2012年5月28日月曜日

童門冬二『葉隠の名将 鍋島直茂』


 ようやく初夏らしい日々になってきたが、一日の寒暖の差が大きく、夜にぶらぶら歩いていると思わずくしゃみが出たりする。この数日は日本の女子バレーの試合をずっとテレビで見ていた。いつ見ても、女子バレーの試合には感動がある。ロンドンオリンピックに行けるようになって本当によかった。

その試合を見ながら、昔、開高健がサントリーウイスキーのキャッチコピーとして作った「何もたさない。何もひかない」という言葉をふと思い出したりした。「人間、あるがかま、かくあるべし」と自覚しているわけで、調子が出ないときは調子が出ないままに過ごそうとゆっくり思ったりしている。

 二~三日かけて、童門冬二『葉隠の名将 鍋島直茂』(2001年 実業之日本社)を読んだ。これは戦国時代から江戸期にかけて優れた武将として生き抜き、佐賀鍋島藩の藩祖となった鍋島直茂(15381618年)を描いた歴史小説である。

 巻末の著者紹介によれば、作者の童門冬二という人は、本名は太田久行、1927年に東京で生まれ、旧制中学を卒業後に東京都で公務員として働き、やがて、要職を歴任されて美濃部都政の重要な首脳として活躍される中で歴史・時代小説の執筆を続けられていたが、定年退職後に本格的な作家活動に入られたらしい。著作は多数で、主として伝記的な歴史小説が中心だが、有能な官吏としての歴史の見方が随所に現れる独特の作風がある。本書にも、こうした観点で、例えば「葉隠」を有効なビジネス教本として見るといった観点が語られたりしている。

 鍋島直茂は、肥前佐嘉(佐賀は昔はこの文字で表されていた)本庄村の地方豪族であった鍋島清房の次男として生まれ、肥前の城主であった龍造寺家に仕え、武将としての頭角を現していった人で、特に、龍造寺隆信の信任が厚く、豊後の大友宗麟の肥前侵攻や肥前南部の有馬・大村氏などとの争いに勝利を収め、龍造寺家の安定のために躍如した。豊臣秀吉が九州を平定する以前は、九州は肥前の龍造寺家、豊後の大友家、薩摩の島津家に三分されて、各地で争いが絶えなかった。龍造寺隆信が家督を嫡男の政家に譲った時に、鍋島直茂はその後見とされ、薩摩との争いで死去した後は肥前の国政を担う者となっていった。

 鍋島直茂は早くから豊臣秀吉に高く評価されて、秀吉の九州侵攻を促し、秀吉から正式に肥前の国政を政家に代わって担うよう命じられ、実権を掌握していくが、主家である龍造寺家との確執は続いていった。1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦の際には、息子の勝茂が西軍側についてしまうが、直茂は徳川家の勝利を予測し、本戦が開始される以前に勝茂を戦線から離脱させ、尾張方面の穀物を買い占めて家康に献上するなどの方針をとっている。そして、戦後は家康への恭順をさらに示すために、西軍側についていた小早川秀包(毛利元就の九男)の居城であった久留米城と立花宗茂の居城であった柳川城を降伏させた。

 これによって家康は肥前佐嘉357000石を安堵させ、佐賀藩は九州の大国のまま鍋島直茂が統括することになったのである。主家である龍造寺政家が隠居した時、その子であった龍造寺高房が佐賀藩における実権の回復を幕府に訴えたが、幕府は鍋島直茂・勝茂に龍造寺家からの佐賀藩の禅譲の形をとり、ほかの龍蔵寺家の家臣団もこれを認めたために、佐賀藩は正式に鍋島家を主家とすることになったのである。なお、龍蔵寺高房はこのことを恨んで憤死(一説では家族を皆殺しにして狂死)した。また、鍋島直茂は龍造寺一門への敬意を表して、自ら藩主の座につくことはなく、佐賀藩の初代藩主はその息子の鍋島勝茂である。

 鍋島家と龍造寺家との確執は、憤死した龍造寺高房が亡霊となって引き起こしたといわれる「鍋島家化け猫騒動」などに表されたりしている。鍋島直茂は、鍋島家を安定させ、1618年(元和4年)に81歳で死去した。後年、この鍋島直茂を念頭に置きながら山本常朝が口述したのが『葉隠』である。

 鍋島直茂と柳川の立花宗茂は、ともに優れた武将であり、両雄相知るの関係であったと思われるが、先に、この立花宗茂を感動的に描いた葉室麟『無双の花』を読んでいたし、隆慶一郎が『葉隠』を題材にして抜群のエンターテイメント性を発揮した『死ぬことと見つけたり』などを読んでいたので、この鍋島直茂を描いた童門冬二の作品をある種の期待感を持って読み始めた次第である。

 しかし、歴史小説として描かれていることもあるのか、物語性よりも史実性が重要視され、この時代は社会全体が激変して、それを記すだけでも大変なこともあるのか、どうも鍋島直茂の人物が生き生きと浮かび上がってこない気がしてならなかったし、歴史解釈の皮層性や人間理解の浅さが感じられるところが随所にあると同時に官僚的な発想が随所にあって、少し残念な気がした。もちろん、面白いのは面白い。

 たとえば、「秀吉の人心掌握術」と題された一文で、大臣が職員の奥さんの誕生日を覚えていることがこの大臣のために懸命に仕事をしようという職員のやる気に繋がっていくというくだりがあり、秀吉の人心掌握がそういうものであったと述べられているが、仕事への情熱や信頼というものはこんなものでは生まれないだろうと思ってしまうのである。

 あるいはまた、石田三成を嫌っていた加藤清正や福島正則が石田三成を誅しようとした時に、石田三成は徳川家康に庇護を求めるが、それを石田三成が徳川家康を襲撃する噂が流れて、加藤清正や福島正則が家康を守ろうとしたと記されている(137ページ)。しかし、この事情はもっと複雑で、加藤清正が家康を守ろうと思っていたのではないだろうと思っている。

 あるいは、関ヶ原の合戦に遅れた徳川秀忠に対して、家康が表面はこれを叱責したが、腹では三河以来の家臣を損失しなかったので喜んでいたという解釈が述べられている(163ページ)が、家康と秀忠の親子関係は複雑で、秀忠が遅れをとったのは、関ヶ原に向かう途中の真田家との上田の争いで、秀忠が思わぬ手間を取り、しかも手痛い失敗を繰り返したからで、ここで述べられているような深い思惑があったとは思えない。こうした解釈は穿すぎではないかと思われる。

 しかし、鍋島直茂が家訓として残した「御壁書二十一ヶ条」と後に記された『葉隠』を対応させていくところなどは、なかなか味があり、瞠目に値する気がする。鍋島直茂の「御壁書二十一ヶ条」は、戦国武将としての鍋島直茂がいかに家中を整えていくかを記したもので、下のものの意見をよく聞き、厚情を持って接することを説いたものだが、その中で、ちょっと面白いと思ったものを抜書きしておく。

 四 憲法は下輩の批判、道理のほかに理(ことわり)有り。作者の解説によれば、これは、「たてまえばかりにこだわるのは、下々の議論だと思え。世の中には、道理のほかの道理ということが必ずある」ということになる。ただし、五で「下輩の言葉は助けて聞け。金は土中にある事分明」とされている。あるいは、十一「理非を糺(ただ)す者は、人罰に落ちるなり」とある。これも作者の解説によれば「人の善悪をとりあげてきびしく攻めると、他人のうらみという人間による罰を受けるだろう」となる。また、二十「上下によらず、一度身命を捨てざる者には恥ぢず候」とあり、「身分の上下にかかわらず、一度もわが身命を捨てた経験を持たない者には、敬意を払えない」と説かれている。

 こういう鍋島直茂の生涯訓のようなものは、やはりそれだけで味のあるものである。ただ、小説としてはこれを物語で表す手法もあるだろうとは思う。

 もうひとつ面白いと思ったのは、鍋島直茂が息子の勝茂に城の櫓の上に登って、唐津城を築き、防砂林としての虹の松原を築いたことに触れて、佐賀の城下の人々が胸を張って上を向くような気概をもった人々となるように訓示する場面で、「律儀正直」ばかり求めないで自由闊達であることを望むことが記されていることで、作者はこれを創業者と二代目の気質の差だと分析し、家康と秀忠の関係を直茂と勝茂の関係として並行に描いていくことである。こういう視点は通常の歴史家にはない視点だろうと思う。

 本書には、直茂の家臣であり、「葉隠精神」そのものとも思えるような斎藤用之助や勝茂の長男であったが鍋島藩主とならずに支藩の小城藩主となった鍋島元茂についても触れられている。

 この鍋島元茂という人は、なかなか優れた人で、四歳の時に江戸に人質として送られ、父親の婚姻関係の都合で廃嫡されたが、江戸で柳生宗矩に柳生新陰流を学び、宗矩から最初に免許皆伝を与えられるほどの剣の腕をもつ遣い手となり、三大将軍の徳川家光から尊重された人物で、祖父である直茂の死後に、その隠居領を譲り受けて、小城藩主となったのである。人格的にも優れたところがあり、徳川家光が「兵法の心得」を尋ねた時に「善と思う悪し、悪と思う悪し、善悪とも悪し、思わざるところ善し」と答えたりしている(335ページにその記述がある)。おそらく祖父の直茂の真っ直ぐな性質を受け継いでいたのだろうと思われる。

 なお、鍋島家は勝茂の後、徳川家康の養女となっていた菊姫との間にできた四男の忠直が後を継ぐことになっていたが、忠直が23歳の若さで疱瘡にかかって死去したために、その子である光茂が二代目藩主となっている。この鍋島光茂という人は、なかなか権力欲の強い人であった。

 ともあれ、本書は鍋島直茂という人物を多様な角度から描いたものであるということができるような気がする。文学作品としての出来不出来は別にして、歴史小説としては面白く読めた一冊だった。

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