昨日は午後から晴れて暑いほどだったが、今日も晴れ間が見えている。しかし、天気は西より下り、台風の接近もあって西日本は雨が降っているらしい。
昨日、M.ウェーバーの『古代ユダヤ教』を基にしてキリスト教と近代世界の切り口を見せた橋爪大三郎氏の『ふしぎなキリスト教』の講演の主催者として池袋まで出かけ、橋爪ご夫妻の礼儀正しい姿に触れる機会があったが、礼儀正しく謙遜であることは大事なことだと改めて思ったりした。
その往復の電車の中で、半分眠りこけながらではあるが、南原幹雄『闇の麝香猫』(1993年 角川書店)を面白く読んだ。これは、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて行われた、いわゆる「安政の大獄」事件下にあって、厳しい弾圧の嵐が吹き荒れた京都を舞台に、幕府側の弾圧に対抗したひとりの公家を主人公にした痛快時代小説で、弾圧の先鋒だった長野主膳(1815-1862年)と京都所司代であった酒井忠義(1813-1873年)を翻弄させながら、尊皇攘夷の志士たちを京都から逃がしていくという筋立てになっている。
物語の構成や展開が、どこか大佛次郎の『鞍馬天狗』を思わせるものがあるのだが、「麝香猫」と名乗る正体不明の人物が、大獄の危機下にあった西郷隆盛(吉之助)や清水寺の住職であった月照らを司直の手から逃れさせるというもので、「安政の大獄」を指揮した長野主膳との対決を面白く描き出している。
長野主膳は、もともと本居宣長の国学を学んだ人物で、天保12年(1841年)に近江で私塾を開き、この時に、第11代近江彦根藩主井伊直中の十四男で部屋住みであった井伊直弼と出会い、井伊直弼が第15代近江彦根藩主となるにしたがって藩校の教師となり、直弼の藩政改革に協力し、これによって井伊直弼は名君の誉れを得るようになって、幕府政治に参画するようになると井伊直弼の懐刀として存在感を増していった人物である。やがて、井伊直弼が、第13代将軍徳川家定の継嗣問題から攘夷派であった水戸の徳川斉昭などと対立し、その溝が深まる中で安政5年(1858年)に大老に就任して、日米修好通商条約を天皇の勅許を得られぬままに結んでいく際、反対する尊皇攘夷派の人々や公家を押さえ込んでいくのである。
史上に例を見ないほどの思想大弾圧事件となった「安政の大獄」は、もともと、幕府側についていた九条家の家臣であった島田左近などを通じて朝廷内部の動向を探っていた長野主膳が、尊皇攘夷派であった水戸藩士などの「悪謀」を過度に井伊直弼に伝えたことが原因だと言われ、孝明天皇から日米修好通商条約を天皇の許可なく締結したことに対する叱責の書が直接水戸藩に送られたこと(戊午の密勅・・・幕府の権威を無視し、これによって水戸藩が井伊直弼らの幕閣の責任を問うことができる)の首謀者を小浜藩の儒学者であった梅田雲浜と断じて、京都所司代であった酒井忠義に命じて捕縛させたことから始まっている。
長野主膳は、その後も尊皇攘夷派の志士たちの処罰を進言し、自ら京都で井伊直弼から送られた老中の間辺詮勝(まなべ あきかつ)と共に志士や公家を粛清していくのである。
本書は、信濃の大名主であった近藤茂左衛門と梅田雲浜の捕縛から始まり、尊皇攘夷派の志士や公家を一掃しようとする長野主膳と、これを護り、弾圧の嵐が吹き荒れる京都から逃れさせようとする「麝香猫」の戦いに展開していくのである。
作者が「麝香猫」として主人公に据えたのは、弾圧によって関白職を追われた鷹司政通の次男で鷹司惟在(たかつかさ これあり)という人物で、高司政通(1789-1868年)は、実際に主だった子どもだけで五男六女を設け、さらに養子も何人かいるが、惟在はおそらく作者の創作上の人物だろうと思う。
作者が描く高司惟在は、詩学や文学に加えて公家には珍しく武道にまで精進していたが、ある時から蹴鞠や当扇、舞や音曲、香道といった遊びに熱中し、特に蹴鞠に興じ、それがあまりにひどすぎて大納言の官職まで投げ打って、人々から蹴鞠大納言と揶揄されるほどの、箸にも棒にもかからない頼りない人間になっていった人物である。鷹揚で懐の広い人物だが、ただ遊んでばかりいる人間で、親兄弟はもちろん、美貌の妻からも愛想を尽かされている人物である。
その惟在が、そうした姿を隠れ蓑にして、「麝香猫」と名乗り、尊王攘夷派の有為な人々を弾圧下の京都から逃がしていく活躍を展開するのである。捕縛の手が差し伸べられていた西郷吉之助(西郷隆盛)と月照を鹿児島に逃し(西郷隆盛と月照は薩摩まで逃げるが、状勢が変わった薩摩で捕縛されそうになり、錦江湾で入水自殺を行い、月照は一命を落としてしまい、西郷隆盛はかろうじて助かるが薩摩藩の手によって捕縛される)、次いで、月照の弟で清水寺首座を継いだ信海を長州に逃がしていくのである。
この「麝香猫」こと高司惟在が長野主膳の裏をかき、彼を翻弄させながら志士たちを逃がしていく過程が面白い活劇風に描かれ、颯爽とした活躍振りが展開されていくのである。物語は、高司惟在と彼の真の姿を知った美貌の妻、そして信海が無事に長州へ向けて船出して行くところで終わる。ストーリーテラーとしての南原幹雄の活劇の面白さが十分に楽しめる作品だった。
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