2010年4月13日火曜日

佐藤雅美『浜町河岸の生き神様 縮尻鏡三郎』

 昨日一日中降り続いた雨が上がって、日中は初夏を思わせる暖かい日になった。しかし、明日からまた二日ほど寒くなるという。寒暖の差が激しくて、また季節が狂っていっているような気がする。晴れ間が久しぶりだったので、朝からシーツを洗濯したり掃除をしたり、途中で入る電話やFAXへの応対を挟み、銀行と証券会社へ出かけ、ついでにレンタルビデオショップへも行ってきた。

 金曜日(9日)に作家の井上ひさし氏の訃報を聞いて、とても残念に思う。確かつい最近執筆中の作品の延期が申し出られたはずだったが、やはり病が相当重かったのだろう。初期の『モッキンポット師の後始末』(1972年 講談社)や『吉里吉里人』(1981年 新潮社)、『腹鼓記』(1985年 新潮社)など、本当に面白く、また意味深く読んだ。中でも圧巻は『吉里吉里人』だったし、地域が独立できるという夢を与えた。まさに、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」の作品だった。作品への執念も相当強く、それが晩年離婚した奥さんによって「家庭内暴力」となっていたことが暴露されたりしたが、彼が描いた作品の世界は、意味深いものであった。

 同じ日に召天されたK氏の「お別れ式」を5月の中旬にもつという連絡が入ったので、5月にまた九州に行くことにした。

 それらの事柄は別にして、昨日、佐藤雅美『浜町河岸の生き神様 縮尻鏡三郎』(2005年 文藝春秋社 2008年 文春文庫)を読んだ。これは、このシリーズの3作目で、懸命に努力して御勘定留役(大蔵・財務省高級官僚)にまでなった主人公の拝郷鏡三郎が、政争の側杖を食って失職し、閑職の大番屋元締(仮牢-留置場-の責任者)として日々を過ごす中で、江戸市中で起こる争いや事件、身内の出来事などに関わっていくというもので、主人公が活躍して事件を解決するというのでもなく、また事件が明快に勧善懲悪で解決されるというのでもなく、人の世の「色と欲」に絡む出来事が主人公の日常の中で語られていく。「縮尻」は「しくじり」と読み、人生に失敗した人間という意味である。

 しかし、これが絶妙なペーソスで語られ、一応の安定と太平を見せた天保年間(1830-1843年)の封建制度の中での江戸の社会背景を的確に踏まえたうえで人々の暮らしとして述べられていくところに面白みがあり、作者は江戸時代の公事訴訟(民事裁判)に詳しく、それらの判例から事件がとられているので、「生きた人間」のリアリティーがよく現れている。

 本書には、「破鍋に綴蓋」、「さりとはの分別者」、「お構い者の行く末」、「思い立ったが吉日」、「似た者どうしの放蕩の血」、「踏み留まった心中者の魂魄」、「浜町河岸の生き神様」、「御家人花房菊次郎の覚悟」の八編が収められているが、第一話の「破鍋に綴蓋」で手習い所の師匠として生きている主人公のひとり娘と「脇が甘い」と思われているその夫のことが述べられているほかは、江戸市中で起こった家の普請にまつわる公事、妻と娘を殺された武士の復讐にまつわる話、商家の主が死んだと思って夫婦になったのに、その主人が生きていたという話、放蕩して家を潰し、蔵書を売りさばいて放蕩を続ける男たちの話、心中に見せかけた殺人が発覚する話、貧苦にあえぐ大名家の借金踏み倒しの話、家の売買を利用した取り込み詐欺事件の話など、それぞれが裁判所や勘定所で取り扱われていた話の顛末が述べられ、それらはまさに「色と欲」に翻弄される人間の話である。

 こうした生臭い話を、主人公は行きつけの「ももんじ屋」(肉を食べさせる店)で、友人の同心や剣道場主と、うまい肉鍋をつつきながら話をしたり、解決のヒントをえたりしていくのである。主人公は外食と梯子酒が過ぎるので、奥方から外食は3日に一度と釘を刺されているが、中年を過ぎて老年期に差し掛かった「縮尻(しくじり)」人生を歩む姿も独特なペーソスを生んでいる。

 このシリーズは、何らかの思想的な意図があるわけでも、「情」が語られるのでもないが、どこか飄々と生きる主人公に共感がもてる作品である。

 昨日、雨の中をひとり歩きながら、今年は初から何となく気ぜわしい日々が続いて、どこか自分自身を失って、自分が決して望んではいない生活を送っていることを少し暗い気持ちで考えたりしていたが、飄々と生きることに変わりはなく、それでもいいか、と思ったりしながら、この作品を読み終わった。

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