2012年8月27日月曜日

池端洋介『元禄畳奉行秘聞 幼君暗殺事件』


 今年はとりわけ厳しい残暑が続いていたが、今日は沖縄を通過している台風の影響で風が強い。このところ夜になるとしきりにコオロギが鳴き始めた。先日訪れた山の上ではススキが風に揺れていた。「目にはさやかに見えねども」だろう。「秋」というには、まだ早すぎるが、季節が秋に向かっているのをほのかに感じ始めている。

 先日読んだ静山社文庫版の池端洋介『御畳奉行秘録 吉宗の陰謀』(2009年 静山社文庫)よりも少し前に出された大和書房文庫版の『元禄畳奉行秘聞 幼君暗殺事件』(2009年 大和書房文庫)を、これも面白く読んだ。ただ、どちらの出版社の文庫版にも「シリーズ第一弾」とあり混乱を招きやすいのが残念だが、本書のほうがより若い主人公の姿を描いたもので、後に尾張藩御畳奉行となる主人公の朝日文左衛門が、まだ御畳奉行ではなく、父親の引退によって家督を相続するために「お目見え(藩主との面会)」に日参しても、なかなか「お目見え」とならずに日々を過ごしていく姿が描かれている。

 物語は、朝日文左衛門が、藩主との「お目見え」によって正式な家督相続となるために名古屋城に日参しているうちに、三代藩主となった徳川綱誠の尾張への帰国に際して遅れて到着した荷物の運び役と間違えられて、城内奥まで連れて行かれ、そこで迷子になってしまうところから始まっていく。

 初めて入った城内で迷子になった朝日文左衛門は、右も左もわからぬ城中深く紛れ込んでしまい、「曲者だ!」の声に驚いて逃げ惑うはめに陥り、ついに縁の下に隠れる。だが、その縁の下に幼い子どもがいて、爺とお供の侍が突然殺され、自分も殺されかけて隠れていると言う。彼はその幼い子どもの口調や状況などから、その子が藩の重臣の子ではないかと思うが、それが誰かはわからない。しかし、その子の危機を救うために、自分が抱えていた挟み箱(荷物を入れて担ぐもの)にその子を隠して無事に城から脱出するのである。

 その子は、自分の名前が「藪太郎」であること以外に何も知らないというし、やむを得ずに朝日文左衛門はその子を自宅に連れて帰り面倒を見始める。その時、朝日文左衛門の家では、惚れてようやくにして嫁として向かえたばかりのおとなしく控えめな文左衛門の妻「お慶」は、なかなか婚家の生活になじめずに、姑との関係もギクシャクとして、ついに病を得て実家に戻っていた。文左衛門は、妻の「お慶」のことも気になりながら、藪太郎を連れて飲み屋にも行くし、飲み仲間や悪友たちとの交わりにも入れ、どこにでも出かけていく。文左衛門は大の酒好きであり、茶屋(小料理屋)で仲間とつるんでいるのである。また、藪太郎もなかなか利発な子で、文左衛門との生活に興味を持ってなじんでいくのである。

 文左衛門が藪太郎を連れて行きつけの茶屋(小料理屋)に出かけていった時、彼のの飲み仲間であり、莫逆の友である馬面の加藤平左衛門との話の中で、尾張藩主となった徳川綱誠が、二年前に御納戸金が不足するという出来事の咎で遠島となった御納戸役の小川瀬兵衛の事件を再捜査しているという話が出てくる。朝日文左衛門は、その話に好奇心を光らせて書いている日記「鸚鵡籠中記」を調べ直しているうちに、尾張藩付け家老である成瀬家の別家である成瀬兵部が蟄居を命じられた事件と関係していくことがわかっていく。

 尾張藩は、もともと、徳川家康の九男の徳川義直が初代藩主となっているが、義直が藩主となった時は、まだ若干7歳余にすぎず、藩政は家康がつけた家老たちが行った。この家老たちは「付け家老」と呼ばれ、藩内では独自の勢力を持ち、それぞれが近郊の数万石を与えられた大名並みの家格で、尾張藩の中でも権力の中枢にいたのである。その付け家老の筆頭が犬山城主である成瀬家と今尾城主竹腰家であるが、両家は互いに尾張の藩政を握ろうと争い合う仲で、反目しあっていた。

 特に、隠居している成瀬家の成瀬兵部は、復権をかけた金を工面するために御納戸役の小川静兵衛を巻き込み、さまざまなことを画策したのである。そして、静兵衛の子である小川清之助と小川静兵衛が残した証拠の書状の存在が明らかになり、これを巡って尾張藩内での権力闘争が行われ、成瀬家と竹腰家の間の争いが熾烈となり、犠牲者も出てくるようになるのである。

 朝日文左衛門は、師と仰ぐ学者の天野源蔵(信景 さだかげ)に藪太郎を引き合わせると同時に、これまで自分が調べたことを相談し、小川清之助と証拠の書付を守って、両付け家老が放つ暗殺者の手を潜り抜けて城に届けさせるという離れ業を行い、これを二代藩主であり隠居している「大殿」の徳川光友に届け、事態を収めていくのである。その死闘の過程が丁寧に描かれていく。

 それらとは別に、財政緊縮の風潮が強くなった尾張藩が出した奢侈取締り(贅沢品の取り締まり)が厳しくなり、「柿羽織」と呼ばれる足軽たちが取り締まりに当たっていた。その「柿羽織」に、妻の「お慶」と母親との仲をうまく取り持とうとして出かけていった先で、母親の大切な真珠の数珠が取り上げられてしまうのである。困り果てた朝日文左衛門は天野源蔵に相談し、奉行所同心や腕利きの目明し庄三郎に引き合わせられ、彼らの助けを得て母親の数珠の行く方を探るうちに、取り締まった「柿羽織」が、実は偽の「柿羽織」で、それらを使って巻き上げた高価な品で暴利をむさぼる故買商の姿が浮かび上がっていく。朝日文左衛門は奉行所同心や目明し庄三郎にうまく乗せられてその犯人捕縛に一役買っていくのである。それと同時に、彼が引き取っている藪太郎が、実は、藩主の子であり、次期藩主となる若殿であることがわかり、朝日文左衛門は目を回してひっくり返ったりする。藪太郎の命が狙われた背後には、尾張藩の継嗣を巡る争いがあったのであり、前年に綱誠の側室に男子が誕生し、藪太郎の母「お福」を巡るよからぬ噂や成瀬家と竹腰家の争いが継嗣問題となって現れ始めていたのである。江戸藩邸と尾張の国許との争いもある。藪太郎はこうした争いの中に置かれていたのである。

 朝日文左衛門は、あえて「生類憐みの令」によって禁止されている魚釣り(実は彼は密かに釣りを楽しんでいた)を藪太郎とすることで、暗殺者を誘い出す一計を立て、莫逆の友の加藤平左衛門、天野源蔵、そして、藪太郎を守る側近たちと力を合わせて暗殺者と対決する。そして、朝日文左衛門は、あわやという時に無意識のうちに一撃の剣を繰り出して、暗殺者に勝つのである。

 そして、藪太郎を国許においていると同じように襲撃されることがある危険から、藪太郎は江戸に戻ることになるが、藪太郎と朝日文左衛門の交情は深い信頼で結ばれ、藪太郎は、朝日文左衛門にいつか江戸へ来るようにと言葉を残して江戸へと向かう。そして、藩の上層部のほうで何らかの鎮静化が図られたことを知るだけで、朝日文左衛門の日常がまた始まるところで、本書は終わる。

 このシリーズは、すでに何冊か出されているので、読んでみようと思っている。横山光輝が朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」を題材にして、彼を主人公とする漫画を描いているそうだが、どんなふうに描かれているのか少し興味がある。しかし、漫画本はたぶん手には入らないだろう。

 それにしても、最近少し思うところがあって、自分の生活のスタイルを少し変えようかと考えている。自分の生活を自分で作っていくことに少しは心を砕いてみようと思っている。どうなるかな、とは思うが。

2012年8月24日金曜日

池端洋介『御畳奉行秘録 吉宗の陰謀』


 うだるような暑さが続いて、残暑の厳しさがひときわ感じられてならない。陽射しが強烈に、まさにジリジリと照りつける。忘れないうちにと思い、出先で弟のPCを借りてこれを記している。

 以前、池端洋介『養子侍ため息日記』の二冊を読んで、その丸みのある独特の作風が面白く、また、発想もなかなかのものだったので、『御畳奉行秘録 吉宗の陰謀』(2009年 静山社文庫)を読んでみた。「御畳奉行」という職名も聞きなれなかったし、城中の畳の管理をするという役職は、おそらく端役に違いなく、それを主人公に据えるあたりに作者の気風のようなものを感じて読み始めた次第である。

 そして、期待通りの面白さだったし、物語の場所も、尾張名古屋という独特なもので、尾張徳川家といえば紀州徳川家と将軍位をめぐっての熾烈な争いを繰り返していったが、御三家筆頭でありながらもついに将軍を出すことができず、特に七代藩主の徳川宗春は反骨精神にとんだ自由闊達で、独自の人物であった人で、そういう人間を生み出す気風というのもが尾張名古屋で培われたことを思うと、尾張のあり方は、なかなか考えさせるものがあると思っていた。

 その七代藩主徳川宗春のずっと以前の、二代藩主光友(みつとも)から三代藩主綱誠(つななり)、そして四代藩主となった吉通(よしみち)の時代で、表題にあるとおり、江戸幕府七代将軍徳川家継が将軍位を継ぐとき、家継が幼少であったために尾張の徳川吉通の名前が将軍位として挙がり、新井白石らの進言で、結局、家継が将軍位を継いだわけだが、その家継がわずか7歳(享年8歳)で死去したために、再び将軍位を巡って尾張の徳川吉通と紀州徳川家の血統であった徳川吉宗が争うことになり、結局、徳川吉宗が第八代将軍となった出来事が起こった。本書はその出来事を背景としたものである。

 江戸幕府中興の祖とか名君と謳われたりした徳川吉宗であったが、紀州藩主となり将軍となっていくに当たっては、さまざまな権謀術策があったともいわれ、特に尾張徳川家との確執は激しく、相互に陰謀を張り巡らしていたとも言われている。そのあたりは、どちらかの側に立った時代小説でよく取り上げられる題材であるが、本書は、その尾張徳川家の家臣で、元禄4年(1691年)から享保2年(1718年)の26年8ヶ月に渡って37200万字にも及ぶ克明な日記である「鸚鵡籠中記」を書き続けた朝日文左衛門(重章 しげあき 16741718年)を主人公として、紀州徳川家、特に吉宗がまだ松平頼方と名乗っていたときに、尾張徳川家を失墜させようとした数々の事柄の中で、藩の命運に関わる事柄に関わりつつ藩の危機を救っていったとして物語を展開させるのである。

 朝日文左衛門(重章)が家督を継いだのが元禄7年(1694年)20歳の時で、その時の知行は父親と同じ100石の下級武士で、御畳奉行を拝命したのは、元禄13年(1700年)で役料は40俵に過ぎなかったから、奉行とはいえ、藩政の端役に過ぎなかったといえるであろう。軟弱で大酒飲みであるにもかかわらず、その筆先には、辛辣なことも素直に書き記す物事にとらわれない自由さが満ち溢れているから、いわば、愛すべき人物であったのだろうと思う。

 本書は、その朝日文左衛門が御畳奉行を拝命するところから始まる。彼が御畳奉行となったのは、「大殿」と呼ばれた隠居した二代藩主徳川光友(16251700年)の意向が働いたもので、彼を見込んだ光友が、たいした仕事がなくて比較的自由の利く御畳奉行にして、尾張藩を貶めようとする紀州藩の策略から四代藩主となった幼い徳川吉通を守るように密命を受けていくという展開になっていく。元禄6年(1693年)に光友の後をついで第三代藩主となった徳川綱誠がわずか6年の元禄12年(1699年)に急死したことにも、光友は紀州藩の策謀があったことを感じ、尾張藩の危機を感じていたのである。

 朝日文左衛門が徳川光友から人物を見込まれていく過程については、大和書房から文庫書下ろしで出されている『元禄御畳奉行秘聞 幼君暗殺事件』(2009年2月)に記されているが、本書が出されたのが200911月で、それにもかかわらず、本書の文庫本カバーで「シリーズ第一弾」と銘打たれているのは、出版社の違いとはいえ、あまりよいことではないと思いつつも、朝日文左衛門がまだ家督を継ぐ前に、弓術師範の娘「けい(慶)」と結婚し、家督相続の許しを得ようと名古屋城に日参しているときに、三代藩主徳川綱誠の子であり、暗殺者の手から逃げていた幼い吉通(幼名 藪太郎)と遭遇し、彼を吉通とは知らないままに保護して一緒に暮らし、それが思わず吉通を守ることにつながっていったことによる。そのあたりのことは、また、大和書房版『元禄御畳奉行秘聞 幼君暗殺事件』を読んだときに記していくことにするが、引退した「大殿」の徳川光友は、子である三代藩主綱誠の急死に不審を感じており、なんとしても紀州の手から尾張を守り、四代藩主となった幼い吉通を守るために、見聞が広く勘の鋭い朝日文左衛門に尾張の策謀を暴くように密命を与えるのである。

 朝日文左衛門は、幼馴染であり、また酒飲み友だちでもある加藤平左衛門らの協力を得ながら密かに密命を果たしていく。加藤平左衛門は馬顔で長刀の使い手だが、朝日文左衛門は剣の腕はさっぱりだめだと自分では思っている。そのほかにも、本書では、相原政之右衛門という飲み友だち、腕利きの目明しの庄三郎などが登場するし、おしとやかな娘であった「お慶」が子どもを産んで気の強い嫁となり、その「お慶」に気を使いながら生きていく姿が描かれたり、実際に朝日文左衛門が師と仰いだ天野源蔵(信景 さだかげ 16631733年)が力強い協力者として登場したりしているし、何よりも文章にユーモアがあるので全体的に面白さが満ちている。

 事件は、朝日文左衛門が自分の日記である「鸚鵡籠中記」を読み返して、不審火が次々と起こっていることに気づき、続いて犬猫の死骸が重臣や旗本の屋敷に投げ込まれるという事件が続いていくことに不審を抱き始めるところから始まっていく。五代将軍徳川綱吉が出した「生類憐みの令」によって、犬猫の死骸が多発することは尾張藩の立場を悪くすることで、三代藩主であった綱誠の急死にも不審を感じて心を痛めていた「大殿」である光友は、名古屋城下の見聞に明るい朝日文左衛門を御畳奉行にして、紀州の陰謀を暴くように密命を与え、朝日文左衛門はそれらの一連の出来事に紀州藩の忍びの影を感じていくのである。

 そして、事実、それらは紀州藩から送り込まれた忍びの仕業で、朝日文左衛門は加藤平左衛門や目明しの庄三郎、天野源蔵や奉行所同心の助力を得て、その忍びたちの隠れ家を探し出して捕らえていくのである。しかし、事件はそれだけでは終わらない。彼の御畳奉行の職務に関することで、名古屋城の畳を収めていた商人たちが畳の仕入れを安く仕上げるために紀州の畳職人を使い、その畳職人になりすませた紀州藩の忍びが畳に毒を仕込むというやり方で出てくるのである。

 畳職人の饗応に応じ、そこに招かれていた「おその」という色っぽい湯女にうつつを抜かしつつも、畳商人たちの話から、そのことに気づき、光友暗殺の陰謀も知り、江戸にいる吉通の暗殺計画も知っていくのである。朝日文左衛門は、毒が仕込まれた畳を暴いていくが、光友は病に倒れる。そして、偶然、紀州の忍びの暗殺者たちが江戸の吉通を暗殺することを話しているのを目撃した朝日文左衛門は、吉通の命を守るために急遽、加藤平左衛門と共に江戸に向かうのである。朝日文左衛門と徳川吉通は、吉通がまだ藪太郎だったころから、文左衛門が藪太郎の素性を知らずに、一緒に魚捕りをしたりした中で、文左衛門は藪太郎(吉通)を自分の子どもか幼い弟のように思っていたし、吉通も文左衛門を頼りとし深く信頼していた。そして、文左衛門はかろうじて吉通の命を暗殺者の手から守り、暗殺者を誅するのである。朝日文左衛門は、自分では剣の腕など少しもなく、小心者でおどおどしていると思っているが、いざとなったら無意識のうちに体が動く「きまぐれ秘剣」を使うことができるとされているが、本人は偶然の出来事に過ぎないという自覚しかない。

 ともあれ、こうして、吉通の暗殺事件は、後の徳川吉宗となる松平頼方が仕掛けたものであったが、見事に失敗し、そこに朝日文左衛門の働きがあったことが語られるのだが、その朝日文左衛門の立ち位置が次のような言葉で語られる場面があり、それがこの物語の主人公を通して作者が描きたい人間像だと思われるから、以下に抜書きしておこう。

 「この世で権力を握れる人間なんて、ごくひと握りさ。あとはそいつらに追従するふた握りの人間と、さらにそれらに追従して生きていくしかない圧倒的な残りの人間しかないんだ」
 「・・・・・・・・」
 「だけどな。もうひと握り、特別な人間たちがいる」
 「どういう意味だ。貴様、酔ったな」
 「身分の差など考えず、おのれの利益も考えず、死を賭して、この世に棲む人間たちさ」(252ページ)。

 作者は朝日文左衛門をこういう人間に仕上げて描き出そうとするのであろう。そして、わたし自身もこういう人間には惜しみなく拍手喝采を浴びせたいと思っているから、本書を痛快に読むのだろうと思う。これは、先にも触れたように大和書房からもシリーズとして出されているから、少し続けて読んでみたいと思っている。

2012年8月20日月曜日

上田秀人『闕所物奉行 裏帳合(五) 娘始末』


 灼熱の太陽が燦々と照りつけて、今日もうだるような暑さが続いている。百日紅のピンクの花房がわずかに揺れるだけで、どこもかしもこ焼き尽くされるよう。ただ、洗濯物が即座に乾くのが有難い。

 数日前に読み終えていたのだが、なかなかこれを記す時間がなかった上田秀人闕所物奉行 裏帳合(五) 娘始末』『(2011年 中公文庫)について記しておくことにする。 これは、罪科を受けた者たちの財産没収に伴う作業を行う闕所物奉行となった榊扇太郎という物事にあまりこだわらないが、水野忠邦や鳥居耀蔵といった幕閣の策略の中を「情」を持ちつつも生き抜いていく姿を描いたシリーズの第五作目で、主人公や状況の設定がなかなか面白くて一作目から読んでいるものである。

 本書では、水野忠邦が断行した天保の改革による経済破綻を抱えた旗本・御家人たちが、止むにやまれぬ借財の形で娘を遊郭や岡場所に売ったり、商人の妾に差し出したりしていたのを、目付であった鳥居耀蔵があえて暴きだし、娘を売った旗本を改易し、その財産を闕所(財産没収)にしたことから、売られた娘が次々と自害したり、殺されたりするという悲惨な事件になっていったことから物語が始まっていく。

 娘を売った旗本たちが、発覚を恐れて、娘を自害に追いやったり、手にかけていたりしたのである。主人公の榊扇太郎が引き取って共に暮らしている「朱鷺」も、親に売られた旗本の娘で、闕所物を扱う商人の天満屋孝吉によって榊扇太郎のもとに引き取られていた女性だった。

 天満屋孝吉は、表では古着屋を営み、闕所物を扱う商売をしているが、裏では江戸の地回りを束ねる力ももち、吉原の利権を狙っている品川の地回りである「狂い犬の一太郎」と呼ばれる権力欲と財欲の塊のような男と争っている。この「狂い犬の一太郎」が、自ら八代将軍徳川吉宗のご落胤を語り、幕閣僚とつながって江戸を支配しようと企むところに、物語の面白さがある。

 また、大御所として実権を振おうとする十一代将軍だった徳川家斉と繋がっている家斉派の幕閣の思惑や老中首座である水野忠邦、町奉行の座を狙う鳥居耀蔵などのそれぞれの思惑が交差する。

 そういう中で、目付の配下である闕所物奉行である榊扇太郎は、旗本の娘たちを守り、「狂い犬の一太郎」の策謀を暴き、鳥居耀蔵の思惑を打ち砕き、家斉派の陰謀と対決し、窮余の一策で水野忠邦と直接結びついたりして、急場をしのぎ、生き抜いていくのである。

 この物語は、上司もひどく、状況も悪い中で、なんとか自分の矜持をもちながら、知恵を働かせて、しかも飄然と生き抜いていく主人公の設定がなかなかよくて、テンポの良い文章がさらに物語を面白くしており、気楽に楽しみながら読めるシリーズだと思っている。一息に読める作品になっている。

2012年8月17日金曜日

中村彰彦『北風の軍師たち 上下』


 厳しい残暑が続いているが、それでもミンミンゼミが鳴き始め、九州からはアキアカネが飛び始めたとの便りがあった。晩夏の気配を虫たちは感じ始めているのだろう。だが、すこぶる暑いことに変わりはない。夏バテ気味でこの夏を過ごしてきた気がしないでもない。朝から陽射しが強い。

 それはともかく、江戸時代の幕藩体制の中で、徳川幕府はその体制の強化のためや幕府支配の威光を示すために、大名家の領地替えというのを度々行い、三つの大名家の領地を同時に替える三方領地替えや、時には四つの藩の領地を替える四方領地替えというのも行っているが、天保11年(1840年)に画策された三方領地替えは、まれに見る失敗例としてよく知られている。

 これは、川越藩主松平斉典(なりつね)を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器(ただかた)を越後の長岡へ、そして、長岡藩主牧野忠雅(ただまさ)を川越へ転封しようとしたもので、天保8年(1837年)に第十一代将軍徳川家斉は次男の家慶に将軍位を譲ったが、大御所として実権は握ったままで、その意を受けて老中首座であった水野忠邦が行なおうとしたものである。

 財政破綻状態が続いて莫大な借金に喘いでいた川越藩主松平斉典は、徳川家斉の51番目の子である紀五郎(斉省-なりやす)を養子に貰い受けることで裕福な庄内藩への領土替えを画策し、大奥などに手を回して家斉を説き伏せ、二藩だけによる領地替えだと川越藩の画策があまりに露骨なために、越後の長岡藩を巻き込んでの三方領地替えを水野忠邦が発案して、天保11年(1840年)11月に幕命を下したのである。

 長岡藩を巻き込んだのは、天保8年(1837年)の「モリソン号事件」などによって脅かされてきた海防の強化の必要性から、領地替えに便乗して長岡の良港であった新潟港や庄内の酒田港を天領にしようとする水野忠邦の意図があったとも言われている。

 しかし、領民に対して比較的良政を行ってきた庄内藩の酒井家の下にあった農民たちにとって、この三方領地替えの話は大きな動揺を引き起こすことになった。借金だらけの川越藩松平斉典が領主になると重い税を課せられ、餓死者が出るようになることを感じたのである。その危機感が増大して、この三方領地替えを撤回させようと、江戸に上って命懸けで幕閣に駕籠訴(登城したり下城したりする幕閣が乗る駕籠に嘆願を直接訴えること)を繰り返し、このことを快く思っていなかった諸大名の働きかけなどもあり、ついに、この三方領地替えは撤回されることになるのである。

 幕命が撤回されることは前代未聞の出来事でもあり、この出来事は「天保義民事件」とか「庄内騒動」とか呼ばれており、藤沢周平が『義民が駆ける』という作品を書いていた。

 この事件を、比較的客観的に描き出そうとした中村彰彦『北風の軍師たち 上下』(2006年 中央公論新社)を、少し時間をかけて読んでいた。

 作者自身の「あとがき」によれば、この出来事に関係した人物たちを描くために、回り舞台に見立てて様々な人物が回転木馬のように登場していくような「メリーゴーランド・スタイル」と呼ばれるような小説作法を採用したということで、徳川家斉や水野忠邦、あるいは川越藩や庄内藩のそれぞれの人物たち、そして幕府の横暴に毅然と立ち上がっていった庄内での農民の指導者であった玉龍寺の文隣、庄内出身で管財の才を江戸で発揮して、いわば経営コンサルタントのようなことをしていた佐藤藤佐(とうすけ)、当時の江戸町奉行で、庄内の百姓たちに温情ある裁きをし、出来事の決着に導いた矢部定謙などの姿が、実に詳細にわたって描き出されている。

 また、物語の引き回し役として、川越藩の下級の隠密と空を飛ぶことに熱中して「飛行器」を作成していくその弟などを設定することで、庄内藩の商人たちの状況、それぞれの城下町の状況などをうまく盛り込んで、三方領地替えに携わる者たちの無謀さやこれに反旗を翻した庄内藩の住民たちの姿が浮かび上がるように描かれている。

 物語は、財政破綻の窮乏にあえぐ川越藩が、家斉の第51番目の子である紀五郎を養子に迎え、付届け(賄賂)と大奥への策謀によって、三方領地替えが起こるところから始まる。そして、そのことの内諾を受けて、川越藩の下級隠密が庄内藩に内情の下調べを行いに出かけるところへと展開していく。

 また、庄内藩では、玉龍寺の文隣を中心にして、「天狗」と称しながら藩内の百姓たちをまとめていく過程が詳細に描かれていく。文隣らは、「天狗廻状」というのを各農村に回しながら、三方領地替えの阻止に向かって駕籠訴を繰り返していくのである。通常、駕籠訴の訴人は厳罰に処せられるのだが、「酒井家が自分たちのことを大事にしてくれたので、その酒井家に出て行って欲しくない」、「百姓も二君にまみえず」と訴えたため、その忠義が江戸の人々や諸大名たちに好意をもって受け取られたのである。その知恵を出したのが、玉龍時の文隣であったのである。

 江戸で財務コンサルタントのような仕事をして諸大名に信頼されていた佐藤藤佐は、この庄内の百姓たちの側に立って、一揆も辞さない死を賭す情勢を作り上げるように助言をし、文隣たちは数万にものぼる百姓たちを集めていくのである。そして、川越藩が庄内に移封されて農民に対して税を重くするなどの圧政を敷いたなら一揆も辞さない構えを取るのである。

 そして、佐藤藤佐は、最も信頼できる武士として矢部定謙に白羽の矢を立て、彼に庄内藩の内情と三方領地替えが行われたいきさつが全くの私情によるものであることを告げて、助力を願うのである。

 矢部定謙は勘定奉行のときに老中首座である水野忠邦に江戸城二の丸の再建計画が無謀であるとの意見をし、幕閣から退けられていたが、家斉の死後に家斉側近たちの粛清に伴い、再び江戸町奉行として登用されることになり、この三方領地替えについての撤回を主張していくのである。

 こうして、一方では庄内藩内における百姓たちの一揆の準備、他方では、幕閣やほかの有力諸大名への働きかけを展開して、ついに、天保12年(1841年)にこの幕命は撤回され、庄内藩は酒田家のままとなり、百姓たちが勝利を収めるのである。

 こうした経過が実に丹念に歴史的検証を経て本書で綴られていく。ただ、作者が「メリーゴーランド・スタイル」と呼ぶ小説作法のためか、あるいは作者自身の特質なのか、人物たちの歴史的エピソードや歴史的事象、あるいは状況の詳細な記述のわりに、今ひとつ人物が生き生きと浮かび上がってこないきらいがあるようにしてならないのが少し残念で、出来事そのものは明瞭にわかっても、人間の深みがあまり展開されていない気がした。小説としての物語性をどこに置くのかという問題かもしれないが、私のような読者にとっては、望み過ぎかもしれないが、ほんの少しが物足りなさを感じた作品だった。

2012年8月13日月曜日

上田秀人『刃傷 奥祐筆秘帳』


 毎年この時期は帰省されたり夏休みを取られたりして人が少なく、街は比較的静かになる。オリンピックも終わって、季節は晩夏に入るだろう。田舎であれば、アキアカネが飛び、蜩が鳴き始めることである。だが、まだまだ暑い。

 先週末、上田秀人『刃傷 奥祐筆秘帳』(2011年 講談社文庫)を面白く読んだ。文庫本カバーの裏によれば、これはこのシリーズの八作品目の作品で、以前にも、ここには記していないかもしれないが、何冊かこのシリーズを読んでいて、テンポのいい文章と展開でかなり面白く読んでいた。

 奥祐筆は江戸幕府のすべての公式文書に携わる書記官で、特に五代将軍徳川綱吉がそれまで幕閣に握られていた幕政を取り戻すために、側近の者たちを中心にして奥祐筆を設けて、幕府のすべての文書を奥祐筆の手を経るように命じたことで生じた役職であった。奥祐筆は老中若年寄の支配下にあり、地位は低かったが、秘密文書の作成や管理なども行い、諸大名が書状を差し出すときには、必ず事前に奥祐筆によってその内容が確認され、手加減しだいで書状が認められるかどうかの権限をもつようになっていったから、掌握している権力は相当のものがあった。いわば、江戸幕府の許認可権を一手にもっていた幕政の中枢的存在であったのである。奥祐筆組頭の役高は400石、役料200俵と優遇されていたが、それだけではなく、認可を得ようとする諸大名からの付届け(賄賂)もかなりのものがあり、大身の旗本以上のものがあったとも言われている。

 この奥祐筆を中心にして物語が展開されるのだから、当然、幕政を巡る権力闘争が描かれるのは明らかであるが、時はオットセイ将軍の異名をとった第十一代将軍徳川家斉(11731841年)の時代、老中松平定信が寛政の改革を失敗し、家斉が父親の一橋治済と協力して松平定信を失脚させて、老中首座として松平信明を任命した時代である。この時代は、失脚したとはいえ、松平定信は八代将軍徳川吉宗の孫であり、なお幕政に対しての強い影響力を持ち、また、他方では徳川家斉の父親の一橋治済が将軍の父としての権力を持ち、それ以上に自ら将軍位を得ようと暗躍する状態の中で、家斉は女色に溺れつつも権力掌握には並々ならぬ執着をもっていた時代であった。

 こういう時代背景を下に、本書は、奥祐筆組頭として幕政の闇に触れていった立花併右衛門を巡る争いを展開するもので、彼に秘密や弱みを握られていた者たちによる襲撃が次々と行われ、隣家の旗本の次男坊(いわゆる冷や飯食い)で、剣の腕が抜群に優れている柊衛悟を護衛役として雇うことで身を守っていく姿が描かれるのである。立花併右衛門には一人娘の「瑞紀(みずき)」がいて、「瑞紀」と衛悟は幼馴染であり、立花併右衛門は次第に柊衛悟の人柄にも触れて、やがては彼を婿養子にしたいと思うようになっていく。

 本書は、その立花併右衛門が、伊賀者の公金使用を調べていると早合点した伊賀者が、立花併右衛門を陥れようと殿中で刀を抜かせる刃傷事件を起こすところから始まる。伊賀者は徳川家康に取り立てられたあと、次第にその力を失って冷遇され、八代将軍徳川吉宗が隠密組織としての公儀お庭番を設置してからは、忍としての力を発揮する隠密業務からも外され、その地位はか細い糸のようなものでしかなかった。ここで奥祐筆の手によって公金使用が発覚すると改易(クビになること)は間違いなく、立花併右衛門を度々襲っていたが、その都度、柊衛悟によって退けられていたのである。

 殿中で立花併右衛門は襲われ、鞘ごと脇差を抜いて対応するが、その脇差の鞘が割れてしまい、殿中刃傷事件として彼は捕らえられて、立花家は閉門させられる。老中の中にも彼に弱みを握られている者がおり、先の老中首座であった松平定信も、自分の権力掌握には邪魔になると考えていたので、立花併右衛門の切腹は間違いないとされていた。

 しかし、将軍徳川家斉は、台頭してこようとする執政たちや松平定信、将軍位を狙って暗躍している父親の一橋治済を押さえ込むために立花併右衛門の存在が必要であり、彼を評定所(最高裁判)での裁きに回すのである。家斉はその時に松平定信を利用したりもする。しかし、その評定所で、立花併右衛門は奥祐筆らしく先例をすべて調べ上げ、殿中での刃傷事件で襲われた方はいっさい咎めがなかったことを申し述べて、無罪放免を勝ち取っていくのである。

 このシリーズで、徳川家斉は手先として公儀お庭番を使い、一橋治済は甲賀忍者を使い、やがて松平定信が伊賀忍者を使い、それだけではなく各大名たちが手練の者たちを使ったり、かたや朝廷側の寛永寺法主とその配下が登場したりして、それぞれがそれぞれの利害をかけて柊衛悟と活劇を繰り返したり、尾張藩や水戸藩の暗躍が描かりたりして、それぞれの権謀術作が激しく描かれていく。その中で、柊衛悟と「瑞紀」の恋もあり、エンターテイメントの要素が満載されて、それが無理なくテンポよく進んでいく。

 大方の歴史的な人物像は通説によっているとはいえ、物語としては抜群の面白さがあり、一気に読ませる力量のある作品になっている。この作者は、ほかの作品でもそうだが、かなりしっかりした時代背景を踏まえて人物を描くので、その展開だけでも非常に面白いものになっているのである。現在のところ、比較的安心して面白く読める時代小説のひとつだと言えるのではないだろうか。

2012年8月10日金曜日

千野隆司『恋の辻占 槍の文蔵江戸草子』


 このところ僅かではあるが朝晩の暑さが和らいできたような気がしている。湿度が低くなったので、その分、暑くても過ごしやすくなっているのかもしれない。オリンピックも放映されているし、しばらくは読書量も落ちているのだが、思考力も確実に減退している。しかし、ぼ~っつと過ごすのも悪くはないだろう。

 それにしても、「近い将来」ではだめで、「近いうち」ならいいというこの国の政治のトップの誤魔化し感覚には恐れ入った。しかもその誤魔化しが「したり顔」で行われるのはどういう感覚なのだろうかと思ったりする。こういうことが通用するようになっていく社会が恐ろしい。

 それはともかく、比較的気楽な感じで書き下ろされている千野隆司『恋の辻占 槍の文蔵江戸草子』(2010年 学研M文庫)を気楽に読んだ。書き下ろし作家の中でも、千野隆司は、文章や情景描写、あるいは人の切なさや悲しみを描くのに比較的優れた力をもった作家だと思っているが、本作はさらに読みやすく構成されている。

 本書のカバー紹介に、シリーズ第一弾とあるから、これはシリーズ化されていく企画で始められたのだろう。主人公は、播磨林田藩一万石(作者の創作)という小藩の二十俵二人扶持という下級の藩士で、馬の口取り役(藩主が馬に乗るときに世話をする役で、馬の世話もする)という端役についている新見文蔵で、太刀ではなく槍術に長けた二十三歳の青年武士である。

 彼が藩命によって藩主の江戸出府に伴って、いわば江戸勤番となって江戸に出てきたところから物語が始められ、彼が物見遊山で大塚の護国寺の灌仏会に出かけた時に、若い娘が浪人から財布を掏摸取るのを目撃し、その娘のあとを追いかけたところ、今度はその娘が町のごろつきに絡まれ、その娘を助け出すところへと展開される。

 娘の名は「おけい」と言い、父親は「おけい」が小さい頃に女を作って出ていき、母親は病死して、ひとりで裏長屋に住んで、恋の辻占(恋占いのおみくじ)を売って生計を立てながら、ときおり掏摸も働くという十五・六の娘であった。「おけい」が浪人から財布を掏摸取ったのは、浪人が老婆を突き倒しても素知らぬ顔で行ってしまおうとしたからで、「おけい」は、掏摸をするとはいえ、典型的な江戸っ子気質を持つ正義感の強い情のある娘なのである。この「おけい」が、本書を彩る人物になっていく。

 文蔵の勧めで、掏摸取った財布を持ち主に返すために、その財布の中身を調べたところ、浪人の風体には似つかわしくない大金と一枚の書付が出てきた。その書付には三人の名前が記されていたので、それを手がかりにして文蔵と「おけい」は財布の持ち主を探すことにする。しかし、最初に名前のあった旗本の鷲尾多左衛門は、数日前に鉄砲で撃ち殺されており、次に名前があった米屋の志摩屋五郎兵衛も何者かに襲われ殺されていた。文蔵と「おけい」は、三番目に名前のあった日本橋の醤油問屋の越前屋彦太郎を訪ね、彦太郎はまだ二十代半ばの商人であるが、これまでの経緯を話して、用心するようにいって引き上げる。

 文蔵と「おけい」は、掏摸取った財布は、拾ったことにして、「おけい」の住む長屋を縄張りにしている岡っ引きの丹治に届ける。丹治は、小料理屋である「かずさ」の息子で、父親の跡を継いで岡っ引きとなった人物で、軽妙で少し威張ったとことがあるが、好人物でもあり、母親の「お蝶」の小料理屋の板前でもある。この丹治も本書の重要な役割を果たす取り巻きとなっていく。彼に岡っ引きの手札(許可)を与えているのは定町廻り同心の澤所太左衛門で、彼もまた文蔵が関わっていく事件で文蔵を助ける者となる。

 文蔵は江戸に出てきた時から、小さな廃寺を利用した宝蔵院流の槍道場に通っていたが、その道場主の細沼長十郎と彼の息子の嫁で「早苗」とも懇意になっていく。「早苗」は、夫が亡くなっても義父とともに暮らして、午前中は寺で子どもたちに文字や礼儀、裁縫などを教える文字通りの寺子屋の師匠をしながら、午後はその場で開かれている槍の稽古を見守っている妙齢の女性で、岡っ引きの丹治は、この「早苗」に惚れて、ここに通ってきている。その細沼長十郎が、生計のために用心棒稼業もしており、三番目に名前のあった越前屋彦太郎の用心棒として雇われるのである。この細沼長十郎と「早苗」も本書を彩どる人物たちである。

 物語は、書付に記された三名の繋がりがなかなか見いだせなかったのだが、鉄砲で殺された旗本の鷲尾多左衛門が数年前に御鉄砲箪笥奉行(鉄砲の管理)をしていた頃に、鉄砲の持ち出し事件というのがあり、ほかの二人の商人(越前屋彦太郎の場合はその父親)もそれに関連していたことが次第にわかっていき、そのときに鉄砲紛失の責任を負わされて詰め腹を切らされた武家があることが分かっていく。そして、詰め腹を切らされた武家は、一家離散となり、その妻は病死、姉は借金で遊女に売られ、その弟が恨みを晴らすためにそれぞれを襲っていたことがようやく分かっていくのである。

 文蔵と細沼長十郎は、槍を下げて越前屋彦太郎を守り、ようやくにして犯行を防ぎ、越前屋彦太郎は事情を鑑みて、遊女に売られていた姉を身請けして自由にしてやることで事件が解決する。それが第一話「恋の辻占」であり、こうして江戸勤番で田舎から出てきた新見文蔵の江戸暮らしが始まっていくのである。

 第二話「おけいの涙」は、「おけい」が住む長屋の一帯を取り仕切っている地回りと隣接する牛込あたりの地回りの縄張りをめぐる抗争事件で、岡っ引きの丹治が斬られてしまい、その抗争事件を文蔵、長沼長十郎、同心の澤所太左衛門が、両者を戦わせるという方法で解決していくものである。この事件で「おけい」が捕まってしまい、あわやというところで助けられていく。「おけい」は、次第に文蔵に心を寄せるようになっていく。そういう過程が織り込まれていく。文蔵は槍だけでなく、料理もうまく、その料理の腕を使って、細沼家や丹治の家の小料理屋に自然と馴染んでいき、彼の江戸暮らしは、これらの人々との交情で温かく織り成されていくのである。

 第三話「雨後の神隠し」は、「早苗」の手習い所に通ってきている商家の息子が行くへ不明となり、みんなで手分けして子供の行くへを探しているうちに、商家の姑とおりが合わなくなって婚家を出された子どもの母親や、それを利用して子どもを拐かして商家の乗っ取りを企む男女の姿が明らかになり、みんなで協力して子どもを救出していくというものである。

 全体的な構成や展開などは、主人公が田舎侍で、槍を使うということ、料理が得意で、自分が田舎侍であることやお役らしいお役もないことなど少しも気にかけずに、日々を愉しむ才をもつことなど、面白味のある構成になってはいるが、作品としての独自性があるわけではない。しかし、物語の展開の仕方や流れるような文章、描写には作者の力が円熟してきているのを感じたりもする。

 ただ、気になる箇所が二箇所あって、どちらも誤記ではないかと思う。一箇所は、第二話「おけいの涙」で、いよいよ地回りの凄腕の用心棒たちと文蔵や細沼長十郎が立ち回りをする場面で、次のように記されている。

  「とうっ」
  長沼はさっそく、突き出してきた突く棒を闇の空に払い上げた。
  「この野郎」
  長脇差の金次が、長沼に向かい合った。(202ページ)

 この「長沼」とは誰だろう。おそらく「細沼」の間違いではないだろうか。

 二箇所目は、第三話「雨後の神隠し」で、これも誘拐犯人と丹治が対峙する場面で、丹治が子どもの監禁されている神輿倉に飛び込み、文蔵が外で控えているという設定だが、「文蔵は、まだ倉の外にいた。出てきたところでひっ捕らえるつもりである。常次郎もお衣も(誘拐犯人)、常次郎の他には人がいないと考えている気配だ」(278ページ)とあるが、これは、「常次郎の他には」ではなく「丹治の他には」であろう。

 こういう間違いは、たいていは編集の段階で修正されるのだが、場面がどちらも緊迫した場面であるだけに、「?」と思い、少し残念な気がする。

 とはいえ、熟れた物語の展開は面白く、登場人物たちがこれからどんな事件に関わっていくのか、恋も芽生え始めており、興味がわく要素はたくさんある。千野隆司はシリアスに描くのもいいが、こういう作品も悪くないのである。

2012年8月6日月曜日

山岡荘八『風流奉行』


 今日は静かに「平和を祈る」ことから始めた。「ヒロシマ」というカタカナ表記を、わたしは特別な思いをもって使っているが、排除の論理で動く争いや戦争という馬鹿げた行為の善悪ではなく、深い人間の「業」と「哀しさ」を感じざるを得ない。排除ではなく受容こそが人間の未来を拓くことを改めて考えたりする。

 それはともかく、軽妙な語り口調で軽妙な物語を綴られた山岡荘八『風流奉行』(2006年 徳間文庫)を「へぇ、こんな作品もあったのだ」と思いながら読んだ。なぜなら、山岡荘八は十八年の長きに渡って大著『徳川家康』を著し、重厚な歴史小説を書く人だと思っていたからで、彼の『徳川家康』は、もはや家康を語る際の底本のようになっており、その仕事ぶりは真に誠実で丁寧で、その印象があまりに強いからである。

 山岡荘八は、1907年(明治40年)に新潟県に生まれ、いくつかの変遷を経て、1934年(昭和9年)ごろから作家活動を始め、第二次世界大戦中は従軍作家となったために、戦後に公職追放令を受け、1950年(昭和25年)にようやく追放令が解除されると、以後ほぼ18年に渡って大著『徳川家康』の執筆に取り組んだ人である。1978年(昭和53年)に死去するまで、多くの歴史的人物を掘り下げた優れた作品を書き続け、その仕事ぶりはまことに誠実であった。

 その山岡荘八が、いわば遊び心満載の本書を出したのは1957年(昭和32年)で、本書はその復刻版である。これは、大岡裁きなどで名奉行として著名になった大岡越前守忠相の粋な名裁きを綴った短編五作からなるもので、特に男女の色事に関わる事柄を滑稽味たっぷりに描いたものである。

 第一話「添い寝籠」は、暑い夜にひやりとした感触を味わうために用いられた「竹婦人」と粋な名のつく竹製の抱き枕の話から、「竹婦人」のように体温が低くて抱き心地がよいと噂される美貌の後家を巡る恋の争奪戦に大岡越前守忠相が絡んでいく話である。

 海山物問屋の相模屋の後家となった「お菊」は、もともと六大将軍家宣の頃に大奥女中として勤め、家宣の死後も、通常は将軍のお手のついた奥女中は尼となるのだが、なぜかそのまま奥女中を勤め、四歳で七大将軍となった家継が八歳で亡くなったあとも、八代将軍徳川吉宗に仕えた女性だった。だが、家宣も吉宗も、彼女を暑い時のひやりとした感触を楽しむためだけに添い寝させただけであり、その後宿下がりをして、海山物問屋の相模屋徳兵衛の後妻となったのである。ところが嫁ぐとまもなくして徳兵衛が死に、「お菊」の体温が低いために、その「お菊」から朝夕に絡みつかれたために、徳兵衛が冷え切って死んだという噂が流れ、相模屋の寮に逼塞していたのだが、彼女を巡って、大名家の隠居、歌舞伎役者、浪人が、何とかして彼女をモノにしようと競い合うのである。

 大名家の隠居は、怨霊や生霊の話をでっち上げて、歌舞伎役者を退けるが、浪人はしたたかで、ついに、時の人であった大岡越前守が「お菊」のもとに通っていると嘘をでっち上げ、浪人撃退のために大岡越前守を使おうと画策するのである。大岡越前守は、自分のことでもあるので、自らその真相の探索に乗り出し、真相を究明していくのである。お白州(裁判)で、あの手この手で知恵を使って「お菊」と契ったと言い張り、それによって仕官の道を得ようとする浪人に、「お菊」が自分は両性具有者だと言ったところ、浪人はそれを知っていると言い出し、実はそれは「お菊」の嘘であることが明らかになって、浪人の主張が崩れ去っていく過程が面白おかしく描かれていく。

 第二話「業平灯篭」は、商家の女房が自分の浮気を誤魔化すために考え出した嘘を暴いていく話で、男が女になったり、女が男になったりするという奇想天外な話の裏にある男女の出来事を綴ったものである。

 話の発端からして男根像が秘仏である寺が出てきて、その寺の若い僧である「尚然」が、自殺した先妻の娘の相談を後妻から受けるという話で始まる。商家の後妻である「おさわ」は先妻の娘が自殺したことには訳があって、娘が惚れた相手は歌舞伎役者の伊三郎だったが、伊三郎は立派な役者になるまでは女を断つという願掛けをしていると断り、釣灯篭を送ってよこしたので、腹を立てた「おさわ」は娘を振った伊三郎に会いにいくが、伊三郎は、今度は娘よりも「おさわ」がいいと言い出したりしたのである。そのため、先妻の娘は悋気で「おっ母さんがあの人に手を触れたら、あの人をいっぺんに、男では女にしてしまう」と言い残して死んでしまうのである。先妻の娘は身ごもっていた。

 それで、「おさわ」は、再び伊三郎を呼び出したところ、その伊三郎に対して欲情を抱いて触れると、先妻の娘の恨みからか、伊三郎が女になったというのである。それ以後「おさわ」は、伊三郎と寝ている夢を見て、秘所を触ってみると女であるという夢を見続けており、その呪いを解いて欲しいと言うのである。加えて、先妻の娘の弟も衆道癖をもつようになって伊三郎に惚れているから、やっかいになってきたとも言うのである。

 相談を受けた「尚然」は事の真相を確かめようとして伊三郎に会う。だが、伊三郎に欲情を抱いてしまい、僧は女犯の罪はあるが、相手が男ならその罪を犯さないことになると挑みかかる。しかし、伊三郎もまた、女を断つと願掛けして、それを破ったら女になっても良いと誓っていたので、「尚然」が伊三郎に触れると彼は女になってしまったのである。そして、自分は「おさわ」に触れられた時に女になったが、男に戻っていた。懲らしめのために女になったのだから、今度は仏罰を解くために、呆れるほど女になってよかったと思うようになって、罰が罰でなくなれば良いと「尚然」と伊三郎は契り続けるのである。「尚然」は寺の秘仏も和尚の金も盗み出して、女になった伊三郎と契り続け、痩せ衰えていく。

 そして、寺の和尚が、「おさわ」と伊三郎が先妻の娘を孕ませて死に至らせ、その弟まで虜にして商家の乗っ取りを企んでいるからこれを取り締まって欲しいと訴えであるのである。こうしてこの事件が大岡越前守の裁きの対象となっていくというものである。

 この事件の結末は、先妻の娘の懐妊は、伊三郎に振られた娘に「おさわ」がほかの男を偲んでこさせて懐妊させたものであり、伊三郎はもともとが女で、生きる術として男に身なりを変えて役者になっていたのであり、「尚然」と伊三郎は夫婦となって駆け落ちするというものである。

 馬鹿々々しいといえば馬鹿々々しい話ではあるが、色事だけに走る人間の姿というのは、もともと滑稽なものである。だからといって、その滑稽さが悪いというのではない。そういう機敏を山岡荘八は面白く描いているのである。

 第三話「かけおち奇薬」は巨根の医者が体の相性がいい女を得るために奮闘していく話で、その女の亭主がまた並みよりも小さい物持ちで、つまるところは身体的相性よりも精神的相性へと落ち着き、それがやがて身体的相性にもなっていくというものである。

 第四話「おいらん裁き」は、稲荷神社の化身だと称して武家の妻となった女が不義を働くが、どこまでも自分は狐であり、人の法ではさばけないことを主張し、この不義密通事件を裁くことになった大岡越前守忠相とその女性との知恵比べのような展開で、相手の主張をうまく取り入れることで名裁きを見せていく姿が描かれるのである。

 第五話「美人そろばん」は、強盗に入られた質屋に残されていたのが、裸の美女と、彼女を質札とする大岡越前守忠相の名が入った証文で、そこに徳川吉宗のいたずらと、それを見事にひっくり返していく大岡越前守の姿が展開されているのである。

 ここで、第三話から第五話までのあらすじを簡略にしたのは、ここに収めれれている作品のいずれもが、男と女の滑稽な姿を、しかも滑稽な筆致で同じように描き出されているからで、用語の使用にも遊び心が満載で、「息抜き」あるいは「気楽」に綴られたものだからである。作家が作品で遊ぶ、そういう作品もありかなと、本作を読んで思ったりする。