2012年5月14日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集15・16 一夢庵風流記 上下』(2)


 立夏を過ぎてもあまり気温が上がらない日々が続いているが、「まあ、こんなものかもしれない」とも思う。ひとつひとつ丁寧に仕事をしようと思うのだが、どこかに疲れがたまっていて、興が乗らないのも今の季節の特徴かもしれない。深い考察を要求されながらも慌ただしい。

 さて、隆慶一郎『隆慶一郎全集1516 一夢庵風流記 上下』(2010年 新潮社)の続きであるが、前田慶次郎が豊臣秀吉から召喚を受けた際に、叔父であり加賀の城主であった前田利家の妻「まつ」(芳春院  15471617年)が一役買っていたと本書は展開する。

 「まつ」は学問や武芸にも秀でた女性で、秀吉がまだ織田信長の家臣であった頃から秀吉の妻「ねね」(高台院)や母「なか」(大政所)とも昵懇で、畑仕事の手伝いもしていたし、幾たびか夫の利家の危機も救い、利家を鼓舞して前田家を支えた女性である。後の加賀百万石前田家は、この「まつ」なしには存在しなかったとさえ言われ、剛胆で、決断力もあり、自由奔放でもあった。

 この「まつ」が甥の前田慶次郎を高く評価していた。風雅で教養も高く、漢としても爽やかで明るい慶次郎を好ましい男と思っていたし、前田慶次郎は、この「まつ」に惚れて唯一頭が上がらなかった女性であった。

 「まつ」は前田慶次郎に会い、秀吉の召喚に応じて、しかも秀吉を怒らせるまねはするなと釘を刺すのである。そして、その「まつ」の願いを入れて、秀吉との会見に臨むのだが、秀吉を怒らせず、しかも前田家を窮地に陥れないためには、当の秀吉を殺すしかないと覚悟を決めて、先に述べた猿真似を演じるのである。この辺りの直截的な思いが、慶次郎らしいといえば言えるが、さすがに秀吉は慶次郎の腹の内を見抜き、これを座興として受け入れて、慶次郎に「天下御免」を下すのである。このくだりは、秀吉と慶次郎の緊迫した中で、漢と漢の対面として描かれている。「漢と漢」との対峙は、一つの理想像でもある。作者はそれを描くのである。

 そして、慶次郎のあまりの爽やかな振る舞いに、「まつ」は慶次郎に惚れ、彼に家を訪ねて同衾してしまう。「まつ」は、つまらない貞節感もないし、そういうことに拘らない自由な女性であった。だが、これが前田家の崩壊に繋がり危惧があり、あまりのたびたびの逢瀬に釘を刺すために、前田家の重臣で慶次郎の莫逆の友であった奧村助右衛門が慶次郎のもとを訪れる。奧村助右衛門は直接的には何も語らないが、慶次郎はそれを察し、「まつ」に思いを残しながらも「まつ」と別れる。

 その前に、本書では生涯変わらぬ深い信頼で結ばれた直江兼続との出会を語る。きっかけは、上杉家中の武士たちが、ひとりの青年武士を苛めるために「傾奇者」として名をはせていた慶次郎との果たし合いをさせようとして、慶次郎に見破られ、陰湿ないじめなどを嫌う慶次郎は、彼を苛めた十三人の家臣たちも共々に果たし合いの場に来るように言ったことである。だが、家臣たちはさらに青年武士を責め、青年は武士の意地を通して自死する。彼は自死する前に直江兼続く宛の書簡を残し、直江兼続が苛めた家臣たちを連れて慶次郎の前に来たのである。直江兼続は、慶次郎との約定を何処までも守るという。慶次郎はこの家臣たちの命は助けようと思うが、彼らは何処までも不遜で、十三人でかかれば自分たちは勝てるだろうという甘い推測をしていた。慶次郎は、そういう不遜な態度を見て、全力を出してあっという間に彼らを誅するのである。直江兼続はそれを黙って見ていた。十三人の男たちは上杉家の上士の息子たちだったが、兼続は涼しい顔をして断固として事柄に当たったのである。兼続29歳の若さである。直江兼続は何処までも毅然として立っている。

 この時の直江兼続の姿に、慶次郎は惚れ込んでしまうのである。そして、以後、兼続の家に入り浸る。兼続は、剛毅英邁な武将であるだけでなく、学問にも熱心で、自ら膨大な書物を写筆していたし、90冊からなる宋版の『史記』を所有していた(現在の中国にもこの完本はなく、兼続が所有していたものが現存するもので唯一のものになっている)。この辺りも、作者は上手く挿入している。

 この慶次郎に「骨」と呼ばれる手練れの武田忍びが命を狙ってつきまとうようになる。慶次郎の供になっている捨丸も加賀忍びとして相当な腕だが、「骨」は遙かにそれを上回る手練れである。こういう人物を登場させるところに作者のエンターテイメント性が見事に発揮されていくのだが、この「骨」は、慶次郎につまらない見栄をはって果たし合いで殺された男の弟が金で雇ったものである。しかし、彼もまた、慶次郎に触れて、その人物に魅了されていくのである。自分の生命を狙うものを虜にしていく、それが慶次郎という男だと描き出す。

 こうした日々を京都で過ごしていた慶次郎だが、直江兼続から越後上杉家が佐渡の平定のために佐渡と戦をするという書状を受け取る。上杉家の力を恐れていた秀吉が領内不安定を理由に上杉家を取り潰す恐れがあり、佐渡の平定が急務となったのである。慶次郎はこの書状を受け取ると、すぐに越後に向かうことに決め、越後への道を急ぐ。慶次郎は越後へ直行するために加賀藩領内を通る北国街道をとる。だが、加賀藩領内では、かつて加賀忍びを慶次郎にことごとく退けられた恨みがあり、慶次郎を殺そうと待ち受けている。だが、慶次郎はそんなことを歯牙にもかけずに北国街道を北上するのである。

 案の定、加賀忍びは慶次郎たちを待ち受けていた。奧村助右衛門が加賀忍びの首領に会い、慶次郎が天下御免を秀吉からもらった人間であり、これを殺すことは加賀藩を潰すことだから、もし、慶次郎が死ねばゆるさないと脅すが、既に加賀忍びの手配は済んでおり、慶次郎たちは襲われる。しかし、その襲撃も捨丸や彼らに随行していた「骨」によってことごとく退けられていくのである。こうしたくだりも、作者がエンターテイメントの要素をいかんなく発揮させる展開である。

 前田慶次郎は上杉家の客将として佐渡平定の戦に加わり、勇猛果敢な一騎駆けをして戦はあっという間に終わる。作者は、この佐渡騒乱の影に、直江兼続という無類の人物をなんとかして自分のものにしたいと願った豊臣秀吉の策謀があったと見ている。だが、それも前田慶次郎の瞬時の働きで微塵に砕かれたというのである。権力者の野望が豪快に、そして爽やかに砕かれていく様が描き出されていくのである。

 この戦の終了後、慶次郎は再び京都へ戻り、そこで、後に吉原という特殊な傾城(色里)を作った庄司甚内との出会を語ることで、物語を秀吉の小田原城攻めへと進めていく。こういう展開の仕方も実に巧みである。慶次郎は小田原落城後ずっと直江兼続と行動を共にしていた。それは秀吉の「奥州仕置き」と呼ばれる大規模な検地が実行されたためで、上杉景勝は庄内地方や最上地方、仙北地方一帯の検地を命じられていた。慶次郎は兼続の随行で訪れた検地先で、検地を嫌う村人との小競り合いを見て、嫌気がさし、京へ戻ったのである。これは、天正18年(1590年)に仙北六郷の百姓たちが興した大規模な一揆のことで、一揆の総数は二万五千ほどに上ったと言われる。上杉家はこれをことごとく平定したが、慶次郎はそれとは無縁だったというのである。この一揆の原因は、石田三成が強引に勧めた検地で、上杉景勝や直江兼続が考えていた領主と領民の「愛し、愛される関係」ではなく、石田三成が中央集権的な上からの権力の行使を実行するだけのものに過ぎなかったことによる、と作者は言う。

 おそらく、これは当を得た歴史解釈だろう。この一件で、上杉景勝と直江兼続は石田三成に対して不快な思いを抱いていたというのである。このくだりが、やがて関ヶ原の合戦における兼続と三成の関係の解釈へと繋がる心憎いほどの演出となっている。

 作者はここで直江兼続と前田慶次郎が石田三成について話をするという場面を設定し、石田三成のその後の動きを語りつつ、兼続と慶次郎が、以下に状態を深く読んで、しかも颯爽と事態に当たったのかを示すのである。利休の事件にも石田三成が関与していたことを述べ、これもさりげなく言及する。

 その中で、石田三成や利休とは全く異なった前田慶次郎の人物像を明確に描く文章が次のように記されている。

 「慶次郎にとって人生は簡単であろう。好きな時に寝、好きな時に起き、好きなことだけをして死ぬだけである。誰もが望み、誰もが果たせない生きざまだった。何故誰にも出来ないか。一切の欲を切り棄てなければならないからだ。あらゆる欲とあらゆる見栄を棄て去り、己の生きざまだけに忠実にならなければ慶次郎のようには生きられない。
 それだけではなかった。慶次郎のように生きるには天賦の才能が必要だった。文武両道にわたる才であり、中でも生き抜く上での才である。或いはこれを運ということも出来よう。運の良さも明らかに才能の一つである」(上巻 257ページ)

 前田慶次郎という人物を記すに、この一文だけで十分かもしれない。己の生き方を貫くためには、その覚悟とそれだけの才能が必要であり、忍耐もまたその才能の一つだと思ったりもする。こういう人物である前田慶次郎が小賢しい知恵を働かせて粘着質に計画を立てるような石田三成を嫌うのは当然であろう。そして、慶次郎は自分が嫌いな人間との交わりは決してしない。

 その石田三成が、秀吉の朝鮮出兵に先だって朝鮮の実情を調べるために慶次郎に朝鮮行きを命じるのである。事情は朝鮮との関係を保っていた対馬の宗家が絡んで複雑である。それと同時に、慶次郎を京から追放する意図を三成はもっていたが、その三成の意図とは無関係に慶次郎は死地に赴くことを喜んで承知し、博多へと向かう。

 この博多で、慶次郎に来られては自分たちの方便と利益が台無しになってしまうことを恐れた対馬の宗家が金で雇った暗殺者が慶次郎を狙う。この暗殺者は、明の出で朝鮮を経由してきた金悟洞という凄腕の殺戮者だったが、この金悟洞も慶次郎に接して、その魅力に引き込まれて慶次郎に従う者となり、一緒に朝鮮に渡るのである。金は長鉄炮の名手だった。

 彼らは博多から船で朝鮮の釜山に行き、そこから朝鮮半島に上陸する。ここから朝鮮での慶次郎の動きが、当時の日本と朝鮮との関係で外交筋であった対馬の宗家を挟んで起こっていた齟齬が描き出されながら、慶次郎と伽倻国の末裔である伽姫との出会などが語られていく。そのくだりは次回に記していく。

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