2010年11月1日月曜日

高橋克彦『おこう紅絵暦』

 土曜日に台風が太平洋沿岸をかすめていったが、台風一過とはいかずに、ぐずついた天気が続いている。今日もようやく西の空に蒼空が見え始めているが、朝は幾重にも重なった灰色の雲が重く垂れ込めていた。急速に秋が深まって、もはや初冬の感さえある。

 昨夕、なんだか少し疲れを覚え眠ってしまい、目覚めたときには、見ようと思っていた世界バレーの中継が終わっていた。それから夕食を作り、ビールを飲みながら高橋克彦『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)を読んだ。

 1947年生まれの高橋克彦は、歴史・時代小説の他にも推理小説やホラー小説、SF・伝奇小説などでも多作であり、浮世絵などにも造詣の深い作家であるが、作風に何となくなじめないものがあって手を伸ばしかねていたものがあったのだが、読みたいと思っていた本が図書館で見つけることができずに、今回読んで見ることにした次第である。

 『おこう紅絵暦』には前作『だましゑ歌麿』(1999年文藝春秋社)があって、前作では、風紀を厳しく取り締まり、あらゆる事柄に贅沢を禁止した禁令を断行した寛政の改革(1787-1793年)を行った松平定信が老中、火附盗賊改の長が有名な長谷川平蔵であった時代に、南町奉行の同心で30代半ばの仙波一之進という気骨のある同心を主人公にして、人気絵師であった喜多川歌麿の妻が惨殺された事件を調べ、権力による圧力を受けながらも、知恵を働かせて真相を明らかにしていくというものであった。

 『おこう紅絵暦』は、前作の最後で主人公の仙波一之進に惚れていた柳橋の美貌の芸者「おこう」が晴れて妻となっていたが、その「おこう」の活躍を中心とする短編連作である。

 文学手法の一つに、ある日常をスパッと切って、作者による背景や登場人物の説明などあまりせず、あたかもその日常が続いているようにして物語を展開し、徐々に背景や人物像がわかっていくようにしていく手法があり、それが誰によって試みられたのかはわからないが、現代文学の一つの技法として定着している。『おこう紅絵暦』もそうした手法を用いて書かれているのかと最初は思ったが、どうも違うようで、これは前作の『だましゑ歌麿』を読まないと本作の主人公である「おこう」の背景や人間関係などの前後関係がわからない。わかるのは、頭脳明晰で明察力の鋭い「おこう」が南町奉行所筆頭吟味与力(奉行所では奉行に続く最高位の職務で、奉行に代わって最終的な取り調べをし、時には判決も出す)の妻で、元は柳橋の芸者だが、少女時代は「ばくれん」(少女愚連隊のようなもの)でもあったというくらいである。いくら続編のようなものとはいえ、その点では少し手抜きのような気がしないでもない。

 この作品では、「おこう」が、舅で足腰を痛めて隠居している元同心の仙波左門と相談しながら、持ち込まれる事件や関わりのある事件に鋭い洞察力で名推理を働かせて、巧妙に隠されている真相を明らかにしていくという12編の話が収められており、第一話「願い鈴」は、柳橋で芸者や酔客相手に手摘みの花に占いをつけて売りながら自分を捨てた母親を捜していた薄幸の少女である「お鈴」が殺人の疑いをかけられていることを知った「おこう」が、その事件の真相を解いていくというもので、真相解明後に夫の仙波一之進が薄幸の「お鈴」を仙波家の下働きとして引き取るという話である。

 第二話「神懸かり」は、「おこう」の元先輩の芸者が病で死にかけているところに、行くへの知れなかった息子が帰ってきて親孝行をするが、その息子の背後に押込強盗を企む一味がいて、そのことを見破った「おこう」の名推理力で、強盗一味を捕らえることができ、孝行息子も軽罪ですむことになったという話である。第三話「猫清」は、仙波家に出入りする絵師で、時には探索の手助けもする春朗の知人で彫師をしていた男が自死をする。時に、人気の出てきた役者の中村滝太郎の養父が殺され、滝太郎が養父殺しで嫌疑をかけられる。自死した彫師がかわいがっていた猫のことから、「おこう」は、滝太郎の養父殺しが、役者として人気がでてきて当代一の役者であった松本幸四郎の一族の一員となるように養子話が進んでいた滝太郎に強請をかけていた札付きの養父を、滝太郎のために実の父親であった彫師が殺して自死したことをつきとめていくのである。

 第四話「ばくれん」は、「おこう」の昔の「ばくれん(少女愚連隊のようなもの)」仲間で煙草問屋のおかみさんになっている女に義理の母殺しの嫌疑がかけられていることを知った「おこう」が、その事件の背後に、昔の「ばくれん」どうしの喧嘩を装いながら、悪徳子堕ろしの医者が強請の種にしていた「子堕ろしの証文」を盗み出して、強請の手から仲間を守ろうとしていたことがあることをつきとめるという話である。

 第五話「迷い道」は、老いて気力をなくしかけた舅の左門を気遣って昔の仲間がいる八王子まで遊びに出した時、槍の名手とまで言われた左門の友人が、同心株を返上して物乞いをしている姿を見るところから始まる。左門の友人は、仇討ちの立ち会いをしてくれと左門に頼む。友人はあえて討たれて死ぬ。だが、そこには、武士として最後まで矜持を持ち続けた姿があった。左門はその姿を見て、自分が老いてもなお生きることを考え直していくのである。

 第六話「人喰い」は、仙波家の元の女中の住む長屋で「人喰い」と呼ばれるような陰惨な事件が起こり、元の女中の心労を案じた「おこう」が春朗と共に訪ね、血しぶきの中で焼け焦げた首と片腕だけが残った事件の背後に、盗賊による身代わり殺人があることを突きとめていく話である。

 第七話「退屈連」では、寛政の改革によって風紀を厳しく取り締まられた金持ち連中が「退屈連」と称して狂歌の酒席を設け、そこに絵師として招かれた春朗が、ある大きな料理屋が霊力のある怪しげな山伏を招いて家に社を建立するという話を聞き込んで来る。それが芝居による強盗ではないかと推測して奉行所が捕り方を出そうとする。しかし、「おこう」は、それが「退屈連」の者たちが、町方が出てくるかどうかの賭をした二重の芝居であることを見抜き、さらにその奥に、町方を一緒の集めて手薄になったところを強盗に入るさらに強盗たちによる計画であることを見抜き、無事に強盗を未然に防ぐというものである。

 第八話「熊娘」は、「熊娘」として見せ物小屋で見せ物にされていた「おこう」の幼なじみて、故郷の名主の横暴を訴えようとしていた両親を殺され逃げていた少女を助け出していく話で、助け出された娘の「お由利」は、「おこう」の妹分として仙波家に引き取られることになる。この「お由利」は磨けば美貌で、背丈の高い娘であり、やがて、第五話で生きる意欲をなくしていた舅の左門から槍の手ほどきを受けるようになり、左門の生き甲斐の一つともなっていく。

 第九話「片腕」は、両国橋の橋下に投げ捨てられていた顔が潰され片腕のない死体が発見され、見せ物小屋にいた「お由利」の証言から、それが、奉行所が追っていた二人組の強盗のひとりではないかと考えられ始めていた。しかし、そこに仲間同士の諍いによる巧妙なすり替え殺人があることを「おこう」が見抜いていくのである。この話で、左門から武術を習い始めた「お由利」が見事に強盗たちをうち伏せる場面が付け加えられている。

 第十話「耳打ち」は、人気の出てきた役者の中村滝太郎が、芝居の立役(主役)を演じることになり、忠臣蔵の七段目が演じることになったが、その芝居の一風変わった演出をした作者が殺される事件を扱ったものである。その演出は評判を呼んだが、途中で変えられてしまった。そして、その作者は贔屓があって、見習い作者から、二枚目作者(芝居小屋では、いわば副作者に相当する)になり、さらに上方で立作者(作者の第一人者、映画で言えば監督)になるという。ところが、その作者が上方に向かう途中で殺される。

 芝居の筋が途中で代わったことから「おこう」は、そこに脅迫事件と脅迫された者による殺人を見抜いていくのである.作者が芝居で脅した相手は、顔立ちのいいことや役者との繋がりがあることを餌に若い娘などを引っかけ、盲目で十三歳の娘を引っかけ、殺していたが、それを作者に推測されて芝居の中で殺人の手口を暗示し、脅されていたのである。

 第十一話「一人心中」は、第一話で出てきた「お鈴」の母親が見つかるが、強盗の一味から足抜けしようとして殺されてしまうのである。「お鈴」の母親が残した手紙から、強盗の存在をかぎ取った「おこう」の推理によって、強盗たちが企んでいた押し込み強盗が防がれていく。「おこう」は「お鈴」に「あの人は親ではなかった」と言う。

 第十二話「古傷」は、「おこう」の「ばくれん」時代の最初の男であった秋太郎という男が、巧妙に仕組んだ押し込み強盗の言い逃れを、昔の古傷を思いながら「おこう」が明らかにしていくものである。舅の左門はそのおこうを見て、一之進に「お前には過ぎた女房」という。

 これらの話は、人が気づかないようなほんの些細な手がかりから明晰な「おこう」が謎を解いていく話で、推理小説としては、たとえば、アガサ・クリスティーのミス・マーブルやチェスタトンのブラウン神父のようなものを思わせる。しかし、人間や現象というものへの洞察力ということからすれば、どうだろうか。

 文章も読みやすいし、展開にも無理はない。しかし、物語全体を貫く思想が、どこか平易なヒューマニズムで終わっているような感がないわけではない。薄幸の少女や「熊娘」として見せ物小屋で働かされていた少女が簡単に仙波家で引き取られて安泰な生活を行うことができるようになったり、舅の左門ができすぎた男で「おこう」をいつも「過ぎた嫁」として認めていたり、夫の仙波一之進が大きく「おこう」を包みこむような愛情を見せたり、思いやりを見せたり、それはそれで幸いなことだろうが、人間とその人間が生きる姿へのもう一つ深い掘り下げが物足りないように感じるのである。安価なヒューマニズムというものは、現実には結構やっかいなものである。安直なヒューマニズムというものはどこか安っぽいが、この作品には、そうした薄さのようなものを感じてしまった。

 今日は夕方に用事があるので、日のあるうちに少し外に出ようと思っていたが、あれこれと仕事をしているうちに差し始めた陽が陰ってきた。ちょっと中断して、急いで外出しよう。明日はまた一日、ふう、という感じになるだろうから。

1 件のコメント:

  1. このブログを楽しみに毎日チェックをしています。本選びの参考にもしています。それで思うのですが、これだけ本を読んで、これだけコンクな解説・批評を頻繁に更新されて、お仕事に差し支えませんか?睡眠不足になりませんか?心配です。いつまでもこのブログが存続していることを願っています。

    返信削除