今日は静かに「平和を祈る」ことから始めた。「ヒロシマ」というカタカナ表記を、わたしは特別な思いをもって使っているが、排除の論理で動く争いや戦争という馬鹿げた行為の善悪ではなく、深い人間の「業」と「哀しさ」を感じざるを得ない。排除ではなく受容こそが人間の未来を拓くことを改めて考えたりする。
それはともかく、軽妙な語り口調で軽妙な物語を綴られた山岡荘八『風流奉行』(2006年 徳間文庫)を「へぇ、こんな作品もあったのだ」と思いながら読んだ。なぜなら、山岡荘八は十八年の長きに渡って大著『徳川家康』を著し、重厚な歴史小説を書く人だと思っていたからで、彼の『徳川家康』は、もはや家康を語る際の底本のようになっており、その仕事ぶりは真に誠実で丁寧で、その印象があまりに強いからである。
山岡荘八は、1907年(明治40年)に新潟県に生まれ、いくつかの変遷を経て、1934年(昭和9年)ごろから作家活動を始め、第二次世界大戦中は従軍作家となったために、戦後に公職追放令を受け、1950年(昭和25年)にようやく追放令が解除されると、以後ほぼ18年に渡って大著『徳川家康』の執筆に取り組んだ人である。1978年(昭和53年)に死去するまで、多くの歴史的人物を掘り下げた優れた作品を書き続け、その仕事ぶりはまことに誠実であった。
その山岡荘八が、いわば遊び心満載の本書を出したのは1957年(昭和32年)で、本書はその復刻版である。これは、大岡裁きなどで名奉行として著名になった大岡越前守忠相の粋な名裁きを綴った短編五作からなるもので、特に男女の色事に関わる事柄を滑稽味たっぷりに描いたものである。
第一話「添い寝籠」は、暑い夜にひやりとした感触を味わうために用いられた「竹婦人」と粋な名のつく竹製の抱き枕の話から、「竹婦人」のように体温が低くて抱き心地がよいと噂される美貌の後家を巡る恋の争奪戦に大岡越前守忠相が絡んでいく話である。
海山物問屋の相模屋の後家となった「お菊」は、もともと六大将軍家宣の頃に大奥女中として勤め、家宣の死後も、通常は将軍のお手のついた奥女中は尼となるのだが、なぜかそのまま奥女中を勤め、四歳で七大将軍となった家継が八歳で亡くなったあとも、八代将軍徳川吉宗に仕えた女性だった。だが、家宣も吉宗も、彼女を暑い時のひやりとした感触を楽しむためだけに添い寝させただけであり、その後宿下がりをして、海山物問屋の相模屋徳兵衛の後妻となったのである。ところが嫁ぐとまもなくして徳兵衛が死に、「お菊」の体温が低いために、その「お菊」から朝夕に絡みつかれたために、徳兵衛が冷え切って死んだという噂が流れ、相模屋の寮に逼塞していたのだが、彼女を巡って、大名家の隠居、歌舞伎役者、浪人が、何とかして彼女をモノにしようと競い合うのである。
大名家の隠居は、怨霊や生霊の話をでっち上げて、歌舞伎役者を退けるが、浪人はしたたかで、ついに、時の人であった大岡越前守が「お菊」のもとに通っていると嘘をでっち上げ、浪人撃退のために大岡越前守を使おうと画策するのである。大岡越前守は、自分のことでもあるので、自らその真相の探索に乗り出し、真相を究明していくのである。お白州(裁判)で、あの手この手で知恵を使って「お菊」と契ったと言い張り、それによって仕官の道を得ようとする浪人に、「お菊」が自分は両性具有者だと言ったところ、浪人はそれを知っていると言い出し、実はそれは「お菊」の嘘であることが明らかになって、浪人の主張が崩れ去っていく過程が面白おかしく描かれていく。
第二話「業平灯篭」は、商家の女房が自分の浮気を誤魔化すために考え出した嘘を暴いていく話で、男が女になったり、女が男になったりするという奇想天外な話の裏にある男女の出来事を綴ったものである。
話の発端からして男根像が秘仏である寺が出てきて、その寺の若い僧である「尚然」が、自殺した先妻の娘の相談を後妻から受けるという話で始まる。商家の後妻である「おさわ」は先妻の娘が自殺したことには訳があって、娘が惚れた相手は歌舞伎役者の伊三郎だったが、伊三郎は立派な役者になるまでは女を断つという願掛けをしていると断り、釣灯篭を送ってよこしたので、腹を立てた「おさわ」は娘を振った伊三郎に会いにいくが、伊三郎は、今度は娘よりも「おさわ」がいいと言い出したりしたのである。そのため、先妻の娘は悋気で「おっ母さんがあの人に手を触れたら、あの人をいっぺんに、男では女にしてしまう」と言い残して死んでしまうのである。先妻の娘は身ごもっていた。
それで、「おさわ」は、再び伊三郎を呼び出したところ、その伊三郎に対して欲情を抱いて触れると、先妻の娘の恨みからか、伊三郎が女になったというのである。それ以後「おさわ」は、伊三郎と寝ている夢を見て、秘所を触ってみると女であるという夢を見続けており、その呪いを解いて欲しいと言うのである。加えて、先妻の娘の弟も衆道癖をもつようになって伊三郎に惚れているから、やっかいになってきたとも言うのである。
相談を受けた「尚然」は事の真相を確かめようとして伊三郎に会う。だが、伊三郎に欲情を抱いてしまい、僧は女犯の罪はあるが、相手が男ならその罪を犯さないことになると挑みかかる。しかし、伊三郎もまた、女を断つと願掛けして、それを破ったら女になっても良いと誓っていたので、「尚然」が伊三郎に触れると彼は女になってしまったのである。そして、自分は「おさわ」に触れられた時に女になったが、男に戻っていた。懲らしめのために女になったのだから、今度は仏罰を解くために、呆れるほど女になってよかったと思うようになって、罰が罰でなくなれば良いと「尚然」と伊三郎は契り続けるのである。「尚然」は寺の秘仏も和尚の金も盗み出して、女になった伊三郎と契り続け、痩せ衰えていく。
そして、寺の和尚が、「おさわ」と伊三郎が先妻の娘を孕ませて死に至らせ、その弟まで虜にして商家の乗っ取りを企んでいるからこれを取り締まって欲しいと訴えであるのである。こうしてこの事件が大岡越前守の裁きの対象となっていくというものである。
この事件の結末は、先妻の娘の懐妊は、伊三郎に振られた娘に「おさわ」がほかの男を偲んでこさせて懐妊させたものであり、伊三郎はもともとが女で、生きる術として男に身なりを変えて役者になっていたのであり、「尚然」と伊三郎は夫婦となって駆け落ちするというものである。
馬鹿々々しいといえば馬鹿々々しい話ではあるが、色事だけに走る人間の姿というのは、もともと滑稽なものである。だからといって、その滑稽さが悪いというのではない。そういう機敏を山岡荘八は面白く描いているのである。
第三話「かけおち奇薬」は巨根の医者が体の相性がいい女を得るために奮闘していく話で、その女の亭主がまた並みよりも小さい物持ちで、つまるところは身体的相性よりも精神的相性へと落ち着き、それがやがて身体的相性にもなっていくというものである。
第四話「おいらん裁き」は、稲荷神社の化身だと称して武家の妻となった女が不義を働くが、どこまでも自分は狐であり、人の法ではさばけないことを主張し、この不義密通事件を裁くことになった大岡越前守忠相とその女性との知恵比べのような展開で、相手の主張をうまく取り入れることで名裁きを見せていく姿が描かれるのである。
第五話「美人そろばん」は、強盗に入られた質屋に残されていたのが、裸の美女と、彼女を質札とする大岡越前守忠相の名が入った証文で、そこに徳川吉宗のいたずらと、それを見事にひっくり返していく大岡越前守の姿が展開されているのである。
ここで、第三話から第五話までのあらすじを簡略にしたのは、ここに収めれれている作品のいずれもが、男と女の滑稽な姿を、しかも滑稽な筆致で同じように描き出されているからで、用語の使用にも遊び心が満載で、「息抜き」あるいは「気楽」に綴られたものだからである。作家が作品で遊ぶ、そういう作品もありかなと、本作を読んで思ったりする。
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