2012年6月1日金曜日

和田竜『のぼうの城』


 「水無月」と呼ばれる六月に入ってしまった。六月が「水無月」と呼ばれるのは諸説があるが、旧暦の「六月」と異なっているので、現在では、まあ「水の月」というのがいいような気がする。「無」は「の」という意味の連帯副詞でもある。ちなみに英語の「June」は、ローマ神話のジュピター(ユピテル)の妻「ジュノー(ユノ)から取られたもので、彼女が結婚生活の守護神だったことから、この月に結婚をすると幸せになると言われたりもしている。「神頼み」したくなるのだろう。

 その「水の月」の最初に、先に大きな感動を与えられながら読んだ風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』と同じ舞台で、「水の城」とか「浮き城」とか呼ばれた「忍(おす)城」の攻防を描き、その攻防の中心人物であった独特の魅力を持つ成田長親(なりた ながちか)を描いた和田竜『のぼうの城』(2007年 小学館)を再び読んで、また違う感動を与えられた。

 和田竜『のぼうの城』は、2007年に小説としてまとめられているが、2003年に「忍ぶの城」という表題で脚本となっていたもので、風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』の初版が2000年だから、おそらく、その辺が踏まえられて書かれたものであろう。

 しかし、成田長親という人の人物像を「でくのぼう」の「のぼう様」と捉えて、より鮮明に浮かび上がらせたり、「忍城」を水攻めにして失敗した石田三成の姿が、知略だけでなく意地や情熱を持つものとして描き出されたりしているし、「忍城」で成田長親と共に戦った武将たちの個性が明瞭に出されたりして、「なるほど映像を意識した優れた脚本」を思わせるもので、非常に読みやすいものになっている。

 それにしても、成田長親という人は、真に胸を打つ人であったと改めて思う。この「忍城」の攻防の詳細は、先の風野真知雄『水の城、いまだ落城せず』で触れたので、ここでは触れないが、豊臣秀吉がいよいよ小田原の北条家を攻めることを決めたことが伝えられ、「忍城」で北条側につくのか、それとも秀吉に降るかという決断が迫られ、そのための軍議が開かれた時、藩主をはじめ主だった重臣たちが秀吉の大軍にはとても勝ち目がないので秀吉に降ることを決する空気の中で、長親がのんびりと「北条家にも関白にもつかず、今と同じように皆暮らすということはできんかな」と言い出す場面が描かれている(54ページ)。

 これが成田長親という人の真髄だろうと思う。吹けば飛ぶような小さな城で、能力も力もない。しかし、自主独立の心根をしっかりもって日々の暮らしを大切にしていく。それが成田長親という人であったと改めて思うのである。不器用で馬にも乗れない、武技も駄目。ただのんきに暮らしている。しかし、心根だけはしっかり持っている。こういう人は他にないかもしれない。

 藩主の成田氏長は、一応は北条家の要請に応えて小田原城の籠城戦に出兵するが、はじめから秀吉の軍門に降ることを決していたし、いよいよ石田三成が率いる2万以上の大軍が「忍城」に押し寄せてきたとき、「忍城」にいたのはその十分の一にも満たない者たちであり、全ての者が降伏を決める中で、降伏を勧めに来た石田三成側の使者の長束正家のあまりの傲慢高飛車な態度や戦略的な脅し、「忍城」の甲斐姫を秀吉に差し出せと言ったことで、ひとり長親だけが「戦う」と言い出すのである。

 「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ」(142ページ)と言い出すのである。このあたりのくだりを作者は次のように記す。

 「強き者が強さを呼んで果てしなく強さを増していく一方で、弱き者は際限なく虐げられ、踏みつけにされ、一片の誇りを持つことさえ許されない。小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。ならば、無能で、人が良く、愚直なだけが取り柄の者は、踏み台となったままで死ねというのか。
 『それが世の習いと申すなら、このわしは許さん』
 長親は決然といい放った。その瞬間、成田家家臣団は雷に打たれたごとく一斉に武者面をあげ、戦士の目をぎらりと輝かせた。
 ・・・・
 なんの武技もできず聡明さのかけらも感じさせないこの大男が、余人が捨てたただひとつのものを持ち続けていた。
 (・・・この男は、異常なまでに誇り高いのだ)」(142ページ)

 こうして「忍城」側は、成田長親を城代代理として、わずかな手勢で石田三成の大軍と戦うことになるのである。このとき、「忍城」には、百姓や町人、女子どもまで入れて3740人、このうち15歳以下の子どもと女子が1113人で戦力となるのは2627人に過ぎず、このうち百姓がほとんどであり、しかも老齢者が600人以上あり、最も働き盛りの武者たちのほとんどは小田原城へといっていた。これが23000人ほど(後には5万以上)の大軍と戦陣を開いたのである。

 そして、地の利を活かし、知恵を使い、押し寄せる大軍を見事に退け、初戦に勝利するのである。城への八つの出入り口の戦いすべてに深田や森を利用し、少ない兵器を十分に生かし、いわば長親によって高められた士気だけで戦ったようなものである。この攻防戦はよく調べられた上で物語性が高められて描かれている。

 それはともかく、「忍城」側が城に籠っての籠城戦のために近郊の百姓たちを集める際に、百姓たちは、どうせ負け戦になるから籠城は断ると言っていたのだが、戦いを決めたのが「のぼう様」であることを知ると、一気に「忍城」にこもることを承諾したくだりが次のように表されている。

 「ならば何様が戦をしようなどと仰せになられた」
 「長親だ」
 丹波(「忍城」を守る武将で、勇猛さではよく知られていた)がそう怒鳴り返すと、たへえ(村長)は虚をつかれたような顔をした。百姓らも同様である。
 わっ。
 直後、百姓屋敷は爆笑に包まれた。
 こんなうまいシャレはねえや、とでもいうように笑死寸前で身体をけいれんさせながら笑いに笑った。ちよ(たへえの娘)も笑った。子供のちどり(ちよの幼い娘)でさえケラケラと笑っている。
 「しょうがねえなあ、あの仁も」
 たへえは、ひいひい言いながら笑いを飲み込み涙を拭くと、ようやく言葉を発した。
 「のぼう様が戦するってえならよう、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしようもあんめえよ。なあ皆」
 そうたへえが一同に呼びかけると、皆、「ああ」とか「ったくよう」などと、とうてい領主の徴発に応じる百姓とは思えない態度で返している。
 ・・・・
 恐ろしい領主に引きづられて城に行くのでもなければ、領民を慰撫する物分りのいい領主を慕って入場するのでもない。それらはいずれもが下から上を仰ぎみる思考である。彼らを突き動かしたのは、そんな従属から発する思考ではなかった。(163164頁)

 これが「忍城」を一丸とさせた成田長親という人であったのである。「忍城」が石田三成の言語を絶するような水攻めにあった時に、10万人以上が昼夜を問わず労働に駆られて築き上げられた強大な堤防によって「忍城」が水の中に沈みこもうとした時、成田長親は小舟を出させて水上で田楽踊りをするということをしているが、その時、石田三成が命じて鉄砲を撃たれて負傷する。

 城内では、「のぼう様」が撃たれたということで、すべてが死兵となって決することになっていくのである。それほど人々は「のぼう様」が好きだったのである。そして、石田堤は決壊する。その決壊に手を貸した百姓が捕らえられた時、彼はこう言う。「のぼうを撃たれ、田を駄目にされた百姓が、黙っておると思うたか。ざまあみやがれ」(285ページ)。

 結局、関東にあったすべての北条家の支城が滅び、小田原城が滅んでも、「忍城」は落城することはなかった。それは、ひとりひとりの自由な心意気が成田長親という人物を中心に発揮されたからであり、彼自身が、そうした自由なあり方を尊重したからである。「忍城」の開城後の石田三成との交渉においても、成田長親は怯むことなくそれを貫徹し、人々が生きていくことを最上のこととして貫き通す。

 和田竜『のぼうの城』は、こういう成田長親の人物像をくっきり浮かび上がらせて、小手先の力や能力はないが、そんなものがないことすら平然として、しかし、本当に大事なことだけを大事にし、「明るく、暖かく、優しく、そして柔らかく」、しかも誇り高く生きていく人物として描き出しているのである。戦国の世に、こういう人がいたことを改めて思い、泰然と、坦々と生きることを改めて考えさせられる作品だった。

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