2012年5月24日木曜日

藤原緋沙子『坂ものがたり』


 2223日と仙台に出かけていたが、22日(火)は雨で格別寒く、翌23日(水)は10度も気温が上昇する夏日になるという、まるで気温のエレベーターに乗っているようで、今年はこうした気温の激変が続いている。それでも雨に煙る仙台のけやき通りの新緑が美しく、それはそれで風情のある光景だった。片倉小十郎の白石城が復元されていることを知り、機会があれば行ってみたいと思っている。

 それはともかく、江戸の話になるが、江戸は坂の多い町で、それぞれの坂にはそれぞれの曰くのある名前がつけられていて、わたしが時折会議で出かける市ヶ谷には「浄瑠璃坂」と呼ばれる坂があり、その曰くを記す牌がある。この坂の名の由来には諸説があるらしい。諸説といっても単純なもので、昔はこの坂は六段に波打っていて、その六段を浄瑠璃の六段(六話で完結)とかけて「浄瑠璃坂」と呼ぶようになったとか、あるいは坂の西側に紀伊の新宮藩主であった水野大炊頭の上屋敷があり、その屋敷の長屋が坂に沿って六段になっており、浄瑠璃の六段にかけて呼んだとか、あるいはまた坂の上に人形浄瑠璃の芝居小屋があったとか、などである。

 しかし、この坂は別名「仇討坂」とも呼ばれ、それは、寛文12年(1672年)にこの坂で起きた仇討事件(浄瑠璃坂の仇討)に由来する。寛文8年(1668年)に宇都宮藩の藩主の法要(葬儀)の際に、当時の宇都宮藩の譜代の家老の家柄に属する奥平内蔵允と主君の傍流の家柄に属する奥平隼人が些細なことで口論し、憤慨した内蔵允が隼人に向かって抜刀したが、返り討ちにあって刀傷を受けた。内蔵允はその夜に切腹してしまったのである。坂の由来となった事件は、この出来事に発するものである。

藩の処分はこの事件から半年後にようやく下されたが、喧嘩両成敗の形ではなく、内蔵允の嫡男である源八(当時12歳)は家禄没収の上に追放、隼人の方には改易が申し渡すものであった。内蔵允が切腹しているので両成敗ならば隼人も切腹となるはずであるが、隼人とその父親には藩から物々しい警護がつけられて送り出されるなどの温情が示されたのである。そして、この処分に不服を持った源八とその一党42名が三年の雌伏の後、この市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠戸田七之助の屋敷に身を寄せていた隼人に夜襲をかけたのである。

源八ら一党は奥平隼人の父親である奥平半齋は討ち取ったが目的の隼人を探し出せずに、仇討を断念して牛込御門前に来た時、あとから追いかけてきた隼人が手勢を引き連れて駆けつけ、源八は取って返して隼人を討ちとるのである。やがて、文治政治を目指していた徳川家綱の幕府は、奥平源八らを伊豆大島へ流罪とした。しかし、その6年後、恩赦によって源八らは赦免された。この事件は、当時の江戸で瓦版になるなどの大きな影響があり、江戸市民は見事に仇討をした奥平源八らに拍手喝采を送ったのである。そして、一説では、彼らが討ち入りに際して火事装束を身につけていたことなどから、これが忠臣蔵の赤穂浪士の仇討のモデルになったとも言う。赤穂浪士の大石内蔵助はこの奥平家と縁戚関係にあったのである。こうした事件が起こったので、この坂が「仇討坂」とも呼ばれている。

 江戸にはこうした由来をもつ坂がたくさんあるが、藤原緋沙子『坂ものがたり』(2010年 新潮社)は、「聖坂」、「鳶坂」、「逢坂」、「九段坂」の四つの坂をそれぞれ春夏秋冬の季節の中で、その坂を使う人々、特に男女の恋愛模様を中心にして四編の短編として描き出したものである。

「夜明けの雨-聖坂・春」は、行く末を誓っていた「佐七」と「おまつ」という男女の話で、中目黒の百姓の三男だった「佐七」は、呉服問屋に奉公に出て、懸命になって働き、手代になっていたが、ひとかどの商人になる野望をもっていたために、幼馴染の「おまつ」に待って欲しいと言う。だが、商人への道は遠い。だが「おまつ」はもう待てなくなり、「佐七」に呉服問屋をやめて、一緒になって荷売りから始めようと言い出す。そして、自分には他にも縁談があると言ってしまうのである。「佐七」は絶望して、さっさと嫁に行けと言い、二人は分かれてしまう。

だが、そのすぐ後で、奉公している呉服問屋の娘からの縁談話が「佐七」に持ち上がり、「佐七」はとんとん拍子にうまくいき、呉服屋の主人に収まる。しかし、その呉服屋は義母の支配下にあり、「佐七」は空回りして商売もうまくいかなくなる。

他方、「佐七」と別れた「おまつ」は、別の商家の嫁に行ったが、婚家とうまくいかずにそこを飛び出し、病身の母親の薬代のために身を売って岡場所で働くようになっていた。そのことを知った「佐七」は何とか「おまつ」を見受けして自由にさせたいと金の工面に走り回る。

だが、そんな「佐七」を嫁も姑もゆるすはずがない。「佐七」は焦って昔の友人のいかさまによる賭場で金儲けを企むが、そのいかさまがばれて、襲われ、金も全て奪い去られてしまう。「佐七」は、自分が執着していたことの全てを捨てて「おまつ」を連れ出して逃げる覚悟をしていく。そういう話である。

ほかの三話も、設定や人物はそれぞれ異なるが、男女のそれぞれに愛や人生が描かれていくのだが、読んでいる時も、あるいはこうして展開をまとめてみても、文章の柔らかさとは別に、たとえ不幸な結末が描かれていても、人物の捉え方や展開の甘さが感じられて、たとえばこの第一話にしても、「おまつ」という女性は、本心は「佐七」と別れる気がなくても「佐七」に「待てない」と迫り、「佐七」が人生に悩む中で他家に嫁に行き、そこで失敗し、さらに病身の母親のために身を売り、そのことの原因がまるで「佐七」にあるように恨むのである。これがどうしようもない女として描かれているならともかく、結局は「佐七」への想いを捨てられない純な女として描かれているし、「佐七」は「佐七」で、自分の仕事がうまくいかずに、金策のために博打に手を出す人間だが、「おまつ」を思う純な男として描かれているのである。この辺の人間の捉え方と描き方に、どこか綺麗な話をするという「甘さ」をかんじてしまうのである。

収められているほかの作品もだいたい同じようなものだが、この中では第四話の「月凍てる-九段坂・冬」が、まあよかった作品だろうと思っている。

これまでこの作者の著作をいくつか読んで、出来と不出来が比較的はっきりしている気がしていて、この作品もどちらかといえば人物の捉え方や展開があまりにあっさりし過ぎていて、少し不満が残る内容だった気がする。

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