春分の日の21日と22日に雨が降ったので、福島の原子力発電所から漏れている放射性物質の土壌へのしみ込みを案じていたら、昨日は葉物野菜類に摂取制限が出され、都内の水道水も乳児への摂取を控えた方が良いという指示が出された。摂取しても案ずるほどではないとは言え、昨日はスーパーマーケットの飲料水があっという間に売り切れていた。どんなに「直ちに健康被害が出るわけではない」と告げられても、健康志向が強くなっている現代人にとって不安の増大は避けられないだろう。不安感は特別に感染しやすいのだから。
人が安全で健康であることは素晴らしいことだが、人生は絶妙なバランスの上でしかなく、いつも危機に満ち、人は多かれ少なかれ病状を抱えながら生きているのであり、むしろそれらを案じ、曖昧な噂に振り回されて、かえって不安になる精神の方が心配である。「頑張ろう」とか「勇気を与える」とかいった大上段に振りかざしたような呼びかけが為されるところにも、考慮されない思想性や精神性のなさを感じてしまう。とは言え、不安定な状態が続いており、これからも続くだろう。
こういう中で、夜は変わらずに本を読み続けているが、読書というものは、読み手の状況や状態にも大きく作用されて、個人的な体調がなかなか回復しないこともあって、常に主観的なものでしかないことを痛感させられている。昨日読んだ米村圭伍『エレキ源内 殺しからくり』(2004年 集英社)も、歴史的な考証に裏打ちされているとは言え、江戸時代の自然科学者であった平賀源内が、十八歳で怪死した徳川家基の死因に関係したとか、四方赤良(よものあから)という狂歌師として著名な大田直次郎が平賀源内の事件に関連して老中であった田沼意次やその時代の政治に暗躍したといわれる一橋家の徳川治済(とくがわ はるさだ)と関係していたとかいった構成に、いささか倦み疲れながら読んだ次第である。
確かに、怪死した徳川家基の死には、田沼意次や徳川治済による毒殺説があるのだが、それと平賀源内のエレキテルを結びつけたり、平賀源内が田沼意次の財宝を秘匿したり、彼が人を殺すほどの電気エネルギーを放出するエレキテルを考案していたとすることなどは、平賀源内や四方赤良が著名であるだけに、想像性豊かな小説とはいえ無理がありすぎる。
物語そのものは、獄死した平賀源内の娘「つばめ」が、源内が残した遺品をもっていることもあって、田沼意次と徳川治済の政権争いに巻き込まれ、源内が秘匿した徳川家基の暗殺道具としてのエレキテルが仕込まれた駕籠や田沼意次の財宝を、彼女を助ける者たちと共に危機をくぐり抜けて発見し、家基暗殺の真相を探り出すというもので、最後には、源内が仕掛けていた「からくり」によってすべての証拠の品が爆破され、暗躍した田沼意次は老中職を失って失脚し、徳川治済も「つばめ」によって腑抜けのようになってしまうと続けられる。
こうした物語の展開そのものは、歴史的事象の中での奇想天外な発想に他ならないが、どこか登場人物の描き方が浮薄なような気がした。
とは言え、平賀源内にしろ四方赤良にしろ、市井の中で生きなければならなかった人間たちが、安定した暮らしを望み、権力をもった田沼意次も徳川治済も同じように、「結局は、立身出世かい。地位を得て権力をふるい、利権を我が手に収めて私腹を肥やす。それを目指して、みんな踊り狂ってやがる」(255ページ)ような人間として作者が捕らえ、その右往左往ぶりを描き出そうとしている姿勢は、この作者ならではのものだろうと思う。
人はただ安定を望むだけなのだが、それを望むところに、また、問題もあるのであり、安定を望むことの中に人間と世界を違った方向に導いてしまう危険も存在している。そうして世の中が何とも妙な具合にできていくところに恐ろしさもある。現代もまた、そうした時代だろうと思ったりもする。「足を知る」という境地には、なかなか届かないものである。
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