2012年8月24日金曜日

池端洋介『御畳奉行秘録 吉宗の陰謀』


 うだるような暑さが続いて、残暑の厳しさがひときわ感じられてならない。陽射しが強烈に、まさにジリジリと照りつける。忘れないうちにと思い、出先で弟のPCを借りてこれを記している。

 以前、池端洋介『養子侍ため息日記』の二冊を読んで、その丸みのある独特の作風が面白く、また、発想もなかなかのものだったので、『御畳奉行秘録 吉宗の陰謀』(2009年 静山社文庫)を読んでみた。「御畳奉行」という職名も聞きなれなかったし、城中の畳の管理をするという役職は、おそらく端役に違いなく、それを主人公に据えるあたりに作者の気風のようなものを感じて読み始めた次第である。

 そして、期待通りの面白さだったし、物語の場所も、尾張名古屋という独特なもので、尾張徳川家といえば紀州徳川家と将軍位をめぐっての熾烈な争いを繰り返していったが、御三家筆頭でありながらもついに将軍を出すことができず、特に七代藩主の徳川宗春は反骨精神にとんだ自由闊達で、独自の人物であった人で、そういう人間を生み出す気風というのもが尾張名古屋で培われたことを思うと、尾張のあり方は、なかなか考えさせるものがあると思っていた。

 その七代藩主徳川宗春のずっと以前の、二代藩主光友(みつとも)から三代藩主綱誠(つななり)、そして四代藩主となった吉通(よしみち)の時代で、表題にあるとおり、江戸幕府七代将軍徳川家継が将軍位を継ぐとき、家継が幼少であったために尾張の徳川吉通の名前が将軍位として挙がり、新井白石らの進言で、結局、家継が将軍位を継いだわけだが、その家継がわずか7歳(享年8歳)で死去したために、再び将軍位を巡って尾張の徳川吉通と紀州徳川家の血統であった徳川吉宗が争うことになり、結局、徳川吉宗が第八代将軍となった出来事が起こった。本書はその出来事を背景としたものである。

 江戸幕府中興の祖とか名君と謳われたりした徳川吉宗であったが、紀州藩主となり将軍となっていくに当たっては、さまざまな権謀術策があったともいわれ、特に尾張徳川家との確執は激しく、相互に陰謀を張り巡らしていたとも言われている。そのあたりは、どちらかの側に立った時代小説でよく取り上げられる題材であるが、本書は、その尾張徳川家の家臣で、元禄4年(1691年)から享保2年(1718年)の26年8ヶ月に渡って37200万字にも及ぶ克明な日記である「鸚鵡籠中記」を書き続けた朝日文左衛門(重章 しげあき 16741718年)を主人公として、紀州徳川家、特に吉宗がまだ松平頼方と名乗っていたときに、尾張徳川家を失墜させようとした数々の事柄の中で、藩の命運に関わる事柄に関わりつつ藩の危機を救っていったとして物語を展開させるのである。

 朝日文左衛門(重章)が家督を継いだのが元禄7年(1694年)20歳の時で、その時の知行は父親と同じ100石の下級武士で、御畳奉行を拝命したのは、元禄13年(1700年)で役料は40俵に過ぎなかったから、奉行とはいえ、藩政の端役に過ぎなかったといえるであろう。軟弱で大酒飲みであるにもかかわらず、その筆先には、辛辣なことも素直に書き記す物事にとらわれない自由さが満ち溢れているから、いわば、愛すべき人物であったのだろうと思う。

 本書は、その朝日文左衛門が御畳奉行を拝命するところから始まる。彼が御畳奉行となったのは、「大殿」と呼ばれた隠居した二代藩主徳川光友(16251700年)の意向が働いたもので、彼を見込んだ光友が、たいした仕事がなくて比較的自由の利く御畳奉行にして、尾張藩を貶めようとする紀州藩の策略から四代藩主となった幼い徳川吉通を守るように密命を受けていくという展開になっていく。元禄6年(1693年)に光友の後をついで第三代藩主となった徳川綱誠がわずか6年の元禄12年(1699年)に急死したことにも、光友は紀州藩の策謀があったことを感じ、尾張藩の危機を感じていたのである。

 朝日文左衛門が徳川光友から人物を見込まれていく過程については、大和書房から文庫書下ろしで出されている『元禄御畳奉行秘聞 幼君暗殺事件』(2009年2月)に記されているが、本書が出されたのが200911月で、それにもかかわらず、本書の文庫本カバーで「シリーズ第一弾」と銘打たれているのは、出版社の違いとはいえ、あまりよいことではないと思いつつも、朝日文左衛門がまだ家督を継ぐ前に、弓術師範の娘「けい(慶)」と結婚し、家督相続の許しを得ようと名古屋城に日参しているときに、三代藩主徳川綱誠の子であり、暗殺者の手から逃げていた幼い吉通(幼名 藪太郎)と遭遇し、彼を吉通とは知らないままに保護して一緒に暮らし、それが思わず吉通を守ることにつながっていったことによる。そのあたりのことは、また、大和書房版『元禄御畳奉行秘聞 幼君暗殺事件』を読んだときに記していくことにするが、引退した「大殿」の徳川光友は、子である三代藩主綱誠の急死に不審を感じており、なんとしても紀州の手から尾張を守り、四代藩主となった幼い吉通を守るために、見聞が広く勘の鋭い朝日文左衛門に尾張の策謀を暴くように密命を与えるのである。

 朝日文左衛門は、幼馴染であり、また酒飲み友だちでもある加藤平左衛門らの協力を得ながら密かに密命を果たしていく。加藤平左衛門は馬顔で長刀の使い手だが、朝日文左衛門は剣の腕はさっぱりだめだと自分では思っている。そのほかにも、本書では、相原政之右衛門という飲み友だち、腕利きの目明しの庄三郎などが登場するし、おしとやかな娘であった「お慶」が子どもを産んで気の強い嫁となり、その「お慶」に気を使いながら生きていく姿が描かれたり、実際に朝日文左衛門が師と仰いだ天野源蔵(信景 さだかげ 16631733年)が力強い協力者として登場したりしているし、何よりも文章にユーモアがあるので全体的に面白さが満ちている。

 事件は、朝日文左衛門が自分の日記である「鸚鵡籠中記」を読み返して、不審火が次々と起こっていることに気づき、続いて犬猫の死骸が重臣や旗本の屋敷に投げ込まれるという事件が続いていくことに不審を抱き始めるところから始まっていく。五代将軍徳川綱吉が出した「生類憐みの令」によって、犬猫の死骸が多発することは尾張藩の立場を悪くすることで、三代藩主であった綱誠の急死にも不審を感じて心を痛めていた「大殿」である光友は、名古屋城下の見聞に明るい朝日文左衛門を御畳奉行にして、紀州の陰謀を暴くように密命を与え、朝日文左衛門はそれらの一連の出来事に紀州藩の忍びの影を感じていくのである。

 そして、事実、それらは紀州藩から送り込まれた忍びの仕業で、朝日文左衛門は加藤平左衛門や目明しの庄三郎、天野源蔵や奉行所同心の助力を得て、その忍びたちの隠れ家を探し出して捕らえていくのである。しかし、事件はそれだけでは終わらない。彼の御畳奉行の職務に関することで、名古屋城の畳を収めていた商人たちが畳の仕入れを安く仕上げるために紀州の畳職人を使い、その畳職人になりすませた紀州藩の忍びが畳に毒を仕込むというやり方で出てくるのである。

 畳職人の饗応に応じ、そこに招かれていた「おその」という色っぽい湯女にうつつを抜かしつつも、畳商人たちの話から、そのことに気づき、光友暗殺の陰謀も知り、江戸にいる吉通の暗殺計画も知っていくのである。朝日文左衛門は、毒が仕込まれた畳を暴いていくが、光友は病に倒れる。そして、偶然、紀州の忍びの暗殺者たちが江戸の吉通を暗殺することを話しているのを目撃した朝日文左衛門は、吉通の命を守るために急遽、加藤平左衛門と共に江戸に向かうのである。朝日文左衛門と徳川吉通は、吉通がまだ藪太郎だったころから、文左衛門が藪太郎の素性を知らずに、一緒に魚捕りをしたりした中で、文左衛門は藪太郎(吉通)を自分の子どもか幼い弟のように思っていたし、吉通も文左衛門を頼りとし深く信頼していた。そして、文左衛門はかろうじて吉通の命を暗殺者の手から守り、暗殺者を誅するのである。朝日文左衛門は、自分では剣の腕など少しもなく、小心者でおどおどしていると思っているが、いざとなったら無意識のうちに体が動く「きまぐれ秘剣」を使うことができるとされているが、本人は偶然の出来事に過ぎないという自覚しかない。

 ともあれ、こうして、吉通の暗殺事件は、後の徳川吉宗となる松平頼方が仕掛けたものであったが、見事に失敗し、そこに朝日文左衛門の働きがあったことが語られるのだが、その朝日文左衛門の立ち位置が次のような言葉で語られる場面があり、それがこの物語の主人公を通して作者が描きたい人間像だと思われるから、以下に抜書きしておこう。

 「この世で権力を握れる人間なんて、ごくひと握りさ。あとはそいつらに追従するふた握りの人間と、さらにそれらに追従して生きていくしかない圧倒的な残りの人間しかないんだ」
 「・・・・・・・・」
 「だけどな。もうひと握り、特別な人間たちがいる」
 「どういう意味だ。貴様、酔ったな」
 「身分の差など考えず、おのれの利益も考えず、死を賭して、この世に棲む人間たちさ」(252ページ)。

 作者は朝日文左衛門をこういう人間に仕上げて描き出そうとするのであろう。そして、わたし自身もこういう人間には惜しみなく拍手喝采を浴びせたいと思っているから、本書を痛快に読むのだろうと思う。これは、先にも触れたように大和書房からもシリーズとして出されているから、少し続けて読んでみたいと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿