2010年11月27日土曜日

高橋克彦『完四郎広目手控 いじん幽霊』

 朝からよく晴れ渡った蒼空が広がっている。紅葉見物には絶好の日和だろうと思いつつも、仕事が少し立て込んでいるので、通常と変わらぬ土曜日になった。

 木曜日の夜から金曜日にかけて、高橋克彦『完四郎広目手控 いじん幽霊』(2003年 集英社)を作者の想像力の豊かさと物語作りの妙を感じながら読んだ。これは、このシリーズの3作目で、前に4作目の『文明怪化』を読んでいたので、物語の展開としては遡る形になったのだが、改めて、慧眼というか明察というか、名探偵ぶりを発揮する主人公の香冶完四郎と、主人公の卓越した推理を導く名脇役としての仮名垣魯文との兼ね合いが、幕末の激動する横浜を舞台に展開されるあたりが面白いと思った。

 仮名垣魯文は、もちろん実在の人物(1824-1894年)だが、少しひょうきんで現実主義的で、作家としての意地もあるという本書の人物像は作者の創作だろう。それにしても、挿入してある当時の写実絵(今回はマスプロ美術館所蔵)から全く新しい事件や物語を創作として展開させる作者の手法は驚嘆に値する。本書で取り扱われる時代が、新撰組による池田屋事件(1864年)や佐久間象山暗殺事件(同年)の年であり、1859年に開港されたばかりの横浜は、外国人居留地によって西洋化が進み始め、1862年の生麦事件(現鶴見区生麦・・イギリス人が薩摩藩士によって殺される)をはじめとして、攘夷思想を持つ武士たちの襲撃が繰り返され、特殊な状況下に置かれていた。

 この時に、広目屋(瓦版・新聞広告業)を手伝っていた香冶完四郎と仮名垣魯文が横浜に赴いて、そこで起こっている事件を大事に至らないように解決していく。香冶完四郎は新しい情報手段としての新聞を出すことを考えており、その関連でも、後に新聞記者ともなった岸田吟香(1833-1905年)や福地源一郎(1841-1906)も登場する。岸田吟香は、本書でも登場するジョゼフ・ヒコ(1837-1897年・・本名浜田彦蔵で、13歳の時江戸に向かう途中の船が難破し、漂流して米国商船に助けられ、米国に帰化し、帰国後通訳として活躍、その後横浜で貿易商館を開く)と共に、1864年に英字新聞を翻訳した日本で最初の新聞『海外新聞』を発行している。本書では、仮名垣魯文とどちらが優れた記事を書くか競争する物語として展開され、その記事の裏にある事件を香冶完四郎が見抜いていく物語が展開されてもいる(第十話 筆合戦)。

 こうした歴史的な背景が見事に織り込まれて、当時の横浜の居留地の人々の暮らしや状況を基に、牛肉と阿片の絡む事件(第一話 夜明け横浜)、攘夷派が画策した外国人相手の遊女屋での自殺事件(第二話 ふるあめりかに)、流行始めたヌード写真に関連した事件(第三話 夜の写真師)、幽霊屋敷と噂されることで人が近寄ることを避けた外国人性病患者の施療所の出来事(第四話 娘広目屋・・ここで完四郎に恋をするフランス娘のジェシカ・アルヌールが登場する)、イギリスが清国人(中国人)をつかって画策した阿片の密輸事件(第五話 いこくことば)、天狗党(1864年に水戸藩の尊王攘夷派が筑波山で挙兵した)の名を借りて横浜襲撃を企む事件(第六話 横浜天狗)、気球を使って火の雨を降らせ、人心を惑わしつつも気球を武器として売り込もうとする事件(第七話 火の雨)、フランスの将校が仕組んだ痴情事件(第八話 遠眼鏡)、両国に異人の幽霊が出ることを仕掛けて、生糸の貿易で利を得ようとした商人の事件(第九話 いじん幽霊)、先述した第十話、これまで香冶完四郎の名推理によって事件が公にならずに煮え湯を飲まされてきたイギリスが仕掛けた虎を使っての完四郎暗殺事件(第十一話 虎穴)、そして、横浜どんたく(祭り)を利用してフランス人との娘の結婚に反対する清国人商人が起こす事件(第十二話 横浜どんたく)といった物語が展開されている。

 例によって、複雑に政治や経済、国際情勢が入り組んだものであれ、人間の心情が入り組んだものであれ、事件はあまりにも簡単に解決していくのだが、それによって主人公の香冶完四郎の名推理がさえていくわけだし、状況についての分析も(もちろん、歴史的状況は明白なのだが、明察として展開されている)、何とか事件を国際紛争にまでしないようにすることや罰される者を作らないことも、本作で描かれる主人公の姿として浮かび上がって来るし、ずば抜けた才能を持ちながら、恋にも金儲けにも執着せず、「世に出るつもりはない。・・・こうして生きていられるだけでありがたい。・・・」(164-165ページ)と言い切って、「ただの広目屋」であろうとする人物像は、理想的すぎるとはいっても、味のあるものとなっている。

 本書の末尾で、主人公がアメリカ行きを考えることになっていて、次作が維新後にアメリカからの帰国後の物語になっているのも、なかなか面白い構成だと思う。個人的に、この頃から「新しい社会機構をもつ日本」という国が形作られてきて、多くのいびつな構造を生んでいくことを考えることがあって、どこがどういびつになってしまったのかを探ってきたので、こういう物語の展開は物語としてなかなかのものだと思っている。もちろんわたしの個人的な関心は作者の意図とは無関係であるが。

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