2012年5月16日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集15・16 一夢庵風流記 上下』(3)


 昨日まで雨模様で気温も上がらずに肌寒かったのだが、今日は一転して夏日になるという。今のところ雲がかかって陽射しは強くない。山積みしている仕事を横目に時間だけが過ぎているのだが、積み残して人生を終わるのも悪くはないだろうと思ったりする。しなかったからといって、個人的な評価というものは変わるが、世界が変わるわけではサラサラないのだし、人の評価などはなんの意味もないと思っているのだから。

 さて、天衣無縫に生きた前田慶次郎利益を描いた隆慶一郎『隆慶一郎全集1516 一夢庵風流記 上下』の続きであるが、天正20年(1592年-この年文禄と改易)の豊臣秀吉の朝鮮出兵(朝鮮史では「倭乱」または「壬辰戦争」)に先だって、外交役だった対馬の宗家の真偽と朝鮮の実情を調べるという名目で朝鮮に渡った前田慶次郎の姿を、作者は当時の外交史を丹念に調べて、それと絡ませながら展開する。

 李王朝下にあった当時の朝鮮は、秀吉の侵攻も倭寇による襲撃程度としか考えておらずに、軍備は不十分であった。対馬の宗家は朝鮮との交易に経済を依存していたためにこの事態に大変苦慮し、宗義智や外交僧として景徹玄蘇、博多の豪商島井宗室らと渡朝して通信使派遣を要請し、宗氏はこれを服従使節と偽って秀吉に面会させ、事柄を穏便に済まそうとしたが、日本などたいしたことはないと思っていた朝鮮側との間に齟齬が生じていたのである。

 史実的に前田慶次郎が渡朝した記録を、わたしは見出すことができなかったが、本書は、慶次郎の「かぶき振り」に朝鮮軍が震撼させられたことを伝える。作者は、慶次郎は戦などする気がなく、ただ気ままに自由人として朝鮮を闊歩して、朝鮮の人々は平和を愛し、朝鮮の人々に戦などする気がないことを秀吉に伝えようとしたこととして展開する。今のところ、この時代の朝鮮の状況にあまり関心がなく、この部分は割愛する。伽姫も、彼女が蜜陽府使の弟の邪な欲望の餌食にされかけていたところを助け、それがかつての伽倻国の末裔で伽倻琴の名手であったと語られていくのである。慶次郎もこの伽姫に惚れ、伽姫も慶次郎に惚れ込んでいき、幾たびかの危機を平然と脱しながら伽姫を連れて日本に帰ってくるのである。慶次郎は秀吉の朝鮮出兵を馬鹿々々しいことと見なし、一切これに荷担しない。対馬の宗義智、小西行長、石田三成らの偽りを知りつつも、慶次郎は秀吉に一切を語ることはなかったとする。

 その慶次郎が捨丸、伽姫、金悟洞らと京都で落ち着いたときに、直江兼続が訪ねて来て、石田三成と前田慶次郎を比較して次のように思うくだりが記されており、前田慶次郎という人物を描く直接的な言葉となっているので記しておく。

 「この男(慶次郎)は何が起こり、何にぶつかろうと一向に苦にしない。まるで予期していたかのように平然と立ち向かう。神を呪うことも己の不遜さを嘆くこともしない。・・・石田三成は慶次郎とは反対の男だ。あらゆる起こり得る事態に知恵を振りしぼって対策を立てる。そのくせ事は必ずしも対策通りには起こらない。そうなるとこの男は神を呪い、人を罵り、結局は自分を責める。よろず事に向かう姿勢が派手々々しく、終わった後も知る限りの人々に吹聴して熄むことがない」(下巻 100ページ)

 後に関ヶ原の合戦の際に石田三成は直江兼続に書状を送り、徳川家康を挟み撃ちにする計略を立てていたが、直江兼続は動かなかった。作者は、直江兼続ほどの人物が石田三成をあまり高くは評価するはずがないと思っている。直江兼続もまた、秀吉の朝鮮出兵を無意味な馬鹿々々しいこと思っており、事実、上杉家と徳川家は朝鮮侵攻の出城であった名護屋城までは行くが、一兵たりとも朝鮮には送っていない。

 慶次郎は、京で平穏な日々を過ごす。書を読み、茶を点て、連歌を作り、伽姫に琴を聴き、花見をする。文禄三年(1954年)に秀吉が吉野山で大々的な花見をしたときに、慶次郎たちは鞍馬の山中に一本だけぽつんと咲いている桜を見に出かけていくくだりが記される。

 「誰に見られるでもなく、たった一人、思いっきり豪華に咲いた花。そして誰知られることもなく華麗に散ってゆく花。慶次郎は都のどの花よりもこの花を愛した」(下巻114ページ)と語る。こういう展開が慶次郎という人物を見事に展開するくだりと言えるだろう。そして、ここで徳川家康の次男である結城秀康と出会ったと展開していくのである。

 結城秀康は家康の正妻だった築山御前の侍女との間に生まれた妾腹の子で、なぜか生まれたときから家康に嫌われ、十一歳で人質として豊臣秀吉の養子となり、十七歳で結城家の後継ぎとして秀吉から結城家に下された人物で、自分の人生を呪うような傲慢で不遜な人物だったが、前田慶次郎との出会によって、その鼻が見事に折られ、以後、慶次郎に師事していくようになったというのである。どうも家康は自分の子どもを嫌ったようなところがあり、彼の子どもとの関係は、誰の場合も不幸な気がする。

 やがて、秀吉の朝鮮侵攻が失敗に終わろうとする頃、秀吉が死ぬ。そして、豊臣家を支えてきた前田利家が病を得て死に向かう。この時、利家の妻「まつ」が慶次郎を呼んで利家と和解させようとする。病床にあった前田利家は、石田三成が諸大名から嫌われて天下が徳川家康のものになることを憂えて、慶次郎に家康の殺害を依頼するが、慶次郎は、家康が死ねば天下は再び乱世となり、民百姓が困るとこれをきっぱりと断る。その心情が通じ、かつて自分の妻の「おまつ」と慶次郎が深い仲にあったことも了承して死を迎えるのである。

 徳川家康の力は増大していく。家康は慶長4年(1599年)に前田利家が死去して10日後に伏見城へ入った。家康の天下取りの動きが始まったのである。へたをすれば豊臣家を支えてきた前田家の滅亡になる可能性があった。この時に、前田家の重臣であり、莫逆の友でもあった奧村助右衛門が慶次郎を訪ね、戦になるかもしれないと言う。慶次郎は、何としても前田家を生かすために、家康が思いもよらない奇策を提示する。それは利家の妻である「おまつ」を人質として江戸に差し出し、恭順の意を表すというものである。「おまつ」もまた、前田家を救うための働きとしてそれを望んでいると慶次郎は言うのである。それは「おまつ」のためでもあるという。

 この案に従って、「おまつ」は人質として江戸に向かう。細川家もこれに続いて息子の忠利を江戸に差し出し、以後、諸大名がこれに続くことになるが、前田家はこれによって救われていくのである。家康が次の標的としたのは上杉家である。出羽角舘城主戸沢政盛、上杉旧領に移封された堀秀治が上杉家家臣の藤田信吾を巻き込んで、上杉に叛意があると家康に密告したのである。このあたりは政治的陰謀が錯綜している。混乱期にはこうした陰謀が次々と沸き起こるのが世の常であろう。

 家康は、わずか4ヶ月前に上杉景勝に領地である会津に帰り、領国の運営に専念するよう勧めたのだが、これを受けて詰問状を送り、大阪城に出頭するように促したのである。上杉家は、慶長3年(1598年)に越後から会津に転封になったばかりで、領国でしなければならないことは山積みしていた。この召喚に対し、直江兼続が返書をしたためた。それが「直江状」と呼ばれるもので、実に毅然とした態度が示されたものである。直江兼続は家康との争いが避けがたいものであることを知って巧妙に準備をしていき、家康もまた上杉家を討つために出兵していく。

 直江兼続と深い信頼関係で結ばれ、互いに認め合っていた前田慶次郎が、この兼続と上杉家の危機を傍観するわけがない。彼はすぐさま、会津の直江兼続のもとへ戦仕立てをして出かけていく。途中、越後の堀家の領内で一騒動起こすが、会津で禄高二千石をもらい、兼続のもとに入る。関東や上方で牢人していた者たちも同様に会津にやってきた者たちがいた。この辺りは『上杉将士書上』に記されている。

 家康は七万余の大軍をもって会津討伐に向かうが、どうも大阪を留守にして豊臣方、特に石田三成が挙兵するのを待っていたふしがある。これによって、一気に天下統一を図ろうとしたのではないかと思われる。そして、案の定、石田三成が挙兵した。家康に従っていた諸大名たちの主だった者たちは、豊臣家家臣であり、上杉景勝や直江兼続との戦はできればしたくないが、相手が石田三成となると別である。福島政則などがその最たる例であった。家康は、上杉家への押さえとして次男の結城秀康を置き、すぐに転戦して関西へ向かう。この時の歴史的状況はあまりにもよく知られているからここでは割愛して、本書では『可観小説』という書物に記されている会津での前田慶次郎の逸話が面白く取り込まれている。その後のことについては、次回に記す。

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