2010年5月17日月曜日

白石一郎『横浜異人街事件帖』

 晴れて爽やかな風が吹いている。日中は汗ばむほどで、ようやく初夏の香りがしはじめた。早朝から掃除や洗濯などの家事をして、午後は急用で銀座まで出かけ、仕事がたまっていたのですぐに帰り、銀座でコーヒーの一杯でも飲んでくれば良かったかな、と少し思ったりした。

 土曜日の夜から白石一郎『横浜異人街事件帖』(2000年 文藝春秋社)を読んでいた。独特の味のある、そして優れた幕末期の横浜で起こった物語で、幕末を描いた通常の視点とは異なり、開港後まもなくして横浜に住み始めた人々の視点から歴史が眺められている。

 アメリカのペリーが浦賀に来航した、いわゆる黒船騒動が1853年で、日米修好通商条約によって横浜が開港されたのが1859年、薩摩藩士によってイギリス人が殺された生麦事件が1862年で、本書にはこの生麦事件が登場している(第三話「わるい名前」)ので、本書が記されている年代は、その前後の外国人居留地ができ、商店が並び始め、繁栄の兆しが見え始めたころの出来事である。昨年、横浜開港150年ということで、「横浜開港資料館」にいって、そこの学芸員の方にお世話になったこともあり、この当時の横浜についての記憶が新しくなっていることも幸いして、面白く読んだ。

 本書は短編連作で、「岡っ引き」、「ハンカラさん」、「わるい名前」、「南京さん」、「とんでもヤンキー」、「阿片窟」、「エゲレスお丹」の7編からなり、元南町奉行所の同心で、人助けのために悪商人に「強請り、たかり」をした罪でお役御免となり、開港したばかりの横浜へやってきて荷揚げ人足の差配をしている衣笠卯之助が中心となって、その当時の横浜で暮らす人々の姿が描き出されていく。

 この主人公の衣笠卯之助の登場の仕方は、極めてありふれている。暴れ馬が失踪して踏み殺しそうになった母娘を柔術の心得のある卯之助が助けるというもので、これはどうかな、と個人的に思ったが、元同僚で横浜の治安をあずかる神奈川奉行所の与力の塩田正五郎が隠密廻り同心になってほしいと依頼してきて、それを断り、岡っ引きとして働くことになるという舞台設定がされ、その際、同心時代に面倒を見てきた娘が彼を慕って横浜に来ており、その娘に「小鳥屋(KOTORIYA)」を出させてやりたいためにその仕事を引き受けるというあたりで、主人公の人間味が良く表わされて、引き込まれるように読んでしまった。

 収められている7編は、どれも味わいのある作品であるが、第2話「ハンカラさん」は、オランダの貧しい漁師の四男が苦労して育ち、船のコック見習いとして日本にやってきて、横浜でホテルの料理見習いとして働き、料理長からは「ぐすだ、のろまだ」と罵られるが、弱いくせに争いに仲裁に入ったり、攘夷をとなえる浪人の刃からイギリス人を守ったりするが、結局、ホテルをくびになり、「KOTORIYA(小鳥屋)」に愛鳥の九官鳥を残して、上海かマカオに向けてまた船出していくという話である。

 外国人居留地に住んだ商人たちではなく、そこで働く下働きの人間の姿が、このようにして描き出される。同じように失意の人間の姿を描いたのは、第七話「エゲレスお丹」で、生糸商人の妾として横浜に住んだ女が、生糸商人が亡くなった後、イギリス商人と暮らすようになり、攘夷の嵐が吹き荒れる中を平然とイギリス婦人の格好をし、苦労した日本を去って、ただただ「異国(イギリス)」へ行くことだけを望みとしていたが、病で死んでしまうのである。

 衣笠卯之助は、攘夷や天誅を叫んで闇雲に異国人を殺していた浪人から彼女を助けたことがあり、彼女の望みがかなうことを願うが、それは適わない。

 また、第三話「わるい名前」は、生麦事件を起こした薩摩藩が「犯人」として解答してきた書状に知りされていた名前と同じ名前の男が、脱藩浪人の「みえ」から、自分が犯人だと言い張るが、衣笠卯之助も与力の塩田正五郎もそれが嘘だと見抜き、また、神奈川奉行もそれを見抜いていくという話で、人間のもつ「みえ」のつまらなさが余すところなく描かれている。

 第四話「南京さん」、第五話「とんでもヤンキー」、第六話「阿片窟」は、当時横浜に住んでいた「南京さん」と呼ばれる中国人、「ヤンキー」と呼ばれる楽天家で気の良いアメリカ人、そして、画策されていた阿片による儲け話などが描かれ、開港当時の横浜ではさもありなん、と思われる事件が、「人を大事にする」主人公の衣笠卯三郎の立場で解決されていく。

 これらは、一味違った幕末の庶民史である。そこに生きている人間の側から歴史をみるという視点は、この作者の優れているところだと、つくづく思う。読みながら、歴史にはこういう視点が必要だと思い続けた。もちろん、文章も切れが良いし、展開も見事である。こういう作品は本当にいい。続編があるらしいので、ぜひ読んでみたい。

 明日から、ちょっと厄介な仕事が始まる。世をすねて、人を軽蔑し、しかも小さな権力をもって振り回す人間とも会わなければならない。気の重いことである。

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