2012年8月13日月曜日

上田秀人『刃傷 奥祐筆秘帳』


 毎年この時期は帰省されたり夏休みを取られたりして人が少なく、街は比較的静かになる。オリンピックも終わって、季節は晩夏に入るだろう。田舎であれば、アキアカネが飛び、蜩が鳴き始めることである。だが、まだまだ暑い。

 先週末、上田秀人『刃傷 奥祐筆秘帳』(2011年 講談社文庫)を面白く読んだ。文庫本カバーの裏によれば、これはこのシリーズの八作品目の作品で、以前にも、ここには記していないかもしれないが、何冊かこのシリーズを読んでいて、テンポのいい文章と展開でかなり面白く読んでいた。

 奥祐筆は江戸幕府のすべての公式文書に携わる書記官で、特に五代将軍徳川綱吉がそれまで幕閣に握られていた幕政を取り戻すために、側近の者たちを中心にして奥祐筆を設けて、幕府のすべての文書を奥祐筆の手を経るように命じたことで生じた役職であった。奥祐筆は老中若年寄の支配下にあり、地位は低かったが、秘密文書の作成や管理なども行い、諸大名が書状を差し出すときには、必ず事前に奥祐筆によってその内容が確認され、手加減しだいで書状が認められるかどうかの権限をもつようになっていったから、掌握している権力は相当のものがあった。いわば、江戸幕府の許認可権を一手にもっていた幕政の中枢的存在であったのである。奥祐筆組頭の役高は400石、役料200俵と優遇されていたが、それだけではなく、認可を得ようとする諸大名からの付届け(賄賂)もかなりのものがあり、大身の旗本以上のものがあったとも言われている。

 この奥祐筆を中心にして物語が展開されるのだから、当然、幕政を巡る権力闘争が描かれるのは明らかであるが、時はオットセイ将軍の異名をとった第十一代将軍徳川家斉(11731841年)の時代、老中松平定信が寛政の改革を失敗し、家斉が父親の一橋治済と協力して松平定信を失脚させて、老中首座として松平信明を任命した時代である。この時代は、失脚したとはいえ、松平定信は八代将軍徳川吉宗の孫であり、なお幕政に対しての強い影響力を持ち、また、他方では徳川家斉の父親の一橋治済が将軍の父としての権力を持ち、それ以上に自ら将軍位を得ようと暗躍する状態の中で、家斉は女色に溺れつつも権力掌握には並々ならぬ執着をもっていた時代であった。

 こういう時代背景を下に、本書は、奥祐筆組頭として幕政の闇に触れていった立花併右衛門を巡る争いを展開するもので、彼に秘密や弱みを握られていた者たちによる襲撃が次々と行われ、隣家の旗本の次男坊(いわゆる冷や飯食い)で、剣の腕が抜群に優れている柊衛悟を護衛役として雇うことで身を守っていく姿が描かれるのである。立花併右衛門には一人娘の「瑞紀(みずき)」がいて、「瑞紀」と衛悟は幼馴染であり、立花併右衛門は次第に柊衛悟の人柄にも触れて、やがては彼を婿養子にしたいと思うようになっていく。

 本書は、その立花併右衛門が、伊賀者の公金使用を調べていると早合点した伊賀者が、立花併右衛門を陥れようと殿中で刀を抜かせる刃傷事件を起こすところから始まる。伊賀者は徳川家康に取り立てられたあと、次第にその力を失って冷遇され、八代将軍徳川吉宗が隠密組織としての公儀お庭番を設置してからは、忍としての力を発揮する隠密業務からも外され、その地位はか細い糸のようなものでしかなかった。ここで奥祐筆の手によって公金使用が発覚すると改易(クビになること)は間違いなく、立花併右衛門を度々襲っていたが、その都度、柊衛悟によって退けられていたのである。

 殿中で立花併右衛門は襲われ、鞘ごと脇差を抜いて対応するが、その脇差の鞘が割れてしまい、殿中刃傷事件として彼は捕らえられて、立花家は閉門させられる。老中の中にも彼に弱みを握られている者がおり、先の老中首座であった松平定信も、自分の権力掌握には邪魔になると考えていたので、立花併右衛門の切腹は間違いないとされていた。

 しかし、将軍徳川家斉は、台頭してこようとする執政たちや松平定信、将軍位を狙って暗躍している父親の一橋治済を押さえ込むために立花併右衛門の存在が必要であり、彼を評定所(最高裁判)での裁きに回すのである。家斉はその時に松平定信を利用したりもする。しかし、その評定所で、立花併右衛門は奥祐筆らしく先例をすべて調べ上げ、殿中での刃傷事件で襲われた方はいっさい咎めがなかったことを申し述べて、無罪放免を勝ち取っていくのである。

 このシリーズで、徳川家斉は手先として公儀お庭番を使い、一橋治済は甲賀忍者を使い、やがて松平定信が伊賀忍者を使い、それだけではなく各大名たちが手練の者たちを使ったり、かたや朝廷側の寛永寺法主とその配下が登場したりして、それぞれがそれぞれの利害をかけて柊衛悟と活劇を繰り返したり、尾張藩や水戸藩の暗躍が描かりたりして、それぞれの権謀術作が激しく描かれていく。その中で、柊衛悟と「瑞紀」の恋もあり、エンターテイメントの要素が満載されて、それが無理なくテンポよく進んでいく。

 大方の歴史的な人物像は通説によっているとはいえ、物語としては抜群の面白さがあり、一気に読ませる力量のある作品になっている。この作者は、ほかの作品でもそうだが、かなりしっかりした時代背景を踏まえて人物を描くので、その展開だけでも非常に面白いものになっているのである。現在のところ、比較的安心して面白く読める時代小説のひとつだと言えるのではないだろうか。

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