2013年10月4日金曜日

宮部みゆき『桜ほうさら』(2)

 神無月を迎えた。天候の変化の激しい日々が続いたので、これから少し穏やかな秋の日和の日々になって欲しいと願っているが、今日は曇って肌寒く、今にも雨が降りだしそうである。今日はこれから三鷹まで出かけ、夜は吉祥寺での打ち合わせ会があり、少し慌ただしい。身辺も慌ただしくなっているが、こちらの方は「ケセラセラ」である。

 さて、宮部みゆき『桜ほうさら』(2013年 PHP研究所)の続きである。本書には、もちろん、主人公古橋笙之介の人間性を表す箇所がたくさん記されていて、随所でその人柄がじんわりと感じられるような物語になっていが、たとえば、貸本屋の村田屋治兵衛が出入りしている貸席屋(場所を貸す商売)の三河屋の一人娘が行くへ不明になる事件に笙之介が関わっていく出来事が記されている箇所がある。治兵衛自身が、若い頃に、愛する妻が突然行くへ不明となり、半月後に殺されて遺体で発見されるという痛みを抱えていた。治兵衛は、その自分の痛みと娘が突然いなくなった両親の痛みを重ね合わせて、三河屋の娘の行くへを探し、笙之介にも手伝いを依頼するのである。その時に、治兵衛は自分の妻が殺された事件を笙之介に話すが、その時の場面が次のような描写になっている。

 「今、治兵衛がこうして語っているのも、実は笙之介に洗いざらい聞かせるためではなく、新しく起こった拐かしに、抑えても抑えても蘇ってくる二十五年前の苦しい想いを、いっぺん口から吐き出してしまわないと、まともに呼吸をすることもできないからではないか。
 仏壇と、そこに納められている亡妻の位牌を見つめる治兵衛の目は乾いている。眼差しは揺れている。そこにいるおとよ(亡妻)の魂と、別れの辛かったことを、今も互の想いは続いていることを、うなずき合って確かめているかのようだと、笙之介は思った」(327ページ)。

 ここで描かれているのは、大切なものを失った者の微妙な心のひだである。その心の機敏を笙之介が感じることができる人間として描かれているのである。宮部みゆきの表現の豊かさがこういうさりげない描写に溢れている気がするのである。

 この拐かし事件そのものは、やがて狂言によるものであることが笙之介によって明らかにされていくが、笙之介は、「嘘をつくなら、一生その鈎(かぎ)を心に食い込ませたまま生きようと思うときだけにしろ、それほど重大な嘘だけにしろ」という父親の言葉を思い出す(383ページ)。それほど、笙之介は物事をまっすぐに見て、そこで生きようとする人間なのである。

 彼は和香と、「人は目で物を見る。だが、見たものを留めるのは心だ。人が生きるということは、目で見たものを心に留めてゆくことの積み重ねであり、心もそれによって育っていく。心が、ものを見ることに長けてゆく。目は、ものを見るだけだが、心は見たものを解釈する。その解釈が、時には目で見るものと食い違うことだって出てくるのだ」(430ページ)ということを話し合っていく。こういうことを話せる笙之介と和香が、物事の機敏を感じる人間であることが記されているのである。

 笙之介は、たとえ誰が信じなくても、自分だけであっても、父親のこうむったのが冤罪であり、その事件には裏があったことを信じて、真相に迫っていく。こうして、人の筆跡をそっくり真似て人を陥れることを面白がるねじ切れた代書屋を探し出し、物語は山場を迎えていく。すべては、藩の勢力争いに加担して功を焦った兄によって行われたことが分かり、笙之介自身、その兄に斬られてしまうのである。

 だが、和香や周囲の人々の必死の介護で一命を取り留め、笙之介は、飢饉の時の救済法を記した書物を出したいと考えるようになり、和香もまた、彼とともに生きていくことが示唆されて物語が終わる。

 この作品には、さりげなさの豊かさと温かさが溢れていて、宮部みゆきらしい作品になっていると思う。こういう物語の表現は彼女の『日暮し』にもよく表れていて、人物描写の豊かさが感じられる温かい作品だと思う。

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