2012年8月17日金曜日

中村彰彦『北風の軍師たち 上下』


 厳しい残暑が続いているが、それでもミンミンゼミが鳴き始め、九州からはアキアカネが飛び始めたとの便りがあった。晩夏の気配を虫たちは感じ始めているのだろう。だが、すこぶる暑いことに変わりはない。夏バテ気味でこの夏を過ごしてきた気がしないでもない。朝から陽射しが強い。

 それはともかく、江戸時代の幕藩体制の中で、徳川幕府はその体制の強化のためや幕府支配の威光を示すために、大名家の領地替えというのを度々行い、三つの大名家の領地を同時に替える三方領地替えや、時には四つの藩の領地を替える四方領地替えというのも行っているが、天保11年(1840年)に画策された三方領地替えは、まれに見る失敗例としてよく知られている。

 これは、川越藩主松平斉典(なりつね)を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器(ただかた)を越後の長岡へ、そして、長岡藩主牧野忠雅(ただまさ)を川越へ転封しようとしたもので、天保8年(1837年)に第十一代将軍徳川家斉は次男の家慶に将軍位を譲ったが、大御所として実権は握ったままで、その意を受けて老中首座であった水野忠邦が行なおうとしたものである。

 財政破綻状態が続いて莫大な借金に喘いでいた川越藩主松平斉典は、徳川家斉の51番目の子である紀五郎(斉省-なりやす)を養子に貰い受けることで裕福な庄内藩への領土替えを画策し、大奥などに手を回して家斉を説き伏せ、二藩だけによる領地替えだと川越藩の画策があまりに露骨なために、越後の長岡藩を巻き込んでの三方領地替えを水野忠邦が発案して、天保11年(1840年)11月に幕命を下したのである。

 長岡藩を巻き込んだのは、天保8年(1837年)の「モリソン号事件」などによって脅かされてきた海防の強化の必要性から、領地替えに便乗して長岡の良港であった新潟港や庄内の酒田港を天領にしようとする水野忠邦の意図があったとも言われている。

 しかし、領民に対して比較的良政を行ってきた庄内藩の酒井家の下にあった農民たちにとって、この三方領地替えの話は大きな動揺を引き起こすことになった。借金だらけの川越藩松平斉典が領主になると重い税を課せられ、餓死者が出るようになることを感じたのである。その危機感が増大して、この三方領地替えを撤回させようと、江戸に上って命懸けで幕閣に駕籠訴(登城したり下城したりする幕閣が乗る駕籠に嘆願を直接訴えること)を繰り返し、このことを快く思っていなかった諸大名の働きかけなどもあり、ついに、この三方領地替えは撤回されることになるのである。

 幕命が撤回されることは前代未聞の出来事でもあり、この出来事は「天保義民事件」とか「庄内騒動」とか呼ばれており、藤沢周平が『義民が駆ける』という作品を書いていた。

 この事件を、比較的客観的に描き出そうとした中村彰彦『北風の軍師たち 上下』(2006年 中央公論新社)を、少し時間をかけて読んでいた。

 作者自身の「あとがき」によれば、この出来事に関係した人物たちを描くために、回り舞台に見立てて様々な人物が回転木馬のように登場していくような「メリーゴーランド・スタイル」と呼ばれるような小説作法を採用したということで、徳川家斉や水野忠邦、あるいは川越藩や庄内藩のそれぞれの人物たち、そして幕府の横暴に毅然と立ち上がっていった庄内での農民の指導者であった玉龍寺の文隣、庄内出身で管財の才を江戸で発揮して、いわば経営コンサルタントのようなことをしていた佐藤藤佐(とうすけ)、当時の江戸町奉行で、庄内の百姓たちに温情ある裁きをし、出来事の決着に導いた矢部定謙などの姿が、実に詳細にわたって描き出されている。

 また、物語の引き回し役として、川越藩の下級の隠密と空を飛ぶことに熱中して「飛行器」を作成していくその弟などを設定することで、庄内藩の商人たちの状況、それぞれの城下町の状況などをうまく盛り込んで、三方領地替えに携わる者たちの無謀さやこれに反旗を翻した庄内藩の住民たちの姿が浮かび上がるように描かれている。

 物語は、財政破綻の窮乏にあえぐ川越藩が、家斉の第51番目の子である紀五郎を養子に迎え、付届け(賄賂)と大奥への策謀によって、三方領地替えが起こるところから始まる。そして、そのことの内諾を受けて、川越藩の下級隠密が庄内藩に内情の下調べを行いに出かけるところへと展開していく。

 また、庄内藩では、玉龍寺の文隣を中心にして、「天狗」と称しながら藩内の百姓たちをまとめていく過程が詳細に描かれていく。文隣らは、「天狗廻状」というのを各農村に回しながら、三方領地替えの阻止に向かって駕籠訴を繰り返していくのである。通常、駕籠訴の訴人は厳罰に処せられるのだが、「酒井家が自分たちのことを大事にしてくれたので、その酒井家に出て行って欲しくない」、「百姓も二君にまみえず」と訴えたため、その忠義が江戸の人々や諸大名たちに好意をもって受け取られたのである。その知恵を出したのが、玉龍時の文隣であったのである。

 江戸で財務コンサルタントのような仕事をして諸大名に信頼されていた佐藤藤佐は、この庄内の百姓たちの側に立って、一揆も辞さない死を賭す情勢を作り上げるように助言をし、文隣たちは数万にものぼる百姓たちを集めていくのである。そして、川越藩が庄内に移封されて農民に対して税を重くするなどの圧政を敷いたなら一揆も辞さない構えを取るのである。

 そして、佐藤藤佐は、最も信頼できる武士として矢部定謙に白羽の矢を立て、彼に庄内藩の内情と三方領地替えが行われたいきさつが全くの私情によるものであることを告げて、助力を願うのである。

 矢部定謙は勘定奉行のときに老中首座である水野忠邦に江戸城二の丸の再建計画が無謀であるとの意見をし、幕閣から退けられていたが、家斉の死後に家斉側近たちの粛清に伴い、再び江戸町奉行として登用されることになり、この三方領地替えについての撤回を主張していくのである。

 こうして、一方では庄内藩内における百姓たちの一揆の準備、他方では、幕閣やほかの有力諸大名への働きかけを展開して、ついに、天保12年(1841年)にこの幕命は撤回され、庄内藩は酒田家のままとなり、百姓たちが勝利を収めるのである。

 こうした経過が実に丹念に歴史的検証を経て本書で綴られていく。ただ、作者が「メリーゴーランド・スタイル」と呼ぶ小説作法のためか、あるいは作者自身の特質なのか、人物たちの歴史的エピソードや歴史的事象、あるいは状況の詳細な記述のわりに、今ひとつ人物が生き生きと浮かび上がってこないきらいがあるようにしてならないのが少し残念で、出来事そのものは明瞭にわかっても、人間の深みがあまり展開されていない気がした。小説としての物語性をどこに置くのかという問題かもしれないが、私のような読者にとっては、望み過ぎかもしれないが、ほんの少しが物足りなさを感じた作品だった。

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