変わらない日常の中で、今年の梅雨はことのほか肌寒く感じている。気にかかっている仕事があって、それがちっとも進まないままで日が暮れてしまうが、宵を歩くときに、思わず寒気を感じたりする。
そいう中で、温かい気持ちで書かれた西條奈加『善人長屋』(2010年 新潮社)を面白く読んだ。この作者の作品は、以前、『烏金』(2007年 光文社)を読んで、柔らかな文章の中で綴られる人の情がしみじみとして、物語の展開も味のあるものだったので、他の作品も読んでみたいと思っていた。何か印象として、派手さや奢りもなく、地道に、丁寧に物語を紡がれている気がしている。
『善人長屋』も柔らかく丁寧に物語が進んで行く江戸下町人情噺だが、主な登場人物は、窩主買(けいずかい-盗品などを売買すること)の質屋、盗っ人や詐欺師に情報を売る情報屋、掏摸、美人局をしている兄弟、偽証文作りの浪人、詐欺師の夫妻、盗っ人などといったそれぞれの裏稼業をもつ人物たちであり、彼らがそれぞれに悪業に手を染めていくようになる事情も織り込まれながら物語が展開されていく。「善人長屋」ではなく、本当は「悪人長屋」なのだが、この「悪人」たちがまた、すこぶるつきの善人なのである。それが柔らかくユーモアを交えながら展開されていく。
深川山本町にある質屋の「千鳥屋」の主、儀右衛門は祖父以来の窩主買に手を染めながら、通称「善人長屋」と呼ばれる裏店の差配(管理人)もしている。この長屋は、人々から「情に厚い善人が住む善人長屋」と呼ばれているが、実はそれぞれに裏稼業をもつ「悪人長屋」だった。儀右衛門には十六歳になる一人娘の「お縫い」がいて、物語はこの「お縫い」を中心にして進んで行くが、住人たちがもつそれぞれの裏稼業の特技を生かして助け合いながら「人助け」をしていくのである。彼らはそれぞれの事情で悪業に手を染めているが、「盗っ人にも三分の理」で、それぞれに矜持をもち、裏の顔が後ろめたいから、表の顔で行いが良い方に向かうという人物たちであった。そして、それぞれに長屋の差配でもある儀右衛門に信服し、深い信頼を寄せている。
この長屋に、ちょっとした間違いから裏稼業などもたない全くの善人である錠前職人の加助という人物が住むことになってしまう。加助は、火事で妻子を失い、人生を諦めかけているときに、深川の富岡八幡にお参りに来て、人間違いでこの長屋に住むようになったのだが、困っている者には声をかけ、傷ついた者には治療をし、行き暮れている者には自分の部屋を提供するという底抜けの善人で、この加助が次々と困っている者を長屋に連れてきては、儀右衛門を初めとする長屋の連中によって助けられていくのである。
その長屋の店子で掏摸の安太郎が、昔の掏摸仲間で小さな塩物屋を営んでいる男を連れて儀右衛門の所に相談にやってくる。安太郎は掏摸仲間を脱けるときに儀右衛門の世話になり、それ以来、小間物商いと小さな掏摸稼業をしながらこの長屋の店子として暮らしていた。彼が連れてきた塩物屋は、彼の店に塩物を卸す大店の乾物屋から娘の縁談話が持ちこまれて話がまとまったが、娘には惚れた男がいて、その子を身ごもっているという。縁談を破談にすると商品が卸されなくなるだけでなく、店ごと潰されかねないが、かといって身ごもった娘と相手の男は、生まれること三人で暮らすという。問題は乾物屋をどう諦めさせるかということで、儀右衛門は一計を案じる。
それは、長屋で振り売りをしながら美人局をしている兄弟の手を借りるということだった。この兄弟は少年の頃に蔭間茶屋(男娼窟)に売られていたが、兄が弟を連れて逃げ出し、儀右衛門に助けられた兄弟で、弟が美形の女性に化けて美人局をしていたのである。その美形に化けた弟が縁談相手である乾物屋の若旦那を誘惑して、向こうから破談にさせるという手である。そして、見事にこれが上手くいくのである。
こんなふうにして話が展開されていくのだが、人の良い加助が簪を盗っ人に取られて途方に暮れている娘を連れて、助けて欲しいと言ってくる。娘はお店のお嬢さんのこれ見よがしの高価な簪を黙って挿して使いに出たところ、数人の男に囲まれて簪を取られ、途方に暮れていた。仕方なしに儀右衛門たちはその娘の簪を取り返す算段をするが、盗んだ男は筆屋の後家と筆屋の主を殺してそこに居座っており、簪は筆屋の後家の物になったが、どこに隠しているかわからない。そこで、儀右衛門の娘の「お縫い」と妻の「お俊」と共に一芝居打って、後家が簪を隠しているところを見つけ出し、簪を取り戻していくのである。このことにも長屋の住人たちの裏稼業が使われていく。
さらに代書屋の裏で偽証文作りなどをしている訳ありの浪人が人殺しの疑いで番所に引っ張られ、長屋中が困惑するほど加助が無実を叫んで番屋に日参する中で、役人の目が長屋に向くことを案じた儀右衛門は、長屋の住人や娘の手を借りながら真犯人を見つけ出すという出来事が起こったり、偽紅を使った詐欺にあった者を加助が長屋に連れてきて、それを同じ詐欺師である長屋の夫婦の手を借りて助けていったり、娘をひどい目に遭わされた老いた火事師を助けたり、死にかけている蔭間の恋の最後の願いを聞いていったり、加助が知らずに連れ込んでくる問題を抱えた人々を助けていくのである。
長屋の連中は差配の儀右衛門に全幅の信頼を置き、儀右衛門の頼みを断ることはなく、娘の「お縫い」は加助の善行を罪滅ぼしと思いつつも、父の儀右衛門や長屋の人々の「情」に触れていくのである。そして、最後に、火事で死んだと思っていた加助の妻と子が生きており、実は錠前師の加助の腕を見込んで開かずの蔵といわれている蔵の仕掛け錠前を外すために、押し込み強盗をする手ひどい強盗が背後にいて、加助の妻が彼の妻となったのもそれをさせるためであったと言うことがわかっていく。彼のこと思われていた娘も、実はその押し込み強盗をする男の子であった。
「お縫い」は、妻子を捜し続ける加助を何とか助けたいと思って、その事情を知っていき、儀右衛門たちも事の真相を知っていく。そして、押し込み強盗の手から加助の妻子を助け出すが、加助の妻は真実を加助に話し、加助のもとを去る。加助は、「お前たちが幸せならばそれでいい」と言い、長屋に残ることにして、儀右衛門はその加助もまるごと抱え込む決心をしていくのである。
「善人長屋」というのは、実は儀右衛門が問題を抱えている人間たちをまるごと抱え込んだ長屋である。彼らは「信頼と情」で繋がっており、それが失われることがない。娘の「お縫い」は、加助がこの長屋に来て様々な問題を持ちこんでは解決していくことの中で、そのことを知っていくのである。
物語は、どれも柔らかく丁寧で、登場人物もひとりひとり丁寧に描かれていて、どこかしみじみとしたものが残る作品で、わたしは、作者の姿勢に拍手を贈りたい。
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