2010年5月25日火曜日

白石一郎『生きのびる 横浜異人街事件帖』

 昨日一日中降り続いた雨が上がって初夏の日差しが眩しいくらいに差している。洗濯日和と思って早朝からシーツなどを洗濯した。仕事もたまっているし、日用品や食糧なども買い出しに行かなければならない。日常を送るというのはそういうことだろう。

 時代や世の中がどんなに激しく動いても、状況が変化しても、環境が劣悪になっても、したたかに生きる人の姿というものがある。昨夜、白石一郎『生きのびる 横浜異人街事件帖』(2004年 文藝春秋社)を読みながら、そんなことを思ったりした。

 これは、先に読んだ『横浜異人街事件帖』(2000年 文藝春秋社)の続編で、外国人居留区ができた開港時の横浜を舞台にした物語である。主に、江戸の南町奉行所同心だったが、悪徳商人を「強請った」ためにお役御免になり、開港したばかりの横浜へやってきて荷揚げ人足の差配をしている衣笠卯之助と、元の同僚で横浜の治安をあずかる神奈川奉行所の与力になって派遣されてきた塩田正五郎の二人が、異文化と接し始めた開港地横浜で起こる事件の探索をするというものである。しかし、事件の展開以上に、「人間の暮らし」という視点で物語が展開されていて、それがこの作品を優れたものにしている。

 第一話「ヨコハマの窃盗団」は、卯之助を慕って「小鳥屋」を営む「おゆみ」の店に小鳥を売りに来るようになった百姓の子「平太」が、家の貧しさのために異国に売られることになってしまったというところから物語が始まる。童謡の『赤い靴』を思わせるが、たくさんの子どもたちが売られ、子買いが行われていたのは事実で、「平太」はけなげに自らの運命に耐えようとする。人は自らの運命に耐えるしか術がないが、「平太」のけなげな姿が描かれ、それがよけいに悲しみを誘う。女の子は男の子よりも2~3割高く売られた。

 そこへ、卯之助の剣術道場の仲間で火盗改めをしていた正義感の強い立花源吾が横浜の治安維持のために神奈川奉行所に赴任してきて、博打、強盗、強請り、阿片、人身売買をしていた南京人(中国人)の一団と対決することになる。しかし、血気にはやった立花源吾は罠にはめられ殺されてしまう。

 そこで、第二話「上海放浪」で、衣笠卯之助と塩田正五郎は、神奈川奉行の命によって立花源吾を殺した犯人を追って上海に向かうことになる。国交も頼りになる者もなく、彼らと通詞の三人は、当時の上海の街を彷徨ことになり、罠にはめられたりするが、偶然、第一作で卯之助が助けたピーター・グレイと出会うことができ、彼の助けで犯人が「遊船」と呼ばれる売春船にいることが苦労の末に分かる。

 第三話「遊船」と第四話「逃げろ、平太」で、犯人の「遊船」を探し出した衣笠卯之助がその売春船に乗り込んで犯人と対決し、その時に、人身売買で売られていた「平太」が「遊船」の下働きとして働かされていることを知り、彼を助けることになるという展開となる。こうして彼らは無事に目的を果たし、平太を連れて帰国の途に就く。

 第五話「アラビアの占師」は、横浜で占いをしているアラビアの女と彼女を使って宝石詐欺を働く男が「おゆみ」の小鳥屋へフクロウを買いにきたことが縁で、アラビアの男のひどい仕打ちから逃げ出してきたアラビア女性を救い出すという話で、この中で、卯之助に思いを寄せる「おゆみ」が「あなたの好きな男は人と争って剣で死ぬか、銃で撃たれて死ぬでしょう。その男を守るためにガーネットの宝石をもつように」と言われて、大枚をはたいてガーネットを買う話が出てくる。そして、無事にアラビア女性を逃がした後で、そのことを知った卯之助が「ありがとよ」と「おゆみ」に言って、「占いなんぞは信じねえが、おめえの気持だけはよくわかったよ。あんまり無茶はしねえことにすらあ」と言う場面が描かれる。すると間髪をいれずに、「おゆみ」の店で働くことになった平太が「あてにならねえって!」といって笑いだす。こういう場面は、本当に光る。

 第六話「生きのびる」は、第二次長州征伐が起こって、そこに駆り出された御徒歩士のひとりが、幕軍内の理不尽な仕打ちから逃れて、甥の塩田正五郎を頼ってきたのを卯之助が助ける話で、甥は「人は生きのびるために生きている」と言うが、フランス人船乗りと南京人の人足との喧嘩の仲裁に入り、撃たれて殺されてしまう。正五郎と卯之助と「おゆみ」は、静かに亡骸を見送る。

 第七話「情けねえ」は、鳥羽伏見の戦い(1868年1月3-5日)で敗れた徳川慶喜が、幕府軍を置き去りにしたまま大阪城から夜陰に紛れて逃げ出し、官軍が江戸に迫ってきたことで、奉行所与力としての塩田正五郎は江戸城にこもるために江戸に帰ると言いだす。卯之助も、元同心として正五郎と共に江戸に行くという。しかし、横浜は駐留している各国が自衛手段を講じ、神奈川奉行所もその働きをすることとなり、そのうちに江戸城の無血開城となって機を逃す。

 当時の横浜は、幕府が転覆しようが戦争が起ころうが、一種の治外法権地として、変わらずにその日常の中にある。官軍も横浜には手を出すことができない。第一作で登場したオランダ人のハンカラさんがホテルの料理長として戻ってきたり、フランス人の船長に乱暴されそうになった「おゆみ」を助けたりする日常が続く。そして、江戸城が無血開城された後、横浜の治安が官軍の手によって行われることになったことを機に、塩田正五郎は、上野の彰義隊には加わらないと言いながら家族のいる江戸へ帰り、卯之助は、子どもができた「おゆみ」と横浜に残ることになる。

 ここでも、江戸に行くだろうと察した「おゆみ」が、「あなたが江戸へ行くなら、わたしも行きます。あなたが死ぬなら、わたしも死にます」と言う。こういう気持ちで生きている人間が不幸になるわけはなく、卯之助と、そして下働きの平太と、横浜に留まって日常を送っていく最後が光っている。

 また、別れることになった正五郎と卯之助の最後の会話で、「三百年も続いた江戸の旦那でさえ、あっという間に江戸から追い払われて消えちまった。確かなものなんて、この世にはねえということがよくわかったよ」(306ページ)と語りあい、「こうなってみると、子供ぐらいしかおれ達のような男にとって、確かなものはねえんじゃないかという気がするんだ」と正五郎が言って、「いわれてみれば、そんなものかもしれねえな」と卯之助が答えるくだりが、作者の真骨頂ではないかとも思う。

 人は、したたかに、そしてしなやかに生きていく。そして、愛し、愛される者があればそれでいい。歴史も、政治も経済も、そして社会構造も、世界が抱える問題も矛盾も、課題も、あるいは科学技術や知識、能力も、それはそれで大きな課題や問題ではあるが、「そんなもの」よりも、「愛し、愛される者」があれば、それでいい。ただ、わたしの場合、対幻想の「対」が身近にないので、それが難しい。

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