2012年6月8日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集17・18 花と火の帝 上下』(2)


 九州の南部は梅雨入りしたらしいが、こちらは今のところ晴れ間が覗いて、気温が少し高くなっている。陽射しは、もう、夏の陽射しと言っていい。今朝は何故か早く目覚めてしまい、浅い眠りの中で見る夢のつまらなさを反芻したりしていた。政治も経済もひどい有様になって、「人」が忘れられたような社会が構築されていることがひどく気になっているのか、荒廃した世界で尖った人々に囲まれている夢だった。

 それはともかく、隆慶一郎『隆慶一郎全集1718 花と火の帝 上下』(2010年 新潮社)の続きであるが、大阪冬の陣(1614年 慶長19年)の後、徳川側の一方的な主導で豊臣側との和議が成立していく。しかし、女帝ともいうべき「淀」という気が勝った傲慢な女性の下に置かれた豊臣側に家康と対抗できる人物はなく、家康は着々と天下掌握の道を進めていく。この時の家康に豊臣家を壊滅させる意志はなかったという解釈も面白い解釈である。「淀」は絶世の美人と言われたお市の方の娘であり、徳川秀忠の妻になっている「お江」の妹であるが、「お江」にしろ、「淀」にしろ、視野の狭さと自己中心的な気の強さは天下一品だったような気もする。

 この時期、朝廷は全く無力である。後水尾天皇はその無力さに歯噛みをしていくが、情勢は一方的に徳川方に傾き、家康また朝廷の権威を弱めていく工作も着々と進めていく。家康は後水尾天皇に「天皇の隠密」がいることに気づき、その対策のためにひとりの密偵を送り込むことにするのである。この辺の展開から、「天皇の隠密」としての岩介と猿飛佐助、そして徳川側の密偵との陰の展開がなされていくが、家康から送られた密偵も特殊な能力を持ち、その能力の由来が綴られるなど、エンターティメント性が抜群に発揮されていく。

 家康から「天皇の隠密」を探り出すために遣わされた密偵は、一見したところ、ぶよぶよと丸く太り、武芸に練達している風は決してなく、目立たずにひっそりとしている朝比奈兵左衛門という男で、京都所司代の板倉勝重の配下にいる者だった。この朝倉兵左衛門という人物の設定も実に面白い。

 朝比奈兵左衛門は、聖護院派の修験者を父にもち、父親は厳しい修行を積んで様々な密教の秘儀に達した人物だったが、獲得した術に傲慢になり、武家の娘をさらって一子を生ませたことが発覚して僧籍を追われ、諸国を回る中で、子に密教秘儀を伝授していったのである。少年の頃から厳しい修行の中で育てられた兵左衛門は、やがて、天皇に奉納する魚を奪ってしまい、息子が帝に逆らう行為をしてしまったことで、犯すべからざることを犯したと自らの腹を指して刺して山上から飛び降りてしまうのである。兵左衛門八歳の時である。その後、戦国の世に不思議な術者として著名だった果心居士に見出されて、彼のしたで修行を積み、数々の秘儀を身につけていたのである。果心居士は伝説上の人物である。

 岩介は、「天皇の隠密」の正体を暴こうとするこの朝比奈兵左衛門と精神による戦いを開始し、彼を「天皇の隠密」として自分の味方につけることに成功していく。そのくだりも優れた能力をもつ者同士の戦いが展開されるものとなっているが、「不動金縛りの術」や「記憶術」、「観の術」、あるいは「呪術」といった、いわば「超能力」の戦いとして描かれる。空想の産物なのだが、妙にリアリティーがあるところが作者の器量の大きさでもあるだろう。

 こうして、「天皇の隠密」が出来上がっていく。真田の忍びである猿飛佐助も、大坂夏の陣の後始末をして生き残り、その時に彼の弟子として優れた能力を持つ霧隠才蔵も加わるという、まさに、エンターティメントの世界が広がっていく展開になる。その際、作者は霧隠才蔵を美貌のキリシタンとして登場させ、物語の幅と深みを広げている。霧隠才蔵もまた超人的な能力を身につけていた人間であり、しかも、愛する女性に殉じてキリシタンとなった人物だとするのである。

 物語の彩をなす役者が岩介を中心にして出揃っていく。岩介、朝比奈兵左衛門、猿飛佐助、そして霧隠才蔵といずれも卓越した能力を身につけた人物たちである。彼らが後水尾天皇を護り、徳川側との戦いを展開していく筋立てへと物語は進んでいく。

 大坂夏の陣(1614年 慶長19年)が終わってすぐに、徳川幕府は朝廷を法制下に置く前代未聞の「禁中並公家諸法度」を制定した(1615年 慶長20年)。それまで天皇は、いわば治外法権的存在であり、あらゆる法を超越した存在だったが、ここで初めて幕府が管轄する法の下に置かれることになったのである。朝廷はこの事態に騒然となるが、もはや成す術はなかった。後水尾天皇は歯噛みをする思いでこれを受け取らざるを得なかったのである。加えて、徳川秀忠の娘である和子の皇室への輿入れの話が進んでいく。家康は天皇家の中に徳川の血を入れ、天皇の外戚となることで支配体制を磐石なものにしようと図るのである。元号も、徳川幕府によって、一応は後水尾天皇の即位という名目ではあったが、この年に慶長から元和に変えられ、天皇の権威は失墜したままになっていく。

 この事態の中で、「天皇の隠密」は、天皇家にこのような攻撃をかけてくる徳川家康に、それがいかに恐れ多いことかを知らしめるために、猿飛佐助と霧隠才蔵の手で鷹狩り中の家康を急襲し、恐れを抱かせる作戦に出る。また、後水尾天皇も殿に籠って秘伝の呪詛を行う。この辺の展開は、まさに歴史の狭間を利用したほとんど漫画的な展開なのだが、それが真に巧妙に面白く展開されている。

 家康は自分に襲った一連の出来事が朝廷側の仕組んだことであることを察知して、二代目将軍徳川秀忠に「天皇の隠密」を誅することを命じ、同じように「天皇の隠密」の恐ろしさに震えた徳川秀忠は、柳生宗矩にこれを撃つことを命じる。事態を察知した岩介はそのことを後水尾天皇に告げるが、後水尾天皇は決して殺してはならないと命じる。天皇の名で人を殺すことはあり得ないし、またそれを行うこともないからである。そこで、迫り来る柳生の軍団を相手に、岩介は「呪術」を用いて対抗し、猿飛佐助と霧隠才蔵の手も借りて、これを無力化していくのである。そして、家康は死を迎える。無力化された柳生宗矩も家康の死によって軍団を引き上げ、かくして一時的な休戦状態となるのである。

 しかし、狷介な徳川秀忠がこのままにしておくわけはない。娘の和子の天皇家への輿入れは家康の死によって一時延期されたが、徳川の朝廷乗っ取り策ともいえる和子の輿入れの話は進み、いわば既成事実となっていくし、「天皇の隠密」に恐怖を抱いた秀忠がこれを放っておくはずかない。そこから下巻が始まっていく。

 「呪詛」による戦いというのは、ほとんど空想の世界の展開だが、作者は天皇家の力をこうした精神的・神秘的なものであると設定しており(それは、ある意味で歴史的にも言えることであるが)、その展開なしには「天皇の権威」を語ることができないと考えているからだろう。天皇家に代々伝わっている「大嘗祭」をはじめとする秘儀は、まぎれもなくこうした神秘的な要素で出来ているからである。

 ともあれ、下巻の展開は次回に記すことにする

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