2010年5月2日日曜日

宮部みゆき『震える岩 霊験お初捕物控』

 連休が始まって良い天気が続いている。どこかに出かけるには最適だろう。とは言え、毎年のことではあるが、五月の連休は朝から夜までの会議がずっと続いて、都内の会議場との往復の「しんどい」日々ではあるが。

 金曜日(30日)に「日本モーツアルト協会」というところのI氏が訪ねてくださって、今年、この協会が主催する演奏会の案内を下さった。上野の東京文化会館で数回の演奏会がもたれるとのことであるが、スケジュールの都合がつくかどうか。

 金曜日の夜と土曜日の夜にかけて、宮部みゆき『震える岩 霊験お初捕物控』(1993年 新人物往来社)を面白く読んだ。これは、以前に読んだ『天狗風 霊験お初捕物控(二)』の前作に当たるもので、都合よく図書館の書棚に並んでいたので、借りてきた次第である。

 読み終えて、改めてこの作者の想像力の豊かさに脱帽した。これは、江戸中・後期に南町奉行として活躍した根岸肥前守鎮衛(1735-1815年)の有名な『耳嚢(江戸市中の事件や奇談を聞き集めたもの)』のいくつかから題材を採り(本文中でも『耳嚢』巻の六「奇石鳴動の事」について記されている)、そこに記されている奇石が鳴り動いたのが、忠臣蔵で有名な浅野内匠守が切腹させられた田村家であることから赤穂浪士の討ち入り事件の忠臣蔵で知られる物語とは異なった視点の展開と、播州赤穂市の浅野家の菩提寺である花岳寺にある「義士出立の図」で後ろ向きに描かれている義士のひとりを登場させ、そこに主人公「お初」の姿や「右京之介」の姿を、人間の情念や怨念と絡ませて展開しているものである。

 「お初」は、捨子であったが、拾われた夫婦によって家族同様にして育てられた。しかし、お初の養父母は火事に会い、幼いお初だけが不思議に助かる。そして、養父母の子であって、義理人情に厚い兄の六蔵夫婦によって、妹として成長した明朗で少し気の強い娘で、人の見えないものを見、聞こえないものを聞く不思議な能力を持っている。その能力を買われて、南町奉行であった根岸肥前守の手助けをしている。

 そのお初が根岸肥前守から見習与力として働いている古沢右京之介の世話を頼まれるところから物語が始まっていく。古沢右京之介は、「赤鬼」と呼ばれている武骨な吟味与力の息子であるが、父親と全く異なって、丸眼鏡をかけた頼りなげな男であり、父親の後を継いで与力の職を継がなければならないが、本人は、算学(数学)の道に進みたいと密かに願っていて、父親との間の葛藤も抱えている。彼は剣の腕前はないが、頭脳は明晰であり、飄々として、お初の不思議な能力も、それとして認め、お互いに協力し合って事件の真相を暴いていくのである。

 事件の核心は、人間の怨念であり、その怨念によって子どもが殺されていく。その怨念は、徳川綱吉の「生類憐みの令」で改易され、世に受け入れられないことで歪んでしまった侍の魂にほかならない。お初と右京之介、そしてお初の兄の六蔵は、その怨念に彼らの温かい「情」で対峙していく。

 その物語の展開の仕方が、実に巧みで、お初と右京之介の間に芽生える恋心や自分の道を歩もうとする右京之介の決断などが横糸として織り込まれているので、物語が次へ次へと展開していく。物語作者としての技量がよく表わされ、時代と社会の歴史的考証も巧みに取り入れられている。

 宮部みゆきの作品は、まだ、時代小説を数冊読んだだけであるが、まことに「うまい」作家だとつくづく思う。

 昨夜一時間ほどしか眠らなかったので、今日は、本当に「しんどい」。外は晴天で、外出にはもってこいなのだが、明日からこれを書く時間が取れないだろうから、これを記して、ちょっとひと眠りすることにした。

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