(木)に、こちらで「炊き出し支援」をしている人と少し話をしたりした。


 個人的には、風邪の症状の中で咳だけが残って、まだ風邪薬のお世話になっているのだが、辛さからはずいぶんと解放されてきた。体質になってしまっているのか、一度風邪を引くと回復に時間が掛かるようになってしまった。ただ、様々なことを受け入れ、受け入れして生きていくしかないと思っているので、精神的にまいることはなく、平常と変わりない。


 発熱で寝込んでいる中で読んだ小説のひとつに、佐伯泰英『密命 弦月三十二人斬り<巻之二>』(2007年 祥伝社文庫)があるので、ここで記しておくことにする。  これは、2010年末で24巻を数える長大なシリーズとなっている剣豪小説で、江戸幕府の将軍家争いを演じて八代将軍徳川吉宗に敗れ、吉宗を激しく憎む尾張徳川家の陰謀と、その陰謀を阻止したために尾張徳川家から次々と送り出される刺客に立ち向かわざるを得なくなった直心影流の達人である剣客金杉惣三郎と、剣の道を究めようとするその息子清之助の活躍を描いたもので、その家族である長女の「みわ」、後妻の「しの」とその間にできた次女の「結衣」などの家族愛が盛り込まれ、穏和で質素、質実剛健の金杉惣三郎の人柄などが描き出されて、テレビドラマにもなる長大なシリーズとなっている。


 「巻之一」の『見参!寒月霞斬り』で、豊後相良藩(架空)の藩主を巡るお家騒動から藩主の密命を帯びて江戸で浪人生活をすることになった主人公の金杉惣三郎は、直心影流の秘剣「寒月霞斬り」を使って陰謀を粉砕し、この「巻之二」で『弦月三十二人斬り』で、豊後相良藩江戸留守居役として復命し、手腕を発揮して、藩主の厚い信頼の中で、倹約を励行する一方で藩の物産品の販路を広げるなどして藩の財政を立て直し、借財の返済を行い、藩政の立て直しに向けての日々を過ごすことになるのである。


 時はちょうど僅か四歳で七代将軍となった徳川家継が七歳未満で死去し、将軍家の跡目を巡って、徳川御三家である紀州徳川家と尾張徳川家(水戸徳川家には継嗣となる資格者がいなかった)が壮絶な争いをし、紀州の徳川吉宗が第八代将軍となることが決定した頃だった。


 しかし、吉宗の出生には、吉宗の生母が紀州和歌山城大奥の湯殿番という身分の低いこともあって(吉宗の生母は「御由利-おゆり-の方」と呼ばれる)、早くから疑義がもたれ、また、吉宗が紀州藩主となるにあたっては、継嗣であった長兄や次兄、父親までもが次々と死去したこともあり、御三家筆頭であった尾張徳川家の当主も若くして相次いで死去したことなどから、吉宗の将軍職就任にはいくつかの陰謀説が起こったりしていたのである。


 本書では、この徳川吉宗の出生を巡っての、その秘密を秘匿しようとする紀州徳川家と、秘密を暴露して吉宗の将軍職就任を阻止しようとする尾張徳川家の争いに小藩である豊後相良藩が巻き込まれ、相良藩江戸留守居役の金杉惣三郎も藩を守るための決死の働きをしていくということになっている。


 事の起こりは、相良藩主の夫人となった麻紀姫が相良藩下屋敷で月見の宴をしようとしていたところを何者かに襲撃され、麻紀姫の乳母であった「刀祢(とね)」が殺されたことに発する。江戸留守居役としての金杉惣三郎は、なぜ相良藩が襲われ、「刀祢」が殺されたのか、襲撃者がどのような背景をもっているのかなどを探るうちに、「刀祢」が、かつては将軍職に就こうとする徳川吉宗の乳母で、その出生の秘密を知っていたことを知り、また、襲撃者が紀州藩主に仕える忍びの集団であることを知っていく。そしてそこに吉宗の出生の秘密を暴露して将軍職就任を阻止しようとする尾張徳川家の暗躍が絡んでくる。  将軍職を巡っての尾張徳川家と紀州徳川家の争いに巻き込まれた小藩である豊後相良藩はひとたまりもなく潰されてしまう。江戸留守居役としての金杉惣三郎は、懸命に藩の存続のために働き、藩籍を離れ、再び一介の浪人となり、ことの収拾のために働くことにする。そして、「刀祢」が残した吉宗修正の秘密を記した証拠の書を巡って暗躍する紀州の忍び集団と尾張の暗殺集団に対峙していくのである。


 この展開の中で興味深いのは、吉宗の生母が和歌山城大奥の湯殿番であった「御由利の方」ではなく、実は朝鮮通信使に随行させられてきたマカオ生まれの異国の娘でキリシタンでもあったという奇想天外の発想が、無理なく、あり得るかも知れないという形で、しかも物語展開の鍵として設定されていることである。「巻之一」でも相良藩の藩主を巡る争いの元になったのが、藩主が集めたキリシタン本にあるということで話が展開されているのだが、こうした設定は作者独自の世界感覚ではないかと思う。


 興味深いことのもうひとつは、南町奉行になる前の大岡忠相(越前守)が、主人公を高く評価し、共に事態の収拾に向けて行動することで、それなりの人物として描かれていることである。大岡忠相については、既に江戸時代から数多くの講談や歌舞伎、そして近・現代の小説やドラマで名奉行として取り上げられ、人情溢れる庶民の味方、正義の士としてのイメージがほぼ定着しており、ここでもそうしたイメージで名判断を行う人物として登場している。  さらに、物語の流れの中で、金杉惣三郎自身や家族の姿が盛り込まれ、金杉惣三郎の長男である「清之助」がまだ自分の道が見いだせずに放蕩していく姿や長女の「みわ」の健気でそれでいてしっかりした姿、前妻亡き後に惣三郎と相愛になりながらも身を引いていた「しの」の姿と再会、その間に「結衣」という娘が生まれたことなどがあり、物語の主筋と剣豪としての活躍以上に、家族愛や周囲の人々への思いやりなどがあり、作品が単なる剣豪小説ではなく、家族愛を描いた作品にもなっていることが、作品が内包する豊かな妙味である。


 ただ、シリーズはその後もまれに見る長大なものとなっており、それらを読んで見ると、その後、市井で剣術道場を開くことになる金杉惣三郎や剣の道に邁進していく清之助の姿が、剣豪としてあまりにも並外れた理想的なものとなり過ぎているような気がしないでもない。それぞれの子どもたちがそれぞれの成長していく姿が克明に描かれているので、それはそれで面白いものになってはいるが、個人的には、剣の闘いの場面が人並みを越えているところは、どうもしっくりこない感があるし、作者のもうひとつの長大なシリーズとなっている『居眠り磐音 江戸双紙』と重なるところが多いような気もする。


 ともあれ、なぜこの作者の作品が極めて多くの人々に好んで読まれるのかは、分析に値するかもしれない。

2011年3月24日木曜日

米村圭伍『エレキ源内 殺しからくり』

 春分の日の21日と22日に雨が降ったので、福島の原子力発電所から漏れている放射性物質の土壌へのしみ込みを案じていたら、昨日は葉物野菜類に摂取制限が出され、都内の水道水も乳児への摂取を控えた方が良いという指示が出された。摂取しても案ずるほどではないとは言え、昨日はスーパーマーケットの飲料水があっという間に売り切れていた。どんなに「直ちに健康被害が出るわけではない」と告げられても、健康志向が強くなっている現代人にとって不安の増大は避けられないだろう。不安感は特別に感染しやすいのだから。

 人が安全で健康であることは素晴らしいことだが、人生は絶妙なバランスの上でしかなく、いつも危機に満ち、人は多かれ少なかれ病状を抱えながら生きているのであり、むしろそれらを案じ、曖昧な噂に振り回されて、かえって不安になる精神の方が心配である。「頑張ろう」とか「勇気を与える」とかいった大上段に振りかざしたような呼びかけが為されるところにも、考慮されない思想性や精神性のなさを感じてしまう。とは言え、不安定な状態が続いており、これからも続くだろう。

 こういう中で、夜は変わらずに本を読み続けているが、読書というものは、読み手の状況や状態にも大きく作用されて、個人的な体調がなかなか回復しないこともあって、常に主観的なものでしかないことを痛感させられている。昨日読んだ米村圭伍『エレキ源内 殺しからくり』(2004年 集英社)も、歴史的な考証に裏打ちされているとは言え、江戸時代の自然科学者であった平賀源内が、十八歳で怪死した徳川家基の死因に関係したとか、四方赤良(よものあから)という狂歌師として著名な大田直次郎が平賀源内の事件に関連して老中であった田沼意次やその時代の政治に暗躍したといわれる一橋家の徳川治済(とくがわ はるさだ)と関係していたとかいった構成に、いささか倦み疲れながら読んだ次第である。

 確かに、怪死した徳川家基の死には、田沼意次や徳川治済による毒殺説があるのだが、それと平賀源内のエレキテルを結びつけたり、平賀源内が田沼意次の財宝を秘匿したり、彼が人を殺すほどの電気エネルギーを放出するエレキテルを考案していたとすることなどは、平賀源内や四方赤良が著名であるだけに、想像性豊かな小説とはいえ無理がありすぎる。

 物語そのものは、獄死した平賀源内の娘「つばめ」が、源内が残した遺品をもっていることもあって、田沼意次と徳川治済の政権争いに巻き込まれ、源内が秘匿した徳川家基の暗殺道具としてのエレキテルが仕込まれた駕籠や田沼意次の財宝を、彼女を助ける者たちと共に危機をくぐり抜けて発見し、家基暗殺の真相を探り出すというもので、最後には、源内が仕掛けていた「からくり」によってすべての証拠の品が爆破され、暗躍した田沼意次は老中職を失って失脚し、徳川治済も「つばめ」によって腑抜けのようになってしまうと続けられる。

 こうした物語の展開そのものは、歴史的事象の中での奇想天外な発想に他ならないが、どこか登場人物の描き方が浮薄なような気がした。

 とは言え、平賀源内にしろ四方赤良にしろ、市井の中で生きなければならなかった人間たちが、安定した暮らしを望み、権力をもった田沼意次も徳川治済も同じように、「結局は、立身出世かい。地位を得て権力をふるい、利権を我が手に収めて私腹を肥やす。それを目指して、みんな踊り狂ってやがる」(255ページ)ような人間として作者が捕らえ、その右往左往ぶりを描き出そうとしている姿勢は、この作者ならではのものだろうと思う。

 人はただ安定を望むだけなのだが、それを望むところに、また、問題もあるのであり、安定を望むことの中に人間と世界を違った方向に導いてしまう危険も存在している。そうして世の中が何とも妙な具合にできていくところに恐ろしさもある。現代もまた、そうした時代だろうと思ったりもする。「足を知る」という境地には、なかなか届かないものである。

2011年3月22日火曜日

千野隆司『主税助捕物暦 虎狼舞い』

 春分の日が過ぎても、昨日は一日冷たい雨が降り、今日も午前中は雨模様になった。風は北東から吹いているので、おそらくこの雨には福島の原子力発電所から漏れている放射性物質が微量に含まれているだろう。ほうれん草や原乳からも放射能が検出されたと報道されている。もちろん、公表されている放射線量によれば人体にほとんど影響はない。むしろつまらない風評被害や過剰な危機感の方がよほど悪影響を及ぼしているに違いない。被災地で続いている嘆きと悲嘆の中での静かな忍耐に学ぶべきだと思っている。昨日、長期にわたっての支援活動を続けるための体制作りをして、輸送が可能になったことからトラック便を送り出すことになった。

 個人的には、風邪で寝込んだ後でもあり、体調が今ひとつのところがあるのだが、回復の兆しがあるので、もう大丈夫だろうと思っている。ただ、溜まっている家事をこなす気力はまだ湧いてこない。いくつかの仕事をこなすのが今のところ一番いいことだと思って籠もっている。

 しかし、まとまった思考はまだ無理でぼんやりすることが多い。そういう中で夜はほとんど何もせずにずっと本を読んでおり、昨日は千野隆司『主税助捕物暦 虎狼舞い』(2007年 双葉文庫)を、変わらず優れた構成と展開だと思いながら読んだ。これがこのシリーズの何作目になるのかはちょっと分からなかったが、2作目の『天狗斬り』は以前に読んでいて、主人公の楓山主税助が浮気のために破綻した夫婦の関係をどう修復していくのかという複線が続いていて、物語の中心である事件の展開とは別に、本書では妻の「美里」が心臓を患い、その妻を愛おしく看病していく主人公の思いが事件の展開と重ねられて丁寧に展開されている。

 本書で取り扱われるのは、火事騒ぎにまぎれて押し込み強盗殺人を犯した犯人が、ついでに押し込んだ甘味処で、普段は風采が上がらずに小心者と思われていた甘味屋の亭主「宇吉」にあっという間もなくやっつけられ、そのことが江戸中の評判となり、「宇吉」を巡って土地の地回りどうしが暗躍し、宇吉の過去と火事で焼け落ちた橋の普請を巡っての地回りどうしの争いの顛末である。

 橋の普請を巡っての地回りの争いの一方は、かつて「宇吉」が身を置いていた表稼業が口入れ屋で高利貸しでもある高麗屋で、「宇吉」はそこから百両という金を盗んで逐電し、その際に高麗屋の主人に手傷を負わせていた。高麗屋の主人は「宇吉」に恨みを抱き、捜していたが、宇吉のことが評判になって宇吉に手を出そうと女房とひとり娘を拐かし、宇吉を争いの味方に引き入れ、その後で殺そうと企んでいたのである。

 橋の普請を巡って争っていたもう一方は、表家業が材木屋の高利貸しで、「宇吉」の腕を見込んで、何とかこれを味方に引き入れようとしたのである。

 「宇吉」は、以前は別人物だったが、江戸に舞い戻った時に偶然知り合った女性を助けたことから、その女性のひどい従兄に成り代わり、菓子職人の「宇吉」となって再生し、家族を守って暮らしていた。だが、彼のことが評判となり、高麗屋につけ狙われたりして、橋普請を巡る争いに巻き込まれていくのである。宇吉は妻と娘が拐かされたためにやむを得ず争いの渦中に引きずり込まれる。

 主人公の楓山主税助は、その「宇吉」の過去を知り、彼を守るために一触即発の争いの場に行き、それぞれ争う者たちが自滅していく中で、高麗屋の凄腕の浪人に殺されかける「宇吉」を救い出していく。そして、「宇吉は命がけで、自分を支えてきた女房と娘を守ろうとした。その気持ちが、同じように女房と娘をもつ自分にも、伝わってくるのを主税助は感じた」(318ページ)ところで終わる。

 人は誰でもそれぞれに重荷を背負って生きているし、その重荷はそれぞれに異なるが、重荷を負おうとする者は、同じように重荷を負おうとする者がわかる。この作品では、主人公と宇吉という二人のそれぞれの重荷を負っている者が対比的に見事に描かれ、その思いが静かに潜行していく。重荷を負うことが大上段に振りかぶらされないで、日常の流れの中で描き出されるので、味わい深いものとなっている。日常の平穏さのありがたさをつくづく知っている人物が描き出されていい。

 平穏であることは有り難いことである。そして、その有り難さを真実に知る者は、また、平穏であることに固執したりはしないが、平穏であることを慈しむことを知っている。「無事」とは「事」が「無い」ことをいうのであり、淡々と日常がすごせることこそが有り難いことであるに違いない。ともあれ、「落ち着いて、穏やかに信頼して過ごすこと」、そういうことをこの頃とくに思っている。

2011年3月19日土曜日

佐藤雅美『揚羽の蝶 半次捕物控』(上・下)

 東日本全体が陥っている未曾有の危機的状況の収拾は、徐々に救援の手が差し伸べられているとは言え、未だに目途すら立たない状態が続いている。ここでも東京電力による計画停電は続いているし、福島の原子力発電所から漏れ出ている放射能被害についての無知から起こる風評被害や、食料品の売り切れ、ガソリンの手に入れにくさなどがあるし、ほとんどの経済活動も止まっている感すらある。ようやく体制が整い始めたので救援物資を送ることにしたが、関東でこんなに経済活動が停滞したら半年先に困難が予想される危惧もある。

 わたし自身の個人的体調も行きつ戻りつで、咳がなかなか止まらない。もっとも咳が止まらないのは愚かな喫煙の習慣を止めないからだろうが、いくつかの仕事をキャンセルして自宅に籠もる日々が続いている。昨日、少し出かけた方がよいと思って、あざみ野の山内図書館まで行ったら、計画停電で休館中だった。ここは停電していなかったので大丈夫かと思っていたが、浅はかだった。

 夜は、テレビのニュースを見て、時折入る緊急地震速報に目をやりながら、少し買い置いていた文庫本を読み続けているが、集中して読んでいるわけではない。それでも、日常を粛々と営むことが大切だと思い返して、これを記している。

 そういう中で、佐藤雅美『揚羽の蝶 半次捕物控』(1998年 講談社 2001年文庫版上下巻)を読んだ。これは、このシリーズの2作目で、現在まで出されている7冊のうち、第4作の『疑惑』を除いて、第1作『影帳』、第3作『命みょうが』、第5作『泣く子と小三郎』、第6作『髻塚不首尾一件始末』、第7作『天才絵師と幻の生首』の6作品を読んだことになる。これらの作品の中で、本作は最も長い作品になっている。

 本作は、江戸中期(家斉の時代)に北町奉行所の定町廻り同心岡田伝兵衛から岡っ引きとしての手札をもらっている半次が、大店の娘が痺れ薬を飲ませられて強姦された事件の犯人が備前岡山藩の中にいるらしいということで、奉行の密命を帯びて、備前岡山藩の参勤交代の人足にまぎれて岡山まで行かなければならないというところから始まり、やがては岡山藩松平家のお家騒動にまで巻き込まれていくというもので、半次自身の出生の秘密とも絡んで、孤軍奮闘していく様が克明に描き出されている。

 江戸時代の中期ともなると、武家の家制度が形骸化し初め、跡継ぎのいない武家は断絶の憂き目を見なければならなくなるので、諸藩でも跡継ぎを巡るお家騒動が頻発してきた。また、特に将軍徳川家斉は、別名「オットセイ将軍」とも呼ばれたほどの子だくさんの将軍で、生まれた子どもを次々と各藩に押しつけたことなどもあり、参勤交代や江戸屋敷(徳川幕府は各藩の妻子を江戸に一種の人質の形で置くことを命じた)の維持などに莫大な費用がかかるようになり、財政の逼迫も起こり始めた。藩主そのものは実政とは無縁のものとなり始めたが、それでも藩主の問題は藩の存亡の問題でもあったので、いくつもの藩で藩主を巡るお家騒動が藩の存亡をかける形で起こってきたのである。

 制度が形骸化されると経済が逼迫するのは必然で、大名家のお家騒動は、ほとんどが経済的問題に左右されて起こってきていたのである。

 作者はこうした状況をよく調べ、参勤交代の実像も明白にした上で、備前岡山藩松平家の中で起こった巧妙に仕組まれた跡目相続を巡る争いを、岡っ引きである主人公の半次の関わりと姿を通して物語として展開しているのである。半次は、このお家騒動にていよく利用されていくのである。そのことに対する反骨と武家の理不尽さに孤軍奮闘して立ち向かっていくのである。

 半次自身も、生命の危機を経験したり、娘が誘拐されるという事態を迎えたりしながら、娘の救出に生命をかけつつ、自分の出生が備前岡山藩松平家と関わりがあることを知り、お家騒動の決着へと向かっていく。跡目相続を巡るお家騒動を起こす人間たちは、それぞれが自分の我欲と思惑だけで動いているのであり、そのあたりの身勝手さも明瞭に示されていく。これは、このシリーズの作品の中でも傑作に類する作品だろう。

 この世の多くのことは、それぞれの思惑が複雑に絡み合いながら動いていく。そのあたりの機微が絶妙に描き出される。ただいまの状況も、日本政府や各政党、企業としての東京電力のそれぞれの思惑が異なって展開されていることに変わりはない。

 それにしても、自分の不平不満を関係各所に殺到させる人たちの精神構造はどうなっているのだろうかと思ったりもする。一方で、被災地の中学生や高校生たちが、自分も被災しながらも懸命に身体を動かして助けあう姿に胸を打たれる。彼らの忍耐と純朴さや素直さが今の状況を救うと痛感している。忍耐し、分かち合い、励まし合う人間の豊かな姿を彼らから教えさせられる思いがする。

2011年3月16日水曜日

宮部みゆき『火車』

 人は生きているといろいろなことを経験するものだが、前回これを記した3月11日(金)の午後、再び熱が高くなって、今日は無理だなと思ってすべての予定をキャンセルして寝込んでいたところ、大地がぐらぐらと揺れ続け、三陸沖の広範囲を震源地とする前代未聞の巨大な地震が発生した。「東北関東大地震」と名づけられたマグニチュード9という途方もない地震で、甚大な津波被害を伴って、青森から千葉に至る太平洋沿岸地域は壊滅状態になった。津波警報が出されてすぐに、巨大な津波が押し寄せてきたそうだ。加えて、福島にある原子力発電所が地震と津波被害によって機能を失い、放射能漏れが懸念され初め、今なおその危機が増大している。また、電力を失ったために輪番による計画停電が実施され、ここでも混乱した状態が続いている。

 この間ずっと発熱に苦しめられながら、テレビで放映される地震と津波の惨状、原子力発電所の様子を見ていた。もちろんここでも度々大きな余震を感じたりするが、寝込んだ状態でどうしようもなく、ただ関係している仙台の保育園の人たちの無事を確かめたり、関東地方も混乱状態にあることからわたしのことを案じてくださる方々からの連絡を受けたりしていた。わたしの方は、書棚から本が落ちたくらいで物理的な被害はないし、陥る状況はそのまま受け止めるようにしているので個人的なことは何も案じることはないが、東北への交通が遮断され、民間人の立ち入りができない状態なので、惨状を見ても、ただ涙を流すだけで為す術がなく、今のところ見守るしかない。もっとも、体調がひどい現状で動くこともできず、パソコンの前に長時間座ることすらできないので、如何ともしがたいのだが。

 日曜日(13日)に少し無理をしたこともあって午後から再び熱が高くなり、廃人に向かっての道を一直線に進んでいったが、ようやく峠を越えたのか、長い時間でも起きられるようになった。昨夕、風邪薬も食糧も切れてしまっていたので近くの薬局やスーパーに買い物に出かけた。しかし、驚いたことにスーパーマーケットはひどく混雑していて、ほとんどの保存食料は売り切れ、乾電池や卓上ガスコンロの燃料などは何一つなかった。実行されている計画停電に備えて、人々が不安を感じて買いだめしていると言う。ガソリンスタンドは閉鎖状態が続いているという。しかも、パニックのようにでは決してなく、整然とそれが行われている。わたしに必要なものは風邪薬と少しの野菜だけだったので、「なるほどなぁ」と思いながら帰ってきた。停電で暗闇が続いても、まあ、何も困らない。生活形態が昔に戻るだけだから。

 こういう状態だったので、眠るかテレビのニュースを見るか、あるいは少し気分がいいときに本を読むかしかなく、おかげで何冊も本を読めた。むろん、体調はまだ回復していないのだが、連絡事項もあるし、電気が通じている間に少ししなければならない仕事もあるしで、朝から根を詰めていたところだった。

 そして、この間に宮部みゆき『火車』(1992年 双葉社 1998年 新潮文庫)を読んだことだけでも記しておこうと思った次第である。時代小説ではないが、山本周五郎賞を受賞した本作品は、当時問題になり始めていたクレジットローンによる債務問題を正面に据えながら、悲惨な過去を消滅させて別人として生きていこうとする人間のあがきや悲しみをミステリーとして仕上げた作品である。

 全体に宮部みゆきらしい表現の豊かなふくらみはないのだが、複雑に入り組んだ構成や過去を消し去るために失踪した人間を追う主人公が、幼い子どもを抱えながら強盗事件で負傷して休職中の刑事であるなど、一つ一つの場面や展開に妙味があり、これも読ませる作品だった。

 今、その詳細を記す気力はないので、とにかく面白い作品だったとだけ記しておこう。

2011年3月11日金曜日

築山桂『寺子屋若草物語 闇に灯る』

 このところの寒暖の差の激しさと仕事の詰まり具合で、とうとう身体が悲鳴を上げたのか、風邪を引き込んでしまった。発熱して2~3日寝込んでしまったが、わたしのような生活スタイルの人間にとって、医者に行く気力さえも起きないし、ひたすら眠る以外にはないので、ちょっと辛いところがある。

 とはいえ、あまり休んでいるわけにも行かずに、少しだけでも仕事を片づけようとパソコンを立ち上げた。今朝計ってみたらまだ38度はある。

 そして、どうせパソコンを立ち上げたのだし、築山桂『寺子屋若草物語 闇に灯る』(2009年 徳間文庫)を読んでいたので、ぼんやりする頭ながら、これを記すことにした。もっともホームズのように「灰色の脳細胞」とはいかないわたしの脳細胞は、たいてい、いつも休眠しているのだから、少々具合が悪くても変わりはないだろう。

 この作品は、以前に物語の設定や構成、文章のうまさに脱帽しながら読んだ『寺子屋若草物語 てのひら一文』に続くシリーズの2作目で、大阪の天満で「三春屋」という寺子屋を営む「お香」、「お涼」、「お美和」の物語の中心となる三姉妹が、それぞれに個性豊かで、それぞれに魅力溢れる人物設定になっており、しかも、特に、貧しかったり親の手伝いや奉公のためであったりして昼間に寺子屋に通えない者などが手習いを学ぶために、夜に「一文稽古」という夜学のようなものを開いていることからわかるとおり、商人の町大阪で生きる人々の姿が真っ直ぐに描かれて味わい深い作品になっている。若い娘たちであるから、その揺れる恋心も絶妙なものがある。

 本書の終わりの方に、「たった一文やけど、重い一文やと思ってます。うちらは、この一文が子供らがこの先歩く道に小さな明かりを灯すことを信じて、一文稽古を続けてるんです」(282ページ)と「お美和」が語る言葉が記されているが、その思いがこのシリーズの太い骨格となっていて、それだけでも胸を打つ。

 本書は、学問好きで、大阪随一の学問所である懐徳堂に女の身で通うことを許されている次女の「お涼」の幼なじみであり、近所の合薬問屋「蓬莱堂」の若旦那「慎助」から丁稚に雇ったばかりの草太という子どもを一文稽古に通わせて欲しいという依頼を受けるところから始まる。

 草太は、慎助の乳母をしていた女性の娘の子で、事故で母親を亡くし、その事故を起こした相手を恨んで仇を討つことばかり考えていたので、蓬莱堂に引き取られてきた子どもだった。この草太が三春屋の一文稽古に通ううちに次第に変わり、成長し、悲しい母親の死を乗り越えていく姿が丁寧に描かれていく。

 他方、三春屋の裏店に住んで、三女の「お美和」が思いを寄せている浪人の佐竹佐十郎のところに、「お鈴」という武家娘が仇討ちの助っ人の依頼にやってくる。父親を理不尽に殺され、兄と二人で仇を探して大阪に来て、佐十郎の噂を聞いてやってきたのである。彼女の父親を殺したのは、播州姫路の家老に繋がる男で、権勢を笠にきて好き放題のことをしていたのである。藩の家老に繋がるが故に、事件はもみ消され、仇討ちは正式に認められたのではなかった。

 正式に認可されていない仇討ちは殺人となる。そのことを案じる「お美和」の気持ちをよそに、佐十郎はその仇討ちに荷担しそうである。そうしているうちに、「お鈴」の兄も殺されてしまう。「お鈴」は一途に父と兄の仇を討つことだけ考えていく。彼女は行き場を失ってしばらく三春屋でやっかいになるようになるのだが、そこで一文稽古に通う草太の姿を見ていくことになる。二人には共通する思いがあるのである。だが、草太は、三春屋の人々との交わりの中でそのことを乗り越えていく。

 そして、「お鈴」の仇が見つかり、佐十郎の助太刀によって仇を討つことができるようになるのだが、「お鈴」はそれをせずに、自分の運命を乗り越えていくようになっていくのである。佐十郎は与力見習いの大塩平八郎と共に彼女の仇を捕らえ、これを姫路藩に引き渡すところで、事件の決着が着く。

 その間に「お美和」の佐十郎への純真で一途な思いや、「お涼」に思いを寄せている蓬莱屋の若旦那の姿、また「お涼」が通う懐徳堂に同じように通う紙問屋の倅「宇兵衛」の「お涼」へのアタックなどがあり、女で学問をしていく辛さを抱えた「お涼」、三姉妹で力を合わせて寺子屋「三春屋」を支えていく姿、大阪商人の誇りや傲慢さ、そうしたものが混じり合わさって、物語がいっそう味わい深くなっている。

 「お美和」の恋はどうなるのか、蓬莱屋の若旦那慎助が嫁にほしいと思っている「お涼」はどうなるのか、江戸で医学を学んでいる許嫁のいる長女の「お香」は寺子屋「三春屋」をどうするのか。こうした三姉妹のいく末への興味がかき立てられて物語が進んで行き、なるほど「若草物語」であると思う。

 物語の大筋である「仇討ちの心情とそれを乗り越えて生きること」と三姉妹のそれぞれの展開が絶妙に重なり合い、いい作品だとつくづく思う。それにしてもやはり、発熱はこたえる。

2011年3月7日月曜日

千野隆司『火盗改メ異聞 仇討青鼠』 

 どうも「冷え込むなあ」と思っていたら、一面の雪になって「三月の忘れ雪」が降り続いていた。春がとまどっているのか、冬が頑張っているのか、雪景色を眺めながら目が覚めた。今は、もう止んでうっすらと積もった雪も溶けてしまっている。「淡雪」という情感のある言葉を思い出したりした。

 しばらく溜まっていた家事をしたり、依頼されている専門誌の原稿を書いていたりしていたら、懐かしい同級生から電話をいただいた。もう40年近く会っていなかったが、「紅顔の美少年」だった(?)ころのことを走馬燈のように思い出したりした。「今度会いましょう」ということで、わたしのような人間を覚えていてくださっただけで、嬉しい限りである。

 閑話休題(それはさておき)、昨夜ようやく千野隆司『火盗改メ異聞 仇討青鼠』(2008年 徳間文庫)を読み終えた。少し仕事が詰まっていたので時間がかかったのだが、この作者の作品は、たとえ「書き下ろし作品」であっても、たいていどれも変わらずに構成と表現に優れたものがあることを感じて読み続けていた。

 ここでも前章「盗人七人」の書き出しは、「弦月」というただ一言で始まり、「鋭い月明かりが、堀割と石垣を蒼く照らしている。闇を渡る風が、水面を小刻みに揺らせて行き過ぎた」と行を変えて続き、人ひとりいない月明かりの闇の中で起こる強盗事件の張りつめた空気が伝わってくる。

 物語は、身体が小さくて「青鼠」と馬鹿にされていたのを助け、生きる力を与えてくれた鉄吉という男に誘われて強盗団の一員となっていた主人公を含む強盗団が、仲間の裏切りによって、火盗改めに囲まれ、主人公が兄貴として敬愛していた鉄吉と強盗団の首領を殺されていくところから始まる。

 主人公は、殺された鉄吉に代わって鉄吉が身請けして一緒になると言っていた遊女を身請けし、鉄吉の仇を討つために裏切り者を捜し出していく。また、離散した強盗団の残党たちは、それぞれ、殺された首領が隠し残した五千両もの大金のありかを探ろうとするし、火盗改めもまたその金を探し出そうとする。主人公は残党のひとりひとりを捜し出して誰が裏切り者であるかを見極めようとするが、強盗団の残党たちは、ひとりひとり火盗改めに殺されたりしていく。そうしてようやく最後に、誰が裏切り者であったかが分かるのである。

 離散した強盗団の残党たちの生活や主人公が裏切り者を突きとめていく過程、身請けした遊女との関係などが丁寧に描かれている。全体的な復讐劇のためにどこか暗さのある展開なのだが、最後に「舳先の向かう闇の向こうに、今度は何があるのか分からない。けれども郷助は、力を籠めて櫓を漕いだ」(349ページ)と記され、月夜の暗闇から始まった物語が、今度は同じ暗闇でも暗闇の向こう側に向かうこところで終わるという、まことに洒落た構成になっている。

 本書は、悪にしろ善にしろ、人が何によって「力」を得ていくのかということが物語として描き出され、それが物語の展開を引っ張る形で表されているので、けっこう味わい深い作品になっているのではないかと思う。

 人間という生物は外からの力(エネルギー)を得ないと生きることができない生物であるから、人が何によってその力を得ることができるのかは、極めて大きなテーマである。個人的には、その答えが分かっていても、実際にそれがないという人生を繰り返していく。「おもしろきこともなき世を、おもしろく」と詠んだ高杉晋作ではないが、深い意味で「おもしろく」三千世界を生きるための力をどこで得ていくのかが綴られ続けるのが文学であるだろう。作者の作品の視点がそこにあるように思える読後感であった。

2011年3月3日木曜日

坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り 凍て雲』

 ここ2~3日、冷たい雨の日々だったが、今日はよく晴れている。ただ気温が低く、まだまだ冬空が広がっている。何でも引き受けてしまう性が災いして、このところしなければならないことも詰まってきているのだが、なかなか気が乗らないままに日々が過ぎている。

 そういう中で、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り 凍て雲』(2006年 徳間文庫)を面白く読んだ。このシリーズはかなり読んでいると思っていたが、よく調べてみると、このシリーズでは全七冊のうちの第一作の『うぽっぽ同心十手綴り』と第三作目の『女殺し坂』、そして同じ主人公で別シリーズとして続けられている『うぽっぽ同心十手裁き』の方では『蓑虫』と『まいまいつむろ』の二冊しか読んでいなかった。しかし、作中の主人公で南町奉行所臨時廻り同心の長尾勘兵衛の印象が大変気に入ったところがあって、たくさん読んだ気になっていたのかも知れない。

 お金にも、手柄を立てて出世すること(功績をあげること)にも関心がなく、むしろそれらを潔く切り捨てるところがあり、同僚や職場では、ただ歩きまわるだけの無能な脳天気者というところから「うぽっぽ」と渾名されているが、実際に彼に接し、彼の情けで助けられた者だけが彼のすごさや高潔ぶり、大らかな懐の深さを知り、町の人たちからは「うぽっぽの旦那」として親しまれる五十歳を過ぎた主人公は、なかなかどうして味のある主人公で、本書では、その主人公の「うぽっぽ」ぶりがいかんなく発揮された作品になっている。

 本書には「笹りんどう」、「凍て雲」、「つわぶきの里」、「野ぎつね」の四話が収められているが、「笹りんどう」では、人々から良医として親しまれていた医者が無実の罪で斬首される処刑に立ち会わなければならなかった主人公の勘兵衛が、そこに隠されていた奉行所与力と岡っ引きの企みを生命をかけて暴き出し、斬首された医者の家族が生きる道をつけてやる話が展開され、「凍て雲」では、松前藩十八万六千石の奥女中への嫉妬に絡んだ事件で毒を飲まされて監禁されている女性とその弟を救い出していく顛末が描き出されている。

 また、「つわぶきの里」では、ふとしたことから人を傷つけ、八丈島送りとなり、七年の歳月の後に赦免され、紙漉職人となっている武士の家族を捜し出して再開させる姿が描かれ、「野ぎつね」では、強盗団を囲い込んで私腹を肥やそうとする火盗改めとの対決の顛末が綴られている。そこでも彼の情けが光っていく。

 同僚たちからは役立たずの「うぽっぽ」と見られているが、こうした主人公の姿を名奉行と言われた南町奉行の根岸肥前守は見抜き、何かと彼を支えていくが、第一話「笹りんどう」の中で、「笹りんどうってやつはよ、秋草が枯れたころにぽつんと咲きやがる。しかも、日の当たるときだけ咲いて、あとはこんなふうに、じっと蕾を閉じてやがるんだ。いつ咲くか、いつ咲くか、そうやってみる者に期待を抱かせ、仕舞いまで咲やしねえ。・・・根を噛めば、舌が痺れるほど苦え。うぽっぽ、何やら、おめえに似ているぜ」(76-77ページ)という言葉が勘兵衛に対する肥前守の言葉として記されたりして、心情溢れる二人の交流が描き出されたりしている。

 また、第三話「つわぶきの里」で、島送りとなって七年の歳月もの間行くへが分からなかった武士の家族との再会を果たす場面で、躊躇する武士を連れて家族の待つところへ行った時の場面が次のように語られているのが印象的である。

 「黄色い花が、目に飛び込んできた。
 鉢植えだ。それも半端な数ではない。
 玄関へつづく小径に、黄色い花の毛氈が敷きつめられている。
 ・・・・・・・
 『つわぶきさ。あれは、つわぶきというんだよ』(*つわぶきは武士の故郷である津和野に咲いていた)
 対馬屋(武士の妻子が働いている公事宿)の玄関には、主人らしき白髪の人物が佇んでいた。
 主人のかたわらには、着飾った娘の手を引いた女のすがたがみえる。
 丸髷に青眉、身に纏った照柿の格子柄が、石蕗の中で映えていた。
 ・・・・・・・
 『るい』
 板崎平内(紙漉職人になっていた武士)の声が震えた。
 るいは幸(娘)の身を引き寄せ、耳もとに何事かを囁いている。
 ―父上ですよ。
 そうはっきりと口にした。
 幸は満面の笑みで、こちらに手を振っている。
 ・・・・・・・・・・
 ふと、見上げれば、大屋根のうえも石蕗の黄色い花で埋め尽くされている。
 それが、るいの気持ちであった」(224-225ページ)

 どこか山田洋次監督の『幸せの黄色いハンカチ』という映画を思わせるような構成と場面ではあるが、文章のリズムに絶妙感があって、泣かせられる。

 第四話「野ぎつね」には、瓦葺職人だった父親を事故でなくし、病気の母を抱えて占い入りの煎餅を冬空の下で売る十歳の少女に接し、その少女の故に彼女を引き取って育てるという強盗夫婦をゆるしていくくだりなど、「うぽっぽ」同心の真骨頂が溢れている。話の筋は、その強盗夫婦が使っていた「野ぎつね」という名を使って火盗改めが私腹を肥やそうと企むこととの対決が主とはなっているが、こういうくだりが物語に味を沿えているのである。

 本書はこのシリーズの四作目ということもあってだろう、脂が乗りきったような作品になっているという気がした。主人公の恋心や家族のことなどの複線も膨らんで、改行の多い文体は何とかならないだろうかと思いつつも、面白く読んでいるシリーズの一つである。