2012年6月20日水曜日

葉室麟『刀伊入寇 藤原隆家の闘い』(1)


 横浜を暴風圏に巻き込んだ台風4号が過ぎ去って、飛散した街路樹の枝葉を片づけたりしていたが、昨夜はゴーと唸りを上げる風にあおられて建物が揺れる中で、葉室麟『刀伊入寇(といにゅうこう) 藤原隆家の闘い』(2011年 実業之日本社)を読んでいた。これは、表題の通り、平安期の公家であった藤原隆家(9781044年)の姿を描いたものである。

 実直な人間の姿を描き続ける葉室麟がなぜ平安期の公家に関心を持ったのだろうとか思いながら読み始めたわけだが、藤原隆家が、政治権力の争奪のための権謀術策と閨房政治が渦巻いた平安期の公家の中で、「こころたましい(気概)」をもって生き抜いた人物であったことが大きな要素となっているのかもしれないと思ったりした。

 藤原隆家は、一条天皇(在位:9861011年)の摂政・関白を務めた藤原道隆の四男(高階貴子-たかしなのきし-を母とする子では次男)として生まれ、11歳で元服して、長徳元年(995年)、17歳で権中納言となった公家である。

 彼の生母の高階貴子は、末流貴族の出ながらも和歌や詩文にたけ、「女房三十六歌仙」に数えられるほどの人で、「拾遺和歌集」や「後拾遺和歌集」、あるいは「新古今和歌集」にもその作品が残されており、「小倉百人一首」に「忘しの行末まてはかたけれは けふをかきりの命ともかな」という「新古今和歌集」の恋歌がとられているほどで、息子の藤原隆家も「拾遺和歌集」に2首、「新古今和歌集」に1首の勅撰歌人であるばかりでなく、漢詩にも長けていた教養の深い人であった。

 しかし、藤原隆家は、それだけではなく、当時の公家としては珍しく武にも長け、「天下のさがら者(荒くれ者)」とさえ呼ばれていた。圧巻は、わずか2年余で天皇位を退いて法皇となった花山院(花山天皇)に対して矢を射かけるという出来事を起こしたことで、「長徳の変」と呼ばれるこの事件で、花山法皇を恐怖に震え上がらせたと言われている。『百錬抄』には、この時、従者の童子二人の首を切り落として持ち帰ったと記されている。なお、この事件によって、藤原隆家は出雲に、兄の藤原伊周(ふじわらのこれちか)は大宰府に左遷されている。

 藤原隆家については、清少納言の『枕草子』や『大鏡』、『古今著聞集』、その他の文書などにも多彩な逸話が残されているが、剛直で、気骨のある人物であり、もし隆家が政治を補佐するようになれば天下はうまく治まるだろうと言われるほどの期待をかけられるほどであったが、彼自身は政治的野望とは無縁の人であった。

 長く関白・摂政を務め、中関白と称した父の藤原道隆が死去した後、関白位をめぐる争いがあり、道隆の弟の道兼が関白となったが、病弱で、わずか7日で病没してしまい、さらにその弟(四男、もしくは五男といわれる)の藤原道長が道隆の子の藤原伊周と争って左大臣から摂政へとなっていった。しかし、藤原道長は、中関白家の伊周や隆家をことごとく排斥していった。

 この時期に、道隆の父親の兼家の策略によってによって、わずか2年余で出家させられて天皇位を譲らなければならなかった花山法皇は、かねてより中関白家に対して恨みを抱いていたが、道隆の死後にその子である伊周や隆家に対して陰湿な「いじめ」を開始するのである。花山法皇は、出家後に幾多の修行を積んで法力を身につけていたと言われるが、当時、藤原伊周が通っていた藤原為光の娘の「三の君」(三女)と同じ屋敷に住む「四の君」(四女)の元に通い始め、伊周に「三の君」を寝取ったように思わせて嫉妬心を起こさせ、そのことを伊周が弟の隆家に相談したところ、かねてからの花山法皇の陰湿な「いじめ」を腹に据えかねていた隆家が従者を率いて法皇を襲い、矢を法皇の袖に射かけたのである。

 こうした当時の政争や平安期の朝廷と公家の姿を描きながら、作者は藤原隆家の「直き心」が「荒ぶる魂」として表出していく姿を描き、しかも、当時では珍しく国外(中国や朝鮮)に目を向けていく姿を描き出していく。日本は、894年の菅原道真の建議によって遣唐使の派遣が停止され、以後正式な中国や朝鮮との交流は行われていないが、交流が全くなかったわけではないし、満州民族の祖と言われる女真族によって1019年3月に壱岐・対馬地方が襲われて島民の多くが連れ去られるという事件も起こったりしている。この時に襲ってきたのを「刀伊(とい)」と呼び、1919年4月に大宰権帥となっていた藤原隆家が撃退したのである。

 作者は、この藤原隆家が「刀伊」の襲撃を撃退できた背後に、彼が早くから黄河下流域の満州から朝鮮半島北部まで栄えた渤海国(698926年)の末裔と交わりをもち、その娘「瑠璃」との交情をもっていたことがあったと展開する。そして、その交情が隆家の「武」と「瑠璃」の「武」の交情でもあったと物語るのである。

 こうした展開の中でも、当時の宮中にいた二人の才女、清少納言と紫式部の関係などにも触れられていき、「潔さ」、「何ものも恐れない真っ直ぐな心」、「人間としての気高さと誇り」を描いていくのである。藤原隆家は、中国本土における契丹族の動向や女真族の動向を知り、国の危機を覚えて、自ら大宰権帥となって大宰府に趣いていく。花山法皇や藤原道長との軋轢はあるが、そうした京の政権争いよりも、「刀伊」との戦いに備えることを選択していくのである。時の三条天皇が眼病を患ったこともあり、摂政藤原道長はますます自分の権勢を安定させるために、自分の娘と三条天皇の間に生まれた敦成親王への譲位を迫るなどの策謀を進めており、藤原隆家が大宰権帥を拝命するまでにも「いやがらせ」が起こったりしていくが、隆家は大宰権帥として大宰府に赴く。

 このあとの展開は、また、次回に記すことにする。台風は去ったが、次の台風5号の接近もあるのか、今日は風が強い。今のうちに外の用事を済ませておこうと思う。

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