めまぐるしく変わる今年の梅雨の天気は、体調の管理がなかなかのところがあるが、雨であれ晴れであれ、日常生活が変わらないというのが現代の生活様式かもしれないと、溜まった仕事を横目にしながら思ったりする。相変わらず、政治も経済も酷い有様だが、能天気に暮らすことにもてる才能を発揮して、明日のことは明日、と決め込んで、今日も一日を過ごしている。
その中で、高橋義夫『かげろう飛脚 鬼悠市風信帖』(2003年 文藝春秋社)を面白く読んでいた。物語の構成と展開のうまさが光る作品で、主人公は、東北の松ケ岡藩(作者の創作)という小藩で、御家人の中では最も軽格の足軽をしている鬼悠市という鬼のような風貌と巨体を持つ人物である。
彼は、表向きは決まった役職もなく、竹で鳥籠を作る職人仕事をしているが、風貌に似合わない繊細な彼の鳥籠は江戸や上方でも知られ、藩内では売買が禁じられているものの献上品として用いられたりするほどのものであった。しかし、彼には裏の役目があり、藩の奏者番(藩主への取り次ぎ役で、たとえば江戸幕府内では大目付と並ぶ重職であった)をしている加納正右衛門からの直接の任務を引き受ける、いわば隠密であったのである。
物語は、この鬼悠市が加納正右衛門から、松ケ岡藩の分家である黒岩藩の元家老を預かり、彼を監視すると同時に保護するという役を言い渡されるところから始まる。鬼悠市は、彼を自宅に隣接している長源寺で預かり、養子としてもらっている少年の柿太郎にその世話を依頼することにする。
彼が預かった黒岩藩の元家老であった日向杢兵衛は、藩政上の何らかの事情で長預かりの身となったのだが、その日常は穏やかで落ち着き、草花の絵を描いたりする静かなもので、世話をする少年の柿太郎が次第にその人徳に惹かれていくほどのものであった。
鬼悠市は藩政のことなどに全く関心はないのだが、鬼悠市が日向杢兵衛を預かることを知った上司の足軽組頭の竹熊与一郎がさっそくやってきて、黒岩藩の内情を知らせる。竹熊与一郎は日向杢兵衛がいる長源寺周辺の警護を命じられているのである。もともと二万石弱しかない黒岩藩では、実高が少ない上に不作が続き、収穫が半分も満たなくなったために藩士に半知借上げ(俸給の半分しか出さないこと)をしてもまだ足りずに、あちらこちらで貧窮が続いていた。藩主は、そうした藩の窮乏をよそに公儀の役を次々と引受け、藩は破綻寸前にまで追い込まれていたのである。黒岩藩の御家人たちは、武具や刀まで質入して窮乏をしのいでいたし、領民には一揆の気配も濃厚になっていた。
日向杢兵衛は、こうした藩の危機を救うために、まず、公儀の役を次々と引き受ける藩主の交代を上訴したのである。しかし、それが不忠不義であるとして免職され、長預かりの身となったのである。そのため、彼を不忠不義者として黒岩藩の血気盛んな若者たちが誅せんとして襲ってくる。鬼悠市は、そうした襲来者から日向杢兵衛を守らなければならなくなるのである。鬼悠市は、屈指の剣の遣い手でもあった。
人望の厚かった日向杢兵衛が免職され、藩政から排斥されていった影には、黒岩藩の城代家老と本藩である松ケ岡藩の家老の結託による米札の売買に絡んだ私腹を肥やす陰謀が渦巻いていたことが次第に明らかになっていく。黒岩藩では祿米の支給の代わりに米札を出していたが、この米札は額面の三分の一でしか米と引替できず、しかもこの米札を半値で買い取ることで、その差額を懐に入れようとしたのである。この米札のからくりを、鬼悠市は、零落したが平然と生きている米相場師に依頼して探り出していくのである。この零落した米相場師の姿もなかなか魅力的である。
こうした中で、黒岩藩の城代家老一派から送り込まれてくる刺客との死闘を繰り返しながら、日向杢兵衛を護っていくが、藩の上層部の意向で、日向杢兵衛は捕らえられ、奏者番であった加納正右衛門の改易も行われてしなう事態となってしまう。
だが、黒岩藩には「かげろう飛脚」と呼ばれる内密の連絡網があり、日向杢兵衛はその「かげろう飛脚」を使って藩政の改革派と連絡を取っており、いよいよの行動を起こす手はずを整えていた。その「かげろう飛脚」とは思いもかけない人物で、その連絡方法も思いがけないものであったが、鬼悠市は、「かげろう飛脚」と共に、日向杢兵衛の意志を伝えるために雪山の中を奔走していくのである。
日向杢兵衛がとっていた秘策とは、領民の苦渋を知る郡代や家中の御家人すべてが死装束をして登城し、藩主や城代家老の非を改めるというものであった。そして、これが成功して、黒岩藩の一連の騒動が終わり、日向杢兵衛が帰藩し、鬼悠市の日常が戻るのである。
こうした筋立が、一つ一つの具体的な出来事を通して描き出され、作者の構成のうまさと手法が見事に織り込まれて読み易い展開になっている。
ただ、個人的な好みをいえば、不遇の状態に置かれても泰然と生きる日向杢兵衛の姿や、彼と接して感化を受けていく少年柿太郎の姿がもう少し描かれて、そこに人格の交流というものが醸し出されていくならば、鬼悠市がこの事件に加担していく姿も、もっと胸を打つのではないかと思ったりした。
しかし、よく考え抜かれた作品で、面白く読め、ちょっと調べてみたら、これはシリーズ化されているようで、機会があればそれを読んでみたいと思うような作品であった。