曇って少し肌寒い。先日の突風や竜巻に続いて、気象庁はこの2~3日うちにそれが再び起こるかもしれないという注意報を出している。気温の劇的な変動で生じる気象現象だが、気温の劇的な変動は身体にもこたえる。
先週の会議の疲れがまだなかなか取れないでぼんやり過ごしているが、追い打ちをかけるようにしてやってくる仕事もあり、さて、どうしようか、と脳天気ぶりを発揮することにした。
それはともかく、風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2000年 新装版2008年 祥伝社文庫)の続きであるが、成田長親は、武力にならないと思われていた町人や百姓を信頼し、その助けでなんとか城を持ちこたえさせる。だが、石田三成が率いるのは大軍であり劣勢であることに変わりはない。負けるのは分かっている。しかし、彼は平然とこれに対峙していくのである。
この成田長親と藩主の妻である「お菊」の人物の妙味が二人の次のような会話で描き出されている。
「この城は、方円の器にしたがう水の城」
と、お菊さまはつぶやいた。
本丸の隅にある二層の櫓で、戻ってきた長親の報告を聞いた。持田口で八人ほど死人が出た。その中には、長親が目をかけていた者もふたり混じっていて、ほどく辛そうにそれを告げられた。
だが、持田口もどうにか持ちこたえて、元の守備体制を取り戻したということだった。
それを聞いたあと、そんな言葉が出たのである。
「どういうことでしょうか」
「押してくれば、引いてしまう。敵が引けば、押していく。戦いぶりがよく言えば、柔軟ですが、どこかとりとめがないような気も・・・」
「なるほど」
「おそらく長親どのの性格からくるものでしょうな」
この場面の描写が優れているというわけではないが、押し寄せた大軍に対して「水の城」を少人数で守り続ける成田長親と藩主の妻のお菊との性格と、彼らが無理をせずに自然に採った方法がよく表されている気がする。成田長親もお菊も「人物」なのである。そして、成田長親に対する信頼が溢れているのである。石田三成の人知と力に対して、長親は、楽天的でのんびりした鷹揚な性格と信頼で対峙するのである。
成田長親は、武芸に優れていることもなければ、小賢しい知恵があるわけでもないが、人を受け入れるという大きな器で安心感と信頼を与え、何よりも「人を活かす」ことを優先させることで敵の大軍に立ち向かい、それでだめならそれでもいいさ、というような楽天性をもつ人物なのである。もちろん、その楽天性は、一切の責任を負う覚悟と、明日死んでもどうということはないという武士(もののふ)としての覚悟があるのである。
こうして、小田原城が落ちても忍城は落ちなかったが、小田原にいた藩主の意向を受けて成田長親は忍城を開城する。その開城の交渉も、あらゆる命を守り、立て籠もった人々がそのごの生活ができるようにすることを貫き、見事にそれをやってのけるのである。彼は鋭利な刃物ではない。むしろ、なまくらな切れない刃物であるが、ふんわりと人を包みこむのであり、そのふんわりとした中に、しかし、人の命と生活を第一義としていく筋が貫かれているのである。
こうして、藩主の成田氏長と共に成田長親はいったん蒲生氏郷に預かりの身となり、やがて、成田氏長は会津の出城であった福井城一万石の藩主となる。さらにその後、娘の甲斐姫が豊臣秀吉の側室となったことから野州烏山三万七千石の藩主となっている。
だが、藩主の成田氏長が攻撃側であった浅野長政と雑談した際に、あのときに城内に内通者がいたという話を聞き、氏長はそれが城代として城を守った成田長親だと思って、これを問い質してしまう。後にそれは誤解であったと判明するが、藩主に疑われた成田長親は、すぐにそのまま烏山城を出て、尾張に寓居し、二度と成田家に戻ることはなかった。
このくだりも、本書では後日談としてあっさり書かれてはいるが、実は、成田長親という人物を端的に表すくだりで、わたしとしては大いに関心のあるところである。わたし自身もまた、それが事実無根であればあるほど、一度疑われるようなことがあれば、一切の弁明などをせずに静かにその場を去るだけであるような歩みをしてきたからでもあるが、成田長親の脳天気性はこうした覚悟に裏打ちされているもののように思えるからである。
いずれにしても、この作品は成田長親と忍城という題材の素晴らしさもあるが、妙味のある面白い作品だった。
図書館から借りてきていた本の返却日が来てしまったために、上田秀人『国禁 奥右筆秘帳』(2008年 講談社文庫)と藤沢周平『静かな木』(1998年 新潮社)も面白く読んだのだが、時間的にこれを記すことができず、書名だけを記しておくことにする。
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