2010年5月15日土曜日

岩井三四二『浪々を選びて候』

 晴れてはいるが気温が上がらずに肌寒い。昨日、仙台の理事会から帰宅して、今日は早朝からたまった仕事を片付けていた。日々がこうして去来するのをぼんやり感じている。

 先日、図書館で書名に魅かれて借りてきていた岩井三四二『浪々を選びて候』(2003年 講談社)を面白く読んだ。

 この作者のものも初めて読んだが、奥付によれば、1958年生まれで、96年に作家としてデビューし、いくつかの賞を受賞されているらしいし、史実に基づく歴史小説が主で、おもに南北朝から安土桃山時代の戦国時代が中心で、歴史的に高名な人物ではなく、時代に翻弄され続けた人間の挫折や悲哀、生き残るための必死の姿が描き出され、こういう人物への視座が好感を持てる。

 この『浪々を選びて候』も、やがては織田信長に滅ぼされていく美濃の斎藤家の家臣であった日根野弘就(ひねの ひろなり)の人生を描いたもので、弘就は、自分の思いや考え、戦略が通らずに、斎藤家の滅亡を目の当たりにし、斎藤家の滅亡によって地位も財産も失い、己一つを頼りにしなければならなくなる。彼は、次に屈辱を感じながらも今川家に仕えるが、そこでも主家の堕落を目の当たりにし、結局、今川家も信長に滅ぼされる。彼はそこでも生きのびる。そしてまた浅井家に仕え、見通しの甘さを感じつつも滅びの中にあり、長島の一向衆の中に逃れていくが、それも信長に滅ぼされ、かろうじて生き延びていく。

 日根野弘就は、知も武も優れた人物であったが、滅びの中をさすらっていくのである。そして、滅んでいく人間の姿が彼の目を通して描き出されていく。そこには、乱世であれ平穏な社会であれ、挫折し、生き延びるために手だてを尽くさなければならない人間の悲哀が克明に記される。己一つを頼りにしなければならない人間の挫折と悲しみが、このすぐれた武将を包んでいく。

 そして、最後は、宿敵と思っていた信長に命を助けられ、意に沿わないままに信長に仕えていくことになるが、その信長も本能寺の変で殺され、その時京にいた弘就は、胃痛のために本能寺に行かなかったことによって、また生きのびることになる。滅びの中にあっても、天は彼を見放さずに、彼はかろうじて生きていく。

 日根野弘就が斎藤家の奉行として力をふるっていた時には、信長はまだ尾張の小大名に過ぎず、「うつけ」と言われていた。しかし、信長が隆盛し、巨大化していくに比して、弘就は、中年後に職を失い、適うことのない現実を抱え、一族や家族との葛藤を抱え、かろうじて生き延びる道をたどる。そういう人間の姿が、それぞれの戦の中で描き出されていくのである。

 この作品は、後に『逆ろうて候』と改題され、弘就の全生涯が加筆されて講談社文庫から出されているらしいが、本書だけでも、失い、挫折し、時代の中で翻弄される人間の姿がよく描かれている。

 上昇志向をもつ人間は哀れであるが、本書は日根野弘就が、上昇志向というよりも、生き延びる手段として各地の主家の間を放浪していく姿として描かれているのがいい。望まない生き方を強いられる人間の姿は、わたし自身を含む現代人の姿としても身に迫るものがある。戦国時代の人間にあまり関心はないが、この作者の他の作品も読んでみようと思う。

 あえてゆっくりと「時」を過ごそうと思い続けているので、今日はそれを取り戻したい。来週はまた忙しくなる。やむを得ないとはいえ、どうもこのところ五月は忙しくなっている。

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