2012年5月30日水曜日

宇江佐真理『寂しい写楽』


 この2~3日、突然に夕方から夜にかけてにわかに曇り、風が吹いて、集中的な雨が降るという不順な天候が続き、一昨日は図書館に行く途中で土砂降りとなり、駅の構内で破れた屋根から雨がじゃあじゃともるという事態になって、駅の構内にあるコーヒーショップでしばらく雨宿りをしたり、昨日は会議に出かけた帰りに大粒の雨が降り出すという事態に遭遇したりした。今日は雲が空を覆っている。

 その図書館で、宇江佐真理『寂しい写楽』(2009年 小学館)を見つけ、さっそく読み出した。これは謎の多い浮世絵師であった東洲斎写楽という人を巡る当時の出版元であった蔦屋重三郎や山東京伝、葛飾北斎、十返舎一九、滝沢馬琴、そして狂歌師として名をなした太田南畝などの人々の姿を描き出したもので、特に写楽という人の絵を売り出し、また失敗していくことを中心に据えてこの時代の文化人たちの姿が描かれると同時に、写楽が残した絵を「寂しい」という独特のニュアンスのある観点から見ようとした意欲作でもある。

 ここに名を記した人々は、今日では極めて優れた才能を開花させた人々として著名であり、現代では写楽の役者絵も高い評価を得ているが、それぞれに生活の苦労をしながら戯作や絵画芸術に打ち込んでいく姿が人間臭く描かれている。彼らを動かしやのは、それぞれの矜持や誇り、そして情熱であっただろう。芸術は情熱なしには生み出すことができないものである。

 これらの人々が活躍し、一気に江戸文化を花開かせた天明(17811788年)の終わり頃から寛政(17891800年)、享和(18011803年)、文化(18041817年)文政(18181829年)にかけてのおよそ40年間というのは、実に不思議な時代という気がする。この期間の将軍はずっと、後に「オットセイ将軍」の異名をとった徳川家斉で、家斉は将軍在位になるとすぐに前時代に自由経済を目論んで「賄賂政治」とまで言われた田沼意次を失脚させ、白河藩主で名君の誉れが高かった松平定信を老中首座にすえ、松平定信は、逼迫した幕府財政の立て直しのために「寛政の改革」を断行した。

 この「寛政の改革」は、あまりにも厳格すぎて、かえって江戸経済を混乱させると同時に、あらゆる奢侈な生活や贅沢を禁止し、芝居や出版、文化や芸術に弾圧をかけた。それらは精神と生活の弾圧として機能したに過ぎなかった。そのために、松平定信の「寛政の改革」は、寛政5年(1793年)に松平定信の失脚によって失敗に終わり、徳川家斉自身は側近政治を行い、再び奢侈な生活を送ったり、賄賂を推奨したりしたし、幕府財政はますます逼迫するようになっていった。加えて、近代化を進めていた西洋諸国からの外国船の渡来などがあり、社会状況は極めて不安定だったのである。幕府の幕藩体制は崩壊し始めている。

 この寛政の文化弾圧の時代と社会危機が増大した時代に、しかし、先に挙げた人々が天才的ともいえる活躍をしていくのである。これらの人々は、ある意味では時代が生んだ寵児でもあるが、熟覧した江戸の文化を最も優れて表した人々と言えるであろう。あるいは、江戸という独特の暮らしが成り立つ社会の中で、貧乏長屋に住みながらも誇りだけは失わなかった町人文化が生み出したものであるとも言えるだろう。

 これらの人々の要として文化の一時代を築いたのが出版元であった蔦屋重三郎(17501797年)である。蔦屋重三郎は1750年(寛延3年)に江戸の遊郭であった吉原に生まれ、引手茶屋(遊女との待ち合わせに用いられた)である喜多川家に養子として引き取られて、やがて吉原大門の前に吉原の案内書である吉原細見を販売し、「耕書堂」と称して出版業に関わっていくようになったのである。黄表紙本、洒落本、狂歌集などを次々と出版し、1783年(天明3年)に日本橋に出店するほどになった。

 絵師である歌麿を見出して、大々的に世に送り出し、「喜多川」という自分の養家の名前を与えるほど大事にしていたが、やがて関係がうまくいかなくなり、歌麿は蔦屋を出てしまう。加えて、寛政の改革によって1791年(寛政3年)に山東京伝の黄表紙本と洒落本が摘発されて、蔦屋重三郎は財産の半分を没取され、山東京伝は手鎖50日という罰を受ける。

 本書は、その処罰の後で、起死回生を願って1794年(寛政6年)に写楽の役者絵を出版する状況が展開されて、写楽を、一応の定説通りの能役者であった斎藤十郎兵衛として、写楽の最初の大判絵に蔦屋の願いを入れて山東京伝や葛飾北斎、後の十返舎一九などが関わり、写楽の画質が低下していったことをこれらの人たちが手を引いていったとして描きだしていく。そこに自分のもとを去った歌麿に対する蔦屋重三郎の意地があったと見るのである。写楽の絵はあまり売れずに蔦屋は困窮に陥っていくが、写楽が10ヶ月あまりで忽然と浮世絵の世界から身を消したことを、作者はそう見ているのである。

 やがて、葛飾北斎が自分の画風を見出し、曲亭馬琴が読本の道を見出し、十返舎一九が独特の洒落の効いた読本を書いていくようになる姿もよく描かれている。そして、改めて、写楽が描いた作品を見ていると、なるほど「寂しい」という思いがしてくるし、後の葛飾北斎が冨嶽三十六景で見せたような大胆な構図の摂り方と写楽の大首絵(上半身や胸像を描いたもの)の大胆な構図、デフォルメなどいくつかの共通点もあるような気がする。絵としては葛飾北斎の方が格段にうまいし、同じ役者絵でも喜多川歌麿の方が繊細で感性が豊かである。だが、写楽には独特の味があるのも事実で、それを「生きることの寂しさ」に求めたところに作者の感性が光っていると思ったりする。本書は、そういう意味では玄人好みの作品だろうとは思う。

 写楽は「寂しい」。そして、人とは寂しい生き物である。ホントにそう思う。そして、その「寂しさ」を知る者だけが何事かを生み出していく。

2012年5月28日月曜日

童門冬二『葉隠の名将 鍋島直茂』


 ようやく初夏らしい日々になってきたが、一日の寒暖の差が大きく、夜にぶらぶら歩いていると思わずくしゃみが出たりする。この数日は日本の女子バレーの試合をずっとテレビで見ていた。いつ見ても、女子バレーの試合には感動がある。ロンドンオリンピックに行けるようになって本当によかった。

その試合を見ながら、昔、開高健がサントリーウイスキーのキャッチコピーとして作った「何もたさない。何もひかない」という言葉をふと思い出したりした。「人間、あるがかま、かくあるべし」と自覚しているわけで、調子が出ないときは調子が出ないままに過ごそうとゆっくり思ったりしている。

 二~三日かけて、童門冬二『葉隠の名将 鍋島直茂』(2001年 実業之日本社)を読んだ。これは戦国時代から江戸期にかけて優れた武将として生き抜き、佐賀鍋島藩の藩祖となった鍋島直茂(15381618年)を描いた歴史小説である。

 巻末の著者紹介によれば、作者の童門冬二という人は、本名は太田久行、1927年に東京で生まれ、旧制中学を卒業後に東京都で公務員として働き、やがて、要職を歴任されて美濃部都政の重要な首脳として活躍される中で歴史・時代小説の執筆を続けられていたが、定年退職後に本格的な作家活動に入られたらしい。著作は多数で、主として伝記的な歴史小説が中心だが、有能な官吏としての歴史の見方が随所に現れる独特の作風がある。本書にも、こうした観点で、例えば「葉隠」を有効なビジネス教本として見るといった観点が語られたりしている。

 鍋島直茂は、肥前佐嘉(佐賀は昔はこの文字で表されていた)本庄村の地方豪族であった鍋島清房の次男として生まれ、肥前の城主であった龍造寺家に仕え、武将としての頭角を現していった人で、特に、龍造寺隆信の信任が厚く、豊後の大友宗麟の肥前侵攻や肥前南部の有馬・大村氏などとの争いに勝利を収め、龍造寺家の安定のために躍如した。豊臣秀吉が九州を平定する以前は、九州は肥前の龍造寺家、豊後の大友家、薩摩の島津家に三分されて、各地で争いが絶えなかった。龍造寺隆信が家督を嫡男の政家に譲った時に、鍋島直茂はその後見とされ、薩摩との争いで死去した後は肥前の国政を担う者となっていった。

 鍋島直茂は早くから豊臣秀吉に高く評価されて、秀吉の九州侵攻を促し、秀吉から正式に肥前の国政を政家に代わって担うよう命じられ、実権を掌握していくが、主家である龍造寺家との確執は続いていった。1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦の際には、息子の勝茂が西軍側についてしまうが、直茂は徳川家の勝利を予測し、本戦が開始される以前に勝茂を戦線から離脱させ、尾張方面の穀物を買い占めて家康に献上するなどの方針をとっている。そして、戦後は家康への恭順をさらに示すために、西軍側についていた小早川秀包(毛利元就の九男)の居城であった久留米城と立花宗茂の居城であった柳川城を降伏させた。

 これによって家康は肥前佐嘉357000石を安堵させ、佐賀藩は九州の大国のまま鍋島直茂が統括することになったのである。主家である龍造寺政家が隠居した時、その子であった龍造寺高房が佐賀藩における実権の回復を幕府に訴えたが、幕府は鍋島直茂・勝茂に龍造寺家からの佐賀藩の禅譲の形をとり、ほかの龍蔵寺家の家臣団もこれを認めたために、佐賀藩は正式に鍋島家を主家とすることになったのである。なお、龍蔵寺高房はこのことを恨んで憤死(一説では家族を皆殺しにして狂死)した。また、鍋島直茂は龍造寺一門への敬意を表して、自ら藩主の座につくことはなく、佐賀藩の初代藩主はその息子の鍋島勝茂である。

 鍋島家と龍造寺家との確執は、憤死した龍造寺高房が亡霊となって引き起こしたといわれる「鍋島家化け猫騒動」などに表されたりしている。鍋島直茂は、鍋島家を安定させ、1618年(元和4年)に81歳で死去した。後年、この鍋島直茂を念頭に置きながら山本常朝が口述したのが『葉隠』である。

 鍋島直茂と柳川の立花宗茂は、ともに優れた武将であり、両雄相知るの関係であったと思われるが、先に、この立花宗茂を感動的に描いた葉室麟『無双の花』を読んでいたし、隆慶一郎が『葉隠』を題材にして抜群のエンターテイメント性を発揮した『死ぬことと見つけたり』などを読んでいたので、この鍋島直茂を描いた童門冬二の作品をある種の期待感を持って読み始めた次第である。

 しかし、歴史小説として描かれていることもあるのか、物語性よりも史実性が重要視され、この時代は社会全体が激変して、それを記すだけでも大変なこともあるのか、どうも鍋島直茂の人物が生き生きと浮かび上がってこない気がしてならなかったし、歴史解釈の皮層性や人間理解の浅さが感じられるところが随所にあると同時に官僚的な発想が随所にあって、少し残念な気がした。もちろん、面白いのは面白い。

 たとえば、「秀吉の人心掌握術」と題された一文で、大臣が職員の奥さんの誕生日を覚えていることがこの大臣のために懸命に仕事をしようという職員のやる気に繋がっていくというくだりがあり、秀吉の人心掌握がそういうものであったと述べられているが、仕事への情熱や信頼というものはこんなものでは生まれないだろうと思ってしまうのである。

 あるいはまた、石田三成を嫌っていた加藤清正や福島正則が石田三成を誅しようとした時に、石田三成は徳川家康に庇護を求めるが、それを石田三成が徳川家康を襲撃する噂が流れて、加藤清正や福島正則が家康を守ろうとしたと記されている(137ページ)。しかし、この事情はもっと複雑で、加藤清正が家康を守ろうと思っていたのではないだろうと思っている。

 あるいは、関ヶ原の合戦に遅れた徳川秀忠に対して、家康が表面はこれを叱責したが、腹では三河以来の家臣を損失しなかったので喜んでいたという解釈が述べられている(163ページ)が、家康と秀忠の親子関係は複雑で、秀忠が遅れをとったのは、関ヶ原に向かう途中の真田家との上田の争いで、秀忠が思わぬ手間を取り、しかも手痛い失敗を繰り返したからで、ここで述べられているような深い思惑があったとは思えない。こうした解釈は穿すぎではないかと思われる。

 しかし、鍋島直茂が家訓として残した「御壁書二十一ヶ条」と後に記された『葉隠』を対応させていくところなどは、なかなか味があり、瞠目に値する気がする。鍋島直茂の「御壁書二十一ヶ条」は、戦国武将としての鍋島直茂がいかに家中を整えていくかを記したもので、下のものの意見をよく聞き、厚情を持って接することを説いたものだが、その中で、ちょっと面白いと思ったものを抜書きしておく。

 四 憲法は下輩の批判、道理のほかに理(ことわり)有り。作者の解説によれば、これは、「たてまえばかりにこだわるのは、下々の議論だと思え。世の中には、道理のほかの道理ということが必ずある」ということになる。ただし、五で「下輩の言葉は助けて聞け。金は土中にある事分明」とされている。あるいは、十一「理非を糺(ただ)す者は、人罰に落ちるなり」とある。これも作者の解説によれば「人の善悪をとりあげてきびしく攻めると、他人のうらみという人間による罰を受けるだろう」となる。また、二十「上下によらず、一度身命を捨てざる者には恥ぢず候」とあり、「身分の上下にかかわらず、一度もわが身命を捨てた経験を持たない者には、敬意を払えない」と説かれている。

 こういう鍋島直茂の生涯訓のようなものは、やはりそれだけで味のあるものである。ただ、小説としてはこれを物語で表す手法もあるだろうとは思う。

 もうひとつ面白いと思ったのは、鍋島直茂が息子の勝茂に城の櫓の上に登って、唐津城を築き、防砂林としての虹の松原を築いたことに触れて、佐賀の城下の人々が胸を張って上を向くような気概をもった人々となるように訓示する場面で、「律儀正直」ばかり求めないで自由闊達であることを望むことが記されていることで、作者はこれを創業者と二代目の気質の差だと分析し、家康と秀忠の関係を直茂と勝茂の関係として並行に描いていくことである。こういう視点は通常の歴史家にはない視点だろうと思う。

 本書には、直茂の家臣であり、「葉隠精神」そのものとも思えるような斎藤用之助や勝茂の長男であったが鍋島藩主とならずに支藩の小城藩主となった鍋島元茂についても触れられている。

 この鍋島元茂という人は、なかなか優れた人で、四歳の時に江戸に人質として送られ、父親の婚姻関係の都合で廃嫡されたが、江戸で柳生宗矩に柳生新陰流を学び、宗矩から最初に免許皆伝を与えられるほどの剣の腕をもつ遣い手となり、三大将軍の徳川家光から尊重された人物で、祖父である直茂の死後に、その隠居領を譲り受けて、小城藩主となったのである。人格的にも優れたところがあり、徳川家光が「兵法の心得」を尋ねた時に「善と思う悪し、悪と思う悪し、善悪とも悪し、思わざるところ善し」と答えたりしている(335ページにその記述がある)。おそらく祖父の直茂の真っ直ぐな性質を受け継いでいたのだろうと思われる。

 なお、鍋島家は勝茂の後、徳川家康の養女となっていた菊姫との間にできた四男の忠直が後を継ぐことになっていたが、忠直が23歳の若さで疱瘡にかかって死去したために、その子である光茂が二代目藩主となっている。この鍋島光茂という人は、なかなか権力欲の強い人であった。

 ともあれ、本書は鍋島直茂という人物を多様な角度から描いたものであるということができるような気がする。文学作品としての出来不出来は別にして、歴史小説としては面白く読めた一冊だった。

2012年5月25日金曜日

風野真知雄『耳袋秘帖 八丁堀同心殺人事件』


 先日、ブログのコメントに葉室麟『蜩ノ記』がNHKでラジオドラマ化されてFMで6月18日から全十話で放送されるという知らせを寄せてくださった方がおられ、知らなかったので大変嬉しく思っている。『いのちなりけり』と『花や散るらん』をテレビドラマ用に脚本化することを友人に勧めているが、彼の作品はどれをとっても素晴らしい。先日、時代小説の中で誰がいいですか、と聞かれた時、私は一番にこの人の作品を上げた。宮部みゆきの『孤宿の人』も素晴らしいが、葉室麟には作家として一本の強い線が貫かれていると思っている。

 閑話休題。先に風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2008年新装版 祥伝社文庫)を読んで、大変感動したが、再び江戸時代の名奉行と言われた根岸肥前守を主人公にした『耳袋秘帖 八丁堀同心殺人事件』(2011年 文春文庫)を気楽に読んだ。これは出版社が変わったために新しく「殺人事件シリーズ」と銘打って出されているものの二作目の作品で、前作『赤鬼奉行根岸肥前守』(2011年 文春文庫)で、根岸肥前守が62歳の高齢で南町奉行となったいきさつ等が触れられていたが、今回は、八丁堀の江戸町奉行所の同心たちが立て続けに何者かに襲われて殺されるという奉行所にとっては威信のかかる事件を中心に、彼が記していた『耳袋(嚢)』を題材にして、「緑の狐」、「河童殺し」、「人面の木」、「へっついの幽霊」、「鬼の書」、「河童の銭』の六章からなる筋立てになっている。このうちの最後の「河童の銭」は余話となっている。

 根岸肥前守という人自身は極めて優れた官吏であったが、その鷹揚な性格や人格の豊かさもあり、どちらかと言えば非政治的な人間だったと思う。しかし、町奉行という職責もあって、当時の松平定信や旧田沼派の画策、あるいは十一代将軍の徳川家斉の思惑、定信が行なった寛政の改革の失敗と失脚など、大きな政治的要因がかれの周りに引き起こされ、否応なくその中を生きざるを得なかったところがあった。本書は、この辺の背景も巧みに取り入れながら、自らの姿勢を曲げることなく、しかもそれを柔らかく貫いていく姿も描き出していて、単なる江戸市中に起こった事件の解決だけではなく、様々な狭間の中で「柔中剛」のあり方を示すという味が付けられている。もともと、本当に芯を持つ者は、外は柔らかい。強がる人間ほど中身はない。

 様々な怪異な事件や噂などに対して、本書で描かれる根岸肥前守は極めて合理的な精神と現実的な人間観で対応する人物になっており、「緑の狐が出たとか河童の話とか、あるいは幽霊が出たということに何らかの人間の思惑が隠されていることを見抜いていくのである。彼が高齢で南町奉行となったということも「人間通」である彼の面目躍如を示すものである。「人間通」というものは、酸いも甘いも知りながら、表面の善悪にこだわることなく、しかも善であるような人間を言う。作者は肥前守をそういう人間として平易に描き出すのである。

 本筋の同心殺しという出来事の裏には、同心たちの振る舞いやそれに対する「恨み」が隠されているのであり、欲が絡んでいるわけで、それに対して根岸肥前守と彼が自分の手足として使っている若い坂巻弥三郎や栗田次郎左衛門などの爽やかさが光るのである。「欲」に対抗するのに「欲」をもってするという状況が普通に行われる人間の行為であるが、本書は「欲」に対抗するのが「無欲」であることをよく表している。

 ここでは、本書で展開されている内容にはいちいち触れないが、物語の展開や構成は平易で、実に気楽に安心して読める読み物である。ただ、「河童」をめぐる話はどは、どこかで聞いたような話で、このシリーズの他の作品と重なっているところがあるような気がして、斬新なものではない思いが残る。しかし、黄表紙的読本としては面白いと思っている。

2012年5月24日木曜日

藤原緋沙子『坂ものがたり』


 2223日と仙台に出かけていたが、22日(火)は雨で格別寒く、翌23日(水)は10度も気温が上昇する夏日になるという、まるで気温のエレベーターに乗っているようで、今年はこうした気温の激変が続いている。それでも雨に煙る仙台のけやき通りの新緑が美しく、それはそれで風情のある光景だった。片倉小十郎の白石城が復元されていることを知り、機会があれば行ってみたいと思っている。

 それはともかく、江戸の話になるが、江戸は坂の多い町で、それぞれの坂にはそれぞれの曰くのある名前がつけられていて、わたしが時折会議で出かける市ヶ谷には「浄瑠璃坂」と呼ばれる坂があり、その曰くを記す牌がある。この坂の名の由来には諸説があるらしい。諸説といっても単純なもので、昔はこの坂は六段に波打っていて、その六段を浄瑠璃の六段(六話で完結)とかけて「浄瑠璃坂」と呼ぶようになったとか、あるいは坂の西側に紀伊の新宮藩主であった水野大炊頭の上屋敷があり、その屋敷の長屋が坂に沿って六段になっており、浄瑠璃の六段にかけて呼んだとか、あるいはまた坂の上に人形浄瑠璃の芝居小屋があったとか、などである。

 しかし、この坂は別名「仇討坂」とも呼ばれ、それは、寛文12年(1672年)にこの坂で起きた仇討事件(浄瑠璃坂の仇討)に由来する。寛文8年(1668年)に宇都宮藩の藩主の法要(葬儀)の際に、当時の宇都宮藩の譜代の家老の家柄に属する奥平内蔵允と主君の傍流の家柄に属する奥平隼人が些細なことで口論し、憤慨した内蔵允が隼人に向かって抜刀したが、返り討ちにあって刀傷を受けた。内蔵允はその夜に切腹してしまったのである。坂の由来となった事件は、この出来事に発するものである。

藩の処分はこの事件から半年後にようやく下されたが、喧嘩両成敗の形ではなく、内蔵允の嫡男である源八(当時12歳)は家禄没収の上に追放、隼人の方には改易が申し渡すものであった。内蔵允が切腹しているので両成敗ならば隼人も切腹となるはずであるが、隼人とその父親には藩から物々しい警護がつけられて送り出されるなどの温情が示されたのである。そして、この処分に不服を持った源八とその一党42名が三年の雌伏の後、この市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠戸田七之助の屋敷に身を寄せていた隼人に夜襲をかけたのである。

源八ら一党は奥平隼人の父親である奥平半齋は討ち取ったが目的の隼人を探し出せずに、仇討を断念して牛込御門前に来た時、あとから追いかけてきた隼人が手勢を引き連れて駆けつけ、源八は取って返して隼人を討ちとるのである。やがて、文治政治を目指していた徳川家綱の幕府は、奥平源八らを伊豆大島へ流罪とした。しかし、その6年後、恩赦によって源八らは赦免された。この事件は、当時の江戸で瓦版になるなどの大きな影響があり、江戸市民は見事に仇討をした奥平源八らに拍手喝采を送ったのである。そして、一説では、彼らが討ち入りに際して火事装束を身につけていたことなどから、これが忠臣蔵の赤穂浪士の仇討のモデルになったとも言う。赤穂浪士の大石内蔵助はこの奥平家と縁戚関係にあったのである。こうした事件が起こったので、この坂が「仇討坂」とも呼ばれている。

 江戸にはこうした由来をもつ坂がたくさんあるが、藤原緋沙子『坂ものがたり』(2010年 新潮社)は、「聖坂」、「鳶坂」、「逢坂」、「九段坂」の四つの坂をそれぞれ春夏秋冬の季節の中で、その坂を使う人々、特に男女の恋愛模様を中心にして四編の短編として描き出したものである。

「夜明けの雨-聖坂・春」は、行く末を誓っていた「佐七」と「おまつ」という男女の話で、中目黒の百姓の三男だった「佐七」は、呉服問屋に奉公に出て、懸命になって働き、手代になっていたが、ひとかどの商人になる野望をもっていたために、幼馴染の「おまつ」に待って欲しいと言う。だが、商人への道は遠い。だが「おまつ」はもう待てなくなり、「佐七」に呉服問屋をやめて、一緒になって荷売りから始めようと言い出す。そして、自分には他にも縁談があると言ってしまうのである。「佐七」は絶望して、さっさと嫁に行けと言い、二人は分かれてしまう。

だが、そのすぐ後で、奉公している呉服問屋の娘からの縁談話が「佐七」に持ち上がり、「佐七」はとんとん拍子にうまくいき、呉服屋の主人に収まる。しかし、その呉服屋は義母の支配下にあり、「佐七」は空回りして商売もうまくいかなくなる。

他方、「佐七」と別れた「おまつ」は、別の商家の嫁に行ったが、婚家とうまくいかずにそこを飛び出し、病身の母親の薬代のために身を売って岡場所で働くようになっていた。そのことを知った「佐七」は何とか「おまつ」を見受けして自由にさせたいと金の工面に走り回る。

だが、そんな「佐七」を嫁も姑もゆるすはずがない。「佐七」は焦って昔の友人のいかさまによる賭場で金儲けを企むが、そのいかさまがばれて、襲われ、金も全て奪い去られてしまう。「佐七」は、自分が執着していたことの全てを捨てて「おまつ」を連れ出して逃げる覚悟をしていく。そういう話である。

ほかの三話も、設定や人物はそれぞれ異なるが、男女のそれぞれに愛や人生が描かれていくのだが、読んでいる時も、あるいはこうして展開をまとめてみても、文章の柔らかさとは別に、たとえ不幸な結末が描かれていても、人物の捉え方や展開の甘さが感じられて、たとえばこの第一話にしても、「おまつ」という女性は、本心は「佐七」と別れる気がなくても「佐七」に「待てない」と迫り、「佐七」が人生に悩む中で他家に嫁に行き、そこで失敗し、さらに病身の母親のために身を売り、そのことの原因がまるで「佐七」にあるように恨むのである。これがどうしようもない女として描かれているならともかく、結局は「佐七」への想いを捨てられない純な女として描かれているし、「佐七」は「佐七」で、自分の仕事がうまくいかずに、金策のために博打に手を出す人間だが、「おまつ」を思う純な男として描かれているのである。この辺の人間の捉え方と描き方に、どこか綺麗な話をするという「甘さ」をかんじてしまうのである。

収められているほかの作品もだいたい同じようなものだが、この中では第四話の「月凍てる-九段坂・冬」が、まあよかった作品だろうと思っている。

これまでこの作者の著作をいくつか読んで、出来と不出来が比較的はっきりしている気がしていて、この作品もどちらかといえば人物の捉え方や展開があまりにあっさりし過ぎていて、少し不満が残る内容だった気がする。

2012年5月21日月曜日

山本音也『コロビマス』


 今朝起こった金環日食は、ここでは雲がかかってわたしは見ることができなかったが、都内では雲の合間で観測できたらしい。猿が驚いていたというニュースが伝わっている。

 昨夜、フルートニストの上野由恵さんとギターリストの新井伴典さんの小さなコンサートがあり、その高品位な演奏にいたく感激した。フルートの超絶技巧ともいえるような演奏や音、表現は素晴らしく、これまで聞いた演奏の中では最高の部類に属するものだった。こういう時間を持てることは素晴らしい。

 それはともかく、図書館の書架をぼんやり眺めていたら、赤い文字で『コロビマス』と背表紙に記された書物が目にとまり、この表題から、これが明らかに江戸時代前期に激しかった切支丹弾圧と、いわゆる「コロビ」と呼ばれる棄教者を描いた作品であろうと思い、読んで見ることにした。

 「コロビ伴天連」を描いた作品としては遠藤周作の『沈黙』(1996年 新潮社)が神と人の愛を描いた名作で、ずいぶん前だが読んでいくつか考えることを与えられたが、遠藤周作が『沈黙』で描いたのは、当時のローマ・カトリックのイエズス会の宣教師であり、高名な神学者でもあったクリストファン・フェレイラ(15801650年)と、棄教した彼を再びキリスト教信仰へと取り戻そうとキリシタン禁教令と鎖国下にあった日本に密航してきたジョゼッペ・キアラ(16021685年)の姿で、特に、ジョゼッペ・キアラを作品では「セバスチャン・ロドリゴ」という名前で描き、「コロビ」を通してのキリスト教信仰が伝える深い神の愛を描いたものである。ここには日本と西洋という風土的にも情緒的にも全く異なった世界での「生き方の問題」も深く描き出されている。

 「戦う教会」とか「教皇の精鋭部隊」とか呼ばれたイエズス会は、1534年にイグナチウス・ロヨラを中心にしてフランシスコ・ザビエルを含むパリ大学の6名の学友たちが結成した修道会で、西欧社会におけるプロテスタントの宗教改革運動に危惧を感じていたローマ・カトリックの機運もあって世界宣教へと乗り出していったのである。もともとイエズス会は、清貧と貞潔、内面の向上による強い信仰的信念と高い教養の獲得を目指すものであったが、世界各地に派遣する宣教師たちの活動と当時の西欧諸国の植民地政策が合致し、宣教の名の下で国家の植民地政策を強力に推し進めるという役割を果たしていったのである。

 世界各地で教育事業を推し進めると同時に、侵略した国の住民を奴隷として本国に送るということもしばしばで、各地ではキリスト教に改宗しない者を異端として異端審問裁判にかけて殺すことも行なったりしていた。もちろん、ローマ・カトリック教会はそのことを認めてはいない。

 日本では、イエズス会の創始者の一人であったフランシスコ・ザビエルが1549年にイエズス会のアジア活動の拠点でもあったインドのゴアから到来して約二年間滞在したが、下克上の戦国期の中で宣教に困難を覚えていた。その後、ルイス・フロイスなどが来日し、フロイスは織田信長や豊臣秀吉らと会見したりしている。当時のイエズス会の宣教方針は、まず、国王や領主をキリスト教に入信させることによって、その国や領民をキリスト教支配下に置くというもので、交易による莫大な利益を餌にして各大名たちと接触を図っていったのである。彼らは、宣教のためには使えるものは何でも使い、武器をさえ売った。キリシタン大名と呼ばれる多くの者たちが洗礼を受けたのは、多分に交易による利益を得るためであっただろう。イエズス会は極めて支配的な思想と方策をとっていたのである。

 そのキリシタン大名の一人であった大村純忠(15331587年)が領内にあった長崎の統治権をイエズス会に託し、南蛮貿易による利益を独占しようとしたことが、豊臣秀吉による1587年のバテレン追放令の直接の引き金となったのだが、続いて徳川幕府による禁教令(1612年と1613年)と鎖国政策、そして1637年の島原の乱を経てのキリシタン弾圧が行われていくのである。

 イエズス会のポルトガル人宣教師フェレイラが来日したのはちょうどこの頃で、彼は1609年に来日して、日本語に堪能であり、また神学者としても高名であったので、日本管区の管区長代理を務めるほどで、徳川幕府のバテレン追放令後も日本に潜んで布教活動を行なっていた。しかし、1633年に長崎で捕縛され、他の四人の宣教師や日本人キリシタンと共に「穴吊りの刑」と呼ばれる拷問にかけられ、他の者たちはすべて殉教したが、5時間に及ぶ拷問の後、彼だけが棄教し、「沢野忠庵」という日本人目を名乗って、それ以後、長崎奉行所の手先としてキリシタン取締に手を貸し、また、幕府の通詞(通訳)などもして、日本人妻を娶り、70歳まで生きた。ちなみに彼と日本人妻との間にできた娘の婿は後に八代将軍徳川吉宗の幕医になっている。

 また、彼の弟子でもあったイエズス会のイタリア人宣教師ジョゼッペ・キアラは、鎖国下にあった日本に来て、1643年に筑前国(福岡)で捕縛されて長崎に送られた。そこで、コロビ伴天連となっていたフェレイラ(沢野忠庵)の協力の下で詮議が行われ、おそらく厳しい拷問も行われたであろうが、ついに彼自身もキリスト教を捨て、岡本三右衛門を名乗り、小石川の「切支丹屋敷」に移されて宗門改に携わったりして、83歳まで生きた。このキアラが、キリスト教教義の欺瞞性を語り、キリスト教布教の真意が国土の征服の準備工作であることを告げたために、幕府の警戒感は一層強まったと言われている。

 遠藤周作の『沈黙』は、神の愛に殉ずるという観点でこのキアラの姿を描き、人の悲しみや弱さに寄り添うイエス・キリストという大きなテーマに取り組んだ力作であるが、今回読んだのは、山本音也『コロビマス』(2003年 文藝春秋社)であった。

 この作者については、本名が山本章で小学館に勤務され、『宴会』とか『ひとは化けもん、われも化けもん』と題する作品があるという本の奥付にあること以外に1944年生まれであることぐらいしか知らないのだが、これは、「コロビ」という人間の内面に深く関わる重い出来事を重く描いた作品だった。

 単なる推測にしか過ぎないのだが、この本の多くは遠藤周作の『沈黙』に追っているところが多くあるのではないかと思う。遠藤周作がフェレイラの言葉として「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ」と語ったことが、ここでもフェレイラやキアラが感じる日本の風土と精神描写として多分に取り入れられている。ただ、極めて面白いと思ったのは、フェレイラの「コロビ」の直接的な理由が、「煮鰯が食べたい」ということであり、キアラの「コロビ」が拷問によって傷つけられた肉体を柔らかく包んでくれる「ふとん」にあるということで、「心は強くても、肉体は弱い」ということが真摯に受け止められているというところである。

 ここには、病床にある妻を慈しみながら彼らの尋問に当たる長崎奉行所の与力の内村小佐衛門という穏やかな人物を登場させて、他宗教や他思想を緩やかに認めて生きる生き方を示したり、長崎奉行の大河内正勝という人物による多元的な思想を開示したり、あるいは、フェレイラを見張る目明しでキリシタンの捕縛に異常なほど熱心に取り組んでいた男が、惚れた女がキリシタンとして殉教させるようなことをしでかして、それを悔い、なぜキリシタンがひどい拷問や死も恐れずに死んでいくのかがわかるようになっていくということが描かれたりして、なかなかの力作となっている。ただ、遠藤周作が描いた「キチジロウ」というロドリゴ(キアラ)を売った人物像と重なる部分も多分にある。

 キリスト教の観点から言えば、厳格なあまりに厳罰主義を持ってもって臨んだ当時のイエズス会のあり方には多大な疑問があるし、神やキリストの理解にも皮層的なところが見受けられるのだが、物語としては面白いと思う。わたしは多くのキリシタンが煮えたぎる湯の中に投げ込まれた雲仙の地獄谷に行き、そこに小さな牌が建てられていたのを鮮明に覚えているが、こうした殉教には純粋な魂が宿っていたことは間違いないと思っている。この作品は、時代小説というよりも歴史を背景とした純文学に近い作品だった。

2012年5月18日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集15・16 一夢庵風流記 上下』(4)


昨日の深夜に雷雨が鳴り渡り激しい雨が降り出したが、今はそれも上がって、時折雲の中から初夏の陽射しがある。気温がそれほど高いわけではなく、不安定なのだが過ごしやすい。

隆慶一郎『隆慶一郎全集1516 一夢庵風流記 上下』の続きで、関ヶ原の合戦については、石田三成と直江兼続との間に交わされていた書簡があるが、石田三成の一方的な思い込みも合ったような気がする。石田三成のような頭で描いた図式で行動する人間は、現実をつい都合のよいように理想化しがちだが、現実は図式通りには動かない。上杉家は南方の押さえとして残った結城秀康軍と北東の伊達政宗軍に挟まれ、西に隣接する出羽二十四万石の最上義光軍の攻撃にさらされて、身動きが取れない状態だったのである。

上杉家への抑えとして残された結城秀康軍は、家康から決して攻めずに守れとの命を受けており、膠着状態にあり、伊達政宗とは便宜上の講和が成立したが、最上義光軍が会津に侵攻してきた。上杉軍は直江兼続を総大将にして、米沢から出陣し、最上義光の出城であった城を攻撃し、長谷堂城を包囲した。そこに肝心の関ヶ原の合戦で石田三成があっさり敗れたとの報が入るのである。直江兼続は、もはや最上義光と戦っている暇はなく、関ヶ原から家康がとって返して上杉家討伐に向かうのは必定であるから、合戦の最中に退却して、会津の上杉景勝と共にそれに備える必要に迫られるのである。

この退却戦は、10時間に及ぶ激闘で、前田慶次郎を初めとする牢人隊は直江兼続の下に組み入れられており、激戦が繰り広げられた。『上杉将士書上』によれば、さすがの直江兼続も死を覚悟したという。敵の手に首を渡すことを恐れて自死しようとしたとき、前田慶次郎がそれを阻止し、死に急ぎするな、自分に任せよ、と言って、牢人隊と共に愛馬の松風を疾走させ、ことごとく敵陣を突破し窮地を脱していったのである。前田慶次郎の戦振りの真骨頂が見事に発揮された時だった。これによって直江兼続は無傷で会津に戻ることができたのである。

だが、関ヶ原合戦後の徳川家の上杉家に対する審判には厳しいものがあったのは当然のことである。しかし、本書は、上杉景勝と直江兼続の助命のために前田慶次郎が、加賀の前田家を動かし、彼を師と仰ぐ結城秀康を動かし、家康の面前で死を覚悟して奔走して家康の心を動かして、直江兼続と上杉景勝の助命を勝ち得たと展開する。ここでも作者は「漢と漢」の姿を、家康と慶次郎の間に描いていく。それによって、上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石への減封となったが、上杉家は毅然としてこれを受けていくのである。

前田慶次郎は、この和議の死者の役目を終えた後に、減封された上杉家に居座ることを良しとせずに退転して牢人生活に入る。だが、前田慶次郎の戦振りを知る諸大名から高禄をもって迎えたいとの仕官の話が舞い込む。しかし、前田慶次郎は、どのような高禄を積まれてもこれを受けない。慶次郎は、自分を「一夢庵ひょっとこ斎」と称して飄々としている。

そのような前田慶次郎のところに直江兼続が単身で現れる。他の高禄の申し出の半額以下だが、兼続と上杉景勝に惚れていた前田慶次郎は、兼続が誘ってくれたことを直ちに快諾して、米沢に行くことにするのである。この米沢までの道中については自身で『前田慶次道中記』をしたためているが、俳句などを記して、実に風流なものである。作者は、この米沢で伽姫と共に悠々の歳月を送って没したとして、本書を結ぶ。「傾奇者」である慶次郎は風流居士なのである。

その結びの言葉として、慶次郎が信濃の善光寺に住んだときに残したという次の言葉が添えられている。この中で、なるほど、と思う言葉を抜粋しておく。

「寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八万地獄に落つべき罪もなし。生きるまでいきたらば、死ぬるでもあろうかとおもふ」(下巻 214ページ)

ここで描かれる前田慶次郎利益は、作者が他の諸作品の中でも求め続けてきた、生も死も越えて自由闊達に自分の力を使って生きていく人間の姿である。作者は、ここではこれを「傾奇者」として描くが、死を覚悟している人間の何と自由なことかと、つくづく思う。爽快極まりない。そして、歴史的事象を踏まえつつそれを物語として巧妙に展開する作者の力量が、これもいかんなく発揮された作品だと思う。

なお、本書下巻には、江戸初期に徳川家光に仕えつつも、「漢」としての生き方を貫いた水野成貞(16031650年)の姿を描いた『かぶいて候』が収められ、これも面白く読んだ。彼の息子の水野成之(16301664年)も、お役を固持して自由な小普請入りをし、旗本奴として名をはせた人物で、町奴として著名だった幡随院長兵衛と争ってこれを殺し、お咎めなしだったのだが、伊達姿で評定所(裁判所)に出頭するなどの不遜がたたって切腹させられている。

この水野成之には、わたし個人はあまり関心がないが、家光に仕えながら家光を見切ってしまったその父親の水野成貞という人間の生きざまは、なかなか面白いものがあるのである。人間としてつまらないところがある者に対しては執着や未練も欲もなくきっぱりと見捨てていく。これままた面白いと思う。こういう作品を読むと、少なくとも小賢しくは生きたくないと思ったりする。

2012年5月16日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集15・16 一夢庵風流記 上下』(3)


 昨日まで雨模様で気温も上がらずに肌寒かったのだが、今日は一転して夏日になるという。今のところ雲がかかって陽射しは強くない。山積みしている仕事を横目に時間だけが過ぎているのだが、積み残して人生を終わるのも悪くはないだろうと思ったりする。しなかったからといって、個人的な評価というものは変わるが、世界が変わるわけではサラサラないのだし、人の評価などはなんの意味もないと思っているのだから。

 さて、天衣無縫に生きた前田慶次郎利益を描いた隆慶一郎『隆慶一郎全集1516 一夢庵風流記 上下』の続きであるが、天正20年(1592年-この年文禄と改易)の豊臣秀吉の朝鮮出兵(朝鮮史では「倭乱」または「壬辰戦争」)に先だって、外交役だった対馬の宗家の真偽と朝鮮の実情を調べるという名目で朝鮮に渡った前田慶次郎の姿を、作者は当時の外交史を丹念に調べて、それと絡ませながら展開する。

 李王朝下にあった当時の朝鮮は、秀吉の侵攻も倭寇による襲撃程度としか考えておらずに、軍備は不十分であった。対馬の宗家は朝鮮との交易に経済を依存していたためにこの事態に大変苦慮し、宗義智や外交僧として景徹玄蘇、博多の豪商島井宗室らと渡朝して通信使派遣を要請し、宗氏はこれを服従使節と偽って秀吉に面会させ、事柄を穏便に済まそうとしたが、日本などたいしたことはないと思っていた朝鮮側との間に齟齬が生じていたのである。

 史実的に前田慶次郎が渡朝した記録を、わたしは見出すことができなかったが、本書は、慶次郎の「かぶき振り」に朝鮮軍が震撼させられたことを伝える。作者は、慶次郎は戦などする気がなく、ただ気ままに自由人として朝鮮を闊歩して、朝鮮の人々は平和を愛し、朝鮮の人々に戦などする気がないことを秀吉に伝えようとしたこととして展開する。今のところ、この時代の朝鮮の状況にあまり関心がなく、この部分は割愛する。伽姫も、彼女が蜜陽府使の弟の邪な欲望の餌食にされかけていたところを助け、それがかつての伽倻国の末裔で伽倻琴の名手であったと語られていくのである。慶次郎もこの伽姫に惚れ、伽姫も慶次郎に惚れ込んでいき、幾たびかの危機を平然と脱しながら伽姫を連れて日本に帰ってくるのである。慶次郎は秀吉の朝鮮出兵を馬鹿々々しいことと見なし、一切これに荷担しない。対馬の宗義智、小西行長、石田三成らの偽りを知りつつも、慶次郎は秀吉に一切を語ることはなかったとする。

 その慶次郎が捨丸、伽姫、金悟洞らと京都で落ち着いたときに、直江兼続が訪ねて来て、石田三成と前田慶次郎を比較して次のように思うくだりが記されており、前田慶次郎という人物を描く直接的な言葉となっているので記しておく。

 「この男(慶次郎)は何が起こり、何にぶつかろうと一向に苦にしない。まるで予期していたかのように平然と立ち向かう。神を呪うことも己の不遜さを嘆くこともしない。・・・石田三成は慶次郎とは反対の男だ。あらゆる起こり得る事態に知恵を振りしぼって対策を立てる。そのくせ事は必ずしも対策通りには起こらない。そうなるとこの男は神を呪い、人を罵り、結局は自分を責める。よろず事に向かう姿勢が派手々々しく、終わった後も知る限りの人々に吹聴して熄むことがない」(下巻 100ページ)

 後に関ヶ原の合戦の際に石田三成は直江兼続に書状を送り、徳川家康を挟み撃ちにする計略を立てていたが、直江兼続は動かなかった。作者は、直江兼続ほどの人物が石田三成をあまり高くは評価するはずがないと思っている。直江兼続もまた、秀吉の朝鮮出兵を無意味な馬鹿々々しいこと思っており、事実、上杉家と徳川家は朝鮮侵攻の出城であった名護屋城までは行くが、一兵たりとも朝鮮には送っていない。

 慶次郎は、京で平穏な日々を過ごす。書を読み、茶を点て、連歌を作り、伽姫に琴を聴き、花見をする。文禄三年(1954年)に秀吉が吉野山で大々的な花見をしたときに、慶次郎たちは鞍馬の山中に一本だけぽつんと咲いている桜を見に出かけていくくだりが記される。

 「誰に見られるでもなく、たった一人、思いっきり豪華に咲いた花。そして誰知られることもなく華麗に散ってゆく花。慶次郎は都のどの花よりもこの花を愛した」(下巻114ページ)と語る。こういう展開が慶次郎という人物を見事に展開するくだりと言えるだろう。そして、ここで徳川家康の次男である結城秀康と出会ったと展開していくのである。

 結城秀康は家康の正妻だった築山御前の侍女との間に生まれた妾腹の子で、なぜか生まれたときから家康に嫌われ、十一歳で人質として豊臣秀吉の養子となり、十七歳で結城家の後継ぎとして秀吉から結城家に下された人物で、自分の人生を呪うような傲慢で不遜な人物だったが、前田慶次郎との出会によって、その鼻が見事に折られ、以後、慶次郎に師事していくようになったというのである。どうも家康は自分の子どもを嫌ったようなところがあり、彼の子どもとの関係は、誰の場合も不幸な気がする。

 やがて、秀吉の朝鮮侵攻が失敗に終わろうとする頃、秀吉が死ぬ。そして、豊臣家を支えてきた前田利家が病を得て死に向かう。この時、利家の妻「まつ」が慶次郎を呼んで利家と和解させようとする。病床にあった前田利家は、石田三成が諸大名から嫌われて天下が徳川家康のものになることを憂えて、慶次郎に家康の殺害を依頼するが、慶次郎は、家康が死ねば天下は再び乱世となり、民百姓が困るとこれをきっぱりと断る。その心情が通じ、かつて自分の妻の「おまつ」と慶次郎が深い仲にあったことも了承して死を迎えるのである。

 徳川家康の力は増大していく。家康は慶長4年(1599年)に前田利家が死去して10日後に伏見城へ入った。家康の天下取りの動きが始まったのである。へたをすれば豊臣家を支えてきた前田家の滅亡になる可能性があった。この時に、前田家の重臣であり、莫逆の友でもあった奧村助右衛門が慶次郎を訪ね、戦になるかもしれないと言う。慶次郎は、何としても前田家を生かすために、家康が思いもよらない奇策を提示する。それは利家の妻である「おまつ」を人質として江戸に差し出し、恭順の意を表すというものである。「おまつ」もまた、前田家を救うための働きとしてそれを望んでいると慶次郎は言うのである。それは「おまつ」のためでもあるという。

 この案に従って、「おまつ」は人質として江戸に向かう。細川家もこれに続いて息子の忠利を江戸に差し出し、以後、諸大名がこれに続くことになるが、前田家はこれによって救われていくのである。家康が次の標的としたのは上杉家である。出羽角舘城主戸沢政盛、上杉旧領に移封された堀秀治が上杉家家臣の藤田信吾を巻き込んで、上杉に叛意があると家康に密告したのである。このあたりは政治的陰謀が錯綜している。混乱期にはこうした陰謀が次々と沸き起こるのが世の常であろう。

 家康は、わずか4ヶ月前に上杉景勝に領地である会津に帰り、領国の運営に専念するよう勧めたのだが、これを受けて詰問状を送り、大阪城に出頭するように促したのである。上杉家は、慶長3年(1598年)に越後から会津に転封になったばかりで、領国でしなければならないことは山積みしていた。この召喚に対し、直江兼続が返書をしたためた。それが「直江状」と呼ばれるもので、実に毅然とした態度が示されたものである。直江兼続は家康との争いが避けがたいものであることを知って巧妙に準備をしていき、家康もまた上杉家を討つために出兵していく。

 直江兼続と深い信頼関係で結ばれ、互いに認め合っていた前田慶次郎が、この兼続と上杉家の危機を傍観するわけがない。彼はすぐさま、会津の直江兼続のもとへ戦仕立てをして出かけていく。途中、越後の堀家の領内で一騒動起こすが、会津で禄高二千石をもらい、兼続のもとに入る。関東や上方で牢人していた者たちも同様に会津にやってきた者たちがいた。この辺りは『上杉将士書上』に記されている。

 家康は七万余の大軍をもって会津討伐に向かうが、どうも大阪を留守にして豊臣方、特に石田三成が挙兵するのを待っていたふしがある。これによって、一気に天下統一を図ろうとしたのではないかと思われる。そして、案の定、石田三成が挙兵した。家康に従っていた諸大名たちの主だった者たちは、豊臣家家臣であり、上杉景勝や直江兼続との戦はできればしたくないが、相手が石田三成となると別である。福島政則などがその最たる例であった。家康は、上杉家への押さえとして次男の結城秀康を置き、すぐに転戦して関西へ向かう。この時の歴史的状況はあまりにもよく知られているからここでは割愛して、本書では『可観小説』という書物に記されている会津での前田慶次郎の逸話が面白く取り込まれている。その後のことについては、次回に記す。