2010年5月8日土曜日

白石一郎『火炎城』

 連休の間、朝から夜までの会議が4日間も続き、いささか疲れを覚え、掃除や洗濯などの家事もたまっていたが、7日の朝、敬愛していたT夫人の訃報が入り、急いで病院の霊安室まで駆けつけた。まだ、いつもと変わらず眠っておられるような尊顔を拝し、天寿を全うされたのだとつくづく思った。享年91歳だった。T夫人は、あまり物事にこだわらない大らかな性格で、生きることを楽しむことができるモダンなおばあさんだった。葬儀のためのいくつかの手配をし、静かに冥福を祈った。

 夜は、中学生のSちゃんが訪ねて来てくれたので、数学の関数の話などをし、ヴァイオリンの上手な彼女からモーツアルトの「ヴァイオリン協奏曲5番」の話を聞いたりした。

 連休中の会議の往復の電車の中で、白石一郎『火炎城』(1974年 講談社 1978年 講談社文庫)を読んだ。これは、戦国時代のキリシタン大名として知られる大友宗麟(義鎮-よししげ 1530-1587年)の生涯を取り扱ったもので、大友宗麟が大友氏の第21代当主となるところ(父と義母によって異母弟に家督相続の画策が練られる中で、重臣の反乱によって義母と異母弟が殺されるという「二階崩れの変」と呼ばれる事件で、大友氏の家督を相続することになる)から宗麟の死までが物語られている。

 大友宗麟は戦国大名の中でも特異な存在で、戦略家の武将として薩摩の島津家を除く九州のほぼ全域に渡る守護職となるほどの勢力を拡大しながら、一方で手当たり次第に美女を自分のものにしたり、そのために京都に家臣を派遣して美女狩りのようなことをさせ、家臣の妻女にまで手を出したりして酒色に溺れ、それが原因で家臣の反乱を招いたりしたが、他方では、禅に救いを求め(「宗麟」という名は、それによってつけられたもの)、さらには、山口にいたフランシスコ・ザビエルを招いて話を聞き、感銘を受け、やがてキリスト教の洗礼を受けてクリスチャンとなり、キリスト教を保護して、「キリシタン王国」の建設を夢み、伊藤マンショを天正遺欧少年使節団としてローマに派遣したりした。

 彼は二度離婚し、最初の妻は二度目の妻「紋」と結婚するために無理に離婚したのだが、二度目の妻「紋」とは不仲となり争いが絶えず、宗麟がキリスト教に傾倒していくにつれ、妻「紋」が伝来の神仏保護を訴えたりして、夫婦間の争いが宗教を巡る対立ともなって、それが家臣を二分することにまで発展するという事態となっていったりした。そして、キリスト教の洗礼を受けて後は、「ジュリア」という洗礼名をもつ女性を妻として迎えている。彼がキリスト教の洗礼を受けて後は、彼の行状は一変していくが、時代も状況も激変して、大友家は豊臣秀吉の庇護のもとでかろうじて豊後一国の大名となっていく。

 大友宗麟という人は、戦国時代という下剋上の社会の中で不信と権謀が渦巻く時に、自らも戦国武将として生きながらも、常に「何か確かなもの」を求め続けた「求道者」のような人だったような気がする。親も兄弟も、家族も妻も信じられない中で破天荒と言われるほどの酒色に溺れ続けたのも、禅宗に向かったりキリスト教に向かったりしながら、その「確かなもの」を探し続けたように思えてならない。そして、彼がたどりついた地平が罪のゆるしと救いを語るキリスト教信仰の平安であったことも、そうした「求道者」としての大友宗麟の姿を物語っているように思えるのである。

 もちろん、彼がキリスト教信仰に入った理由には、純粋にそれだけではなく、当時の社会状況や経済状況もあるだろうし(貿易や戦力としての鉄砲・火薬の獲得)、優れた南蛮文化の導入や、病院(おそらく日本で最初の総合病院を宗麟は宣教師とともに設立している)や孤児院などの社会福祉という視点も領内の統治上の重要な役割を果たしているだろうが、宗麟というひとりの人間としての生涯を思うと、彼が「何か確かなもの」を求め続けた人だったように思われてならない。もっとも、彼に洗礼を授けたフランシスコ・カブラルという宣教師のキリスト教理解は、私見ではあるが、ひどいものだった。

 白石一郎『火炎城』は、そうした大友宗麟の姿を丁寧に描きながら、その苦悩の姿を描き出している。宗麟が自分の内的必然からキリスト教の洗礼を受けることによって、周囲の軋轢と大友家の衰退を招くことになるが、「脳乱」とまで言われた破天荒な人生を歩んだ宗麟が抱えた苦悩が、ここでは見事に物語られている。そして、作者はその姿を、人物にのめり込んでではなく、冷静に、客観的に叙述することによって描き出していく。それゆえ、宗麟の最後の姿を伝える次の一文は、波乱から平安に向かった姿として光っている。

 作者は、宗麟の生涯を閉じるにあたって次のように書く。

 「宗麟の死は、孤独であった。その時、側にいたのはお孝(三度目の妻で、ジュリア)のみで、そのお孝が、いつにないまどろみからふと眼ざめたとき、宗麟はすでにつめたくなっていた。
 五月二十三日の夕刻である。」(文庫版 486ページ)

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