2012年5月11日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集15・16 一夢庵風流記 上下』(1)


 昨日は午後になって急に気温が下がり、激しい雷雨に見舞われ、横浜駅近郊では雹も降った激しい天候だったが、今日は朝から皐月の陽射しが差している。近所の花屋さんの店先では、もう紫陽花が売られている。

 昨夜は、「花の慶次」の名称ででよく知られるようなになった前田慶次郎利益(とします)の姿を描き、原哲夫の劇画『花の慶次』の原作である隆慶一郎『一夢庵風流記』(『隆慶一郎全集1516 一夢庵風流記 上下』2010年 新潮社)を、これもまた大変面白く読んだ。本書の表題は、前田慶次郎が後に「一夢庵ひょっとこ斎」と自称したところからとられている。もちろん、上下二巻にわたる長編を一気に読んだわけではなく、まだ途中ではあるが、長くなりそうなので漸次に記すことにする。

 前田慶次郎利益という人については、正確な生没年が不詳で、誕生が1533年とも1541年ともいわれるし、没年が1605年とも1612年ともいわれるが、いずれにしろ、戦国末期、織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康という激動した時代に独特の光彩を放って活躍し、かなりの長命で生涯を送った人である。彼についての主な歴史資料は、『上杉将士書上』による略記やいくつかの逸話を収めた『常山紀談』など、あるいは明治から昭和にかけてまとめられた『加賀藩史料』、そして、彼自身が記した『前田慶次道中日記』などしかない。名前も複数で、通称は宗兵衛だったといわれるが、慶次郎、慶次、慶二、啓二郎などあり、利益も利太(としたか)、とか利貞(としさだ)とか、いろいろである。

 しかし、逸話には事欠かず、いずれも痛快で、叔父であった(前田家の長兄であった前田利久が養父)前田利家から日頃の言動を訓戒されていた慶次郎は、詫びを入れるということで前田利家を自宅に招き、「今日は寒かったので、茶の前にお風呂を用意した」と言い、利家を風呂場に招き、まず、慶次郎が湯温をみて、「ちょうどよい湯加減にございます」と言ったので、利家が湯船に入ると、氷のような冷水であったのである。利家は温厚な人であったが、さずがに「大馬鹿者に欺かれた」と怒鳴ったが、慶次郎はいち早く愛馬の松風に乗って国を去っていた、というものである。

 もう一つは、伏見城か聚楽第で豊臣秀吉が宴会を催したときに、末席にいた前田慶次郎が猿面をつけて身振り手振りおかしく踊り出し、猿顔と言われた秀吉を茶化し、加えて居並ぶ有力な諸大名の膝の上に座って猿まねをしたというもので、このとき秀吉は、諸大名たちの心配をよそに、自分を堂々と茶化す前田慶次郎が大いに気に入ったとも言われているし、居並ぶ有力諸大名の中でただひとり上杉景勝の膝の上にだけは乗らず、「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいてほかにあるまい」と豪語したともいわれている。

 その上杉景勝に仕える最初の目見えの時に、泥のついた三本の大根を持参して、「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛めば噛むほど滋味が出る」と自分を表したという逸話も残っている。

 ともかく自由闊達で、思ったことをまっすぐ貫こうとする人物で、世は彼を「傾奇者(かぶきもの)」と呼んだ。後の新井白石は『藩翰譜』で「世に隠れなき勇士なり」と彼を絶賛している。上杉家の名智将であり、類い稀な人物とまで言われた直江兼続との深い親交と信頼をもったことはよく知られており、猛将と称されるほどに武において優れていただけでなく、和歌や漢詩、連歌などでも極めて高い教養を身につけた人物で、少なくとも三人の朝鮮人を従えており、差別意識もなければ出世欲もない、まさに「漢」と呼ぶにふさわしい人物ではあっただろう。なお、本書では、前田慶次郎の身の丈は六尺三寸(1メートル90センチ)、体重二十四貫(90キロ)の偉丈夫とされているが、残されている甲冑などから、実際は、当時のほかの人々とあまり変わらない体格ではなかったかと思われる。

 隆慶一郎は、この前田慶次郎を描く際に、彼が戦国武将の滝川一益の従兄弟(甥ともいわれる)であった滝川益氏の子であったが、尾張の荒子城主前田利久の養子となったとしている。ところが、養子としてその城を継ぐはずだったが、織田信長の命によって荒子城が前田利久の弟の前田利家に与えられることになり、流浪の身になったとし、慶次郎の人生が「つまずき」から始められ、「無念の人」として生きることになったとしている。天下布武をめざす織田信長によって知らずに忌避されたところから自分の人生をはじめなければならなかったと言うのである。

 こう言うところが、作者の鋭いところで、この「無念の人」であることを抱きつつ、のびのびと「かぶき者」として、どこまでも自由闊達に生き抜いていく姿、それが前田慶次郎だというのである。

 こうした背景を詳細に語りながら、物語は、前田慶次郎が愛馬とした「松風(谷風ともいわれる)」との出会から始まっていく。「松風」は威風堂々とした野生馬の頭であった。多くの野生馬の群れを率い、馬体も大きく、前田家の馬奉行たちからは「悪鬼」として恐れられていたと言う。その「松風」を前田慶次郎が惚れ込んで乗りこなすようにしたのである。「松風」は、前田慶次郎以外の誰も自分の背中には乗せなかったと言われる。他の者が乗ろうとするとたちまち振り落とされるのである。前田慶次郎と「松風」は、まさに人馬一体となった働きをしていたと言われる。「悪鬼」とまで恐れられた野生馬の頭が従うほどのものを前田慶次郎は自然ともっていたと語るのである。

 その前田慶次郎が加賀の前田家を去り、京都に行った経緯が、この「松風」をめぐる出来事にあったと作者は創作する。城主であり叔父である前田利家が慶次郎の「松風」を気に入り、これを奪い取ろうと加賀忍びを送ったところ、慶次郎と松風によって見事に誅され、あまつさえ送り込まれた加賀忍び八人の遺体がことごとく「馬泥棒」として曝されたからである。

 前田慶次郎と深い信頼関係を持ち莫逆の友であった奥村助右衛門が慶次郎のもとを訪れ、利家との和解を勧める。この奧村助右衛門(奧村 永福 おくむら ながとみ 15411624年)もひとかどの人物である。奧村家は代々前田に家に仕えていた家系だが、助右衛門は清廉潔白で剛直であり、どんな事態になってもひるむことなく、重臣となって加賀前田家の基礎を築いた人である。

 奧村助右衛門は無口で何も語らないが、前田慶次郎は彼の来訪ですべてを悟り、前田利家を招いて茶席をもうける。ここで前述した冷水風呂のいたずらを仕掛けてしまうのである。もちろん、助右衛門は慶次郎に単なる和解ではなく前田家を去ることを勧めたわけだが、慶次郎はその勧めに従って初めから前田家を逐電するつもりでいたのである。このとき、浪々の身となることを嫌った妻子は慶次郎の元を去っている。

 こうして、松風と共に前田家を逐電した慶次郎に加賀忍びの追っ手がかかる。いずれも手練れの忍びであるが、その中に、馬泥棒に入って慶次郎と松風に殺された加賀忍びの兄である捨丸がいたのである。捨丸は慶次郎を敵と狙っていたが、その人物のあまりの大きさに惚れてしまい、彼に従う者となっていくのである。作者はこの捨丸を登場させることで、前田慶次郎の人物の大きさを描いていくし、その魅力をいかんなく発揮させていくのである。こういう演出が実に巧妙にできていて物語の幅を広げている。

 そして、その前に、前田家を逐電した前田慶次郎が一時身を寄せた敦賀で、誠実で武将としても尊敬されていた敦賀城主大谷善継と会い、豊臣秀吉に対する見方を変えられたことを語り、後の秀吉の面前での猿まねという「かぶき者」の本領を発揮する構成へと繋いでいく。こういう展開の見事さは、つくづく作家としての作者の力量を感じさせるものである。

 さて、敦賀を去った前田慶次郎は、特に目的もないままに京都へ向かうことにする。その途中で加賀忍びの捨丸との奇妙な出会が語られるのであるが、前田慶次郎の人物に惚れ込んで仲間を裏切り、その供となるくだりで、「<こいつは俺の生命を狙い続けるだろう>そんなことは百も承知だった。常時生命を狙っている男と暮らすのも、また乙なものではないか。こんな男に殺されるようなら、自分はそれだけの男なのである。それに、何時、何処で、どんな形で死んでも、なんら悔いるところはない。それが『傾奇者』の生きざまではないか」(65ページ)という一文が添えられている。

 作者が描く自由人は、だれでも、この死の覚悟に裏打ちされた自由人である。究極の自由とは己の死からも自由であり、また、この死の覚悟が、何ものにも捕らわれることのない闊達で爽やかな自由を生むのである。「傾奇者」である前田慶次郎もまた、この自由人なのである。だからといって傍若無人に振る舞うのではない。尽くすべき礼は尽くしていき、そこになんに拘りもなく、颯爽と振る舞っていくのである。颯爽とした振る舞いは「死の覚悟」から生まれる。そして、「人物」というのは、そういう人間のことを言うのである。

 ともあれ、京都に着いた前田慶次郎は、ますます「かぶき者」の本領を発揮していく。金は奧村助右衛門が別れ際にくれた大金があり、慶次郎はこれを湯水のように使っていく。慶次郎としてはそれを使うのは加賀前田家のとの縁を切るためであったが、現実的な捨丸は、これを元手に蓄財などをして慶次郎を助けていくのである。慶次郎は途方もない人物で、その途方もなさを支える現実派の人間がいるわけで、作者はそれを捨丸という、これも特異な人物を登場させて現実味のあるものとして描き出していくのである。とにかく、慶次郎の格好も振る舞いも目立つ。また、慶次郎は、茶を千宗易(千利休)に学び、和歌、連歌を詠み、乱舞や猿楽をたしなんで、笛や太鼓まで一流の腕だったという。彼は、京都で公家の屋敷に出入りして古典の伝授を受けるのである。金離れが良く、服装は伊達で、古典や諸芸に達者で、性格は明るく、おおらかで、しかも厳しさも内包している。こういう男が評判にならないわけがなく、やがてその名が知れ渡っていくのである。こうして、豊臣秀吉にその名が聞こえるようになった、と本書は展開する。そこで、秀吉との「漢と漢」の対峙が起こったというのである。

 この秀吉との会見によって、前田慶次郎は秀吉から「天下御免」を下されたという。それが事実かどうかは別にして、前田慶次郎の誰憚ることのない自由闊達さは、居並ぶ戦国大名たちに認識されたことは事実であろう。そのくだりについては、次回に記すことにする。

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