2010年12月4日土曜日

坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り 女殺し坂』

 金曜日の朝、かなり激しい集中豪雨があり、強い雨風に打たれて街路樹の銀杏の葉がほとんど落ちてしまった。今日、気温は高くないがよく晴れ渡っている。今夜アイリッシュハープの演奏によるコンサートを聴くことにして準備を進めていたところ、熊本のSさんから心のこもった便りをいただき、「有り難き思い」をしみじみ感じた。

 昨夜、あまりよく眠れないままに、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り 女殺し坂』(2006年 徳間文庫)を一気に読み終えた。巻末の「著作リスト」によれば、この作品はこのシリーズの3作目で、前にこの作者の『照れ降れ長屋風聞帖 盗賊かもめ』(2008年 双葉文庫)というのを1冊だけ読んで、話の展開がどこか簡明すぎる気がしていたのだが、『うぽっぽ同心十手綴り 女殺し坂』は、改行の多い文体はともかく、なかなかどうしてじっくりと展開された内容をもつ作品だった。

 中年を過ぎた南町奉行所の臨時廻り同心である長尾勘兵衛は、「うぽっぽ」と渾名されるほどのんびりした性格であまり役に立ちそうもないし、他の同心のように商家や諸大名からの付け届けもきっぱり断るので奉行所では浮いた存在であるが、人情家で、罪を犯した人間には情けをかける男である。しかし、優れた明察力をもち、剣の腕もたつ。そして、大悪には決然と挑んでいくような男である。この作品の中では「うぽっぽ」という渾名についての説明はないが、「暢気者(のんきもの)」とか「いいかげん」とかいう意味だろう。

 彼のそういう姿を知っているのは、同じように中年過ぎの岡っ引きの銀次と南町奉行である根岸肥前守だけであり、それに長尾勘兵衛のひとり娘「綾乃」に思いを寄せている若い同心の末吉鯉四郎と、勘兵衛の屋敷内で間借りをして金瘡医(外科医)をしている井上仁徳が加わる。岡っ引きの銀次は女房のおしまに湯屋をさせており、勘兵衛はその湯屋を贔屓にしており、末吉鯉四郎は中気を患っている祖母と近所の同心長屋に暮らす好青年で、小野派一刀流の練達者である。医者の仁徳はおおらかにすべてを呑み込んでいく人格者である。そして、この作品の中でも根岸肥前守は、名奉行として長尾勘兵衛の大きな理解者として登場する。

 勘兵衛の妻「靜」は、娘の綾乃が一歳の時に、理由も分からずに失踪しており、その「靜」の行くへが第三話「月のみさき」で事件の重要な鍵を握るものとして展開されている。勘兵衛は未だに靜の面影を引きづり、料理屋の女将「おふう」に思いを寄せたりするが、そのあたりの兼ね合いが微妙で、それが巧みに描き出されたりしている。

 本作の第一話「女殺し坂」は、勘兵衛と親しかった昔の同僚が、勾配が急で牛鳴坂とも女殺し坂とも呼ばれる坂で斬り殺されるという事件に端を発する幕府の奥医師や奉行所年番方与力(筆頭与力)、目薬屋の大店の絡む事件の顛末を記したものである。牛鳴坂(女殺し坂)は麻布にあった。そこで、勘兵の元同僚をはじめ4人の人間が殺された。最初に殺されたのは勘定所組頭をしていた侍で、彼は目薬屋の大店が利権のために奉行所年番方与力を賄賂で取り込み、幕府奥医師のお墨付きをもらうために冥加金(みょうがきん-税金)をごまかしていた事件を探っていて、奥医師が雇っていた腕の立つ武士に殺されたのである。

 侍の妻は、夫の死の真相を探るために目薬屋の大店の下女になったりして、勘兵衛の元同僚に相談しているうち、双方親しくなるが、相手が巨悪のためにどうしようもなくなっていく。そうしている内に、その元同僚が事件の隠蔽のために殺され、彼女も死んでしまう。彼女から掏摸取ったもので目薬屋の大店と元同僚の妻を強請っていた掏摸も殺される。勘兵衛自身も筆頭与力から圧力を開けられたり、命を狙われて武士から斬られ、生命の危機の淵に陥ったりする。

 事件の真相を探り当てた長尾勘兵衛は、相手が幕府の奥医師や上司である奉行所の筆頭与力も絡んでいることもあり、公にしても握りつぶされるし、公にすると元同僚の不倫も明るみに出ることもあって、密かに意を決して、岡っ引きの銀次と共に巨悪の三人を討つ。若い同心の鯉四郎もそれに加わる。こうして事件が終わるのであるが、殺された女は、元同僚の妻が悋気で殺したことが分かる。しかし、勘兵衛はそのことを明るみにせずに、元同僚の妻がこれからも生きていくことを願う。

 この第一話は、やむを得ない罪はこれを許していくが、同心の身分では手が出せないような欲が絡んだりする巨悪には決然と対峙してこれを討っていく主人公の姿が描き出されるのだが、事件の内容に手が込んでいて、しかも、男女をはじめとする様々な人間模様が事件の経過にあわせて丁寧に描き出されているので面白い。死ぬより生きる方がつらいという視点も一貫して、しかもそれが静かに語られるのがいい。

 第二話「濡れぼとけ」は、加賀前田家の氷奉行(加賀前田家では毎年夏に将軍に氷を献上していた)が罠に嵌められて切腹させられ、その仇を討つために娘が罠を実行した中間を殺した事件をきっかけに、罠を仕組んだ現氷奉行の企みを暴いていく話で、物語の発端が、医者の井上仁徳が献上氷のお下がりをもらってくるという主人公の身内の話から始まるのがいい。仇を討つ娘に荷担したのは、美人局でしくじって失職した元同心で、その失職した元同心の離散した妻と娘が、探索の過程で加賀藩と関係のある大店の後妻となっていることが分かり再会させるところもいい。彼が氷で仏像を彫る姿も物語の妙となっている。

 仇を討つ娘の姿が、最初は色仕掛けで中間を惑わす女の姿であるが、後には十六歳の凛として(なまえも「りん」)仇に立ち向かう姿となり、それがあまりにも異なっている気もしないでもないが、事件の探索の展開は丁寧で、ここでも外様の大藩の氷奉行を相手にするのだから、奉行所の公務として事件を明るみに出すことができずに、単身乗り込んで罠に嵌めた現氷奉行を罰していく。そして、ここでも長尾勘兵衛は娘にも元同僚にも縄をかけることをしない。人が生きていくためには罪のゆるしが必要で、罪ゆされた者は、ゆるされたことの重荷を背負わなければならないのだから、そのことが結末で示されるこういう展開は、わたし好みの展開である。

 第三話「月のみさき」は、罪をゆるしていく人情家である長尾勘兵衛の甘さを逆に憎み、昔彼に助けられたことのある男が強盗となって江戸に戻ってきた話で、この男は勘兵衛の妻「靜」が記憶を失って放浪していたのを広島で助け、それと知りつつ、強盗の手引きとして使ってきており、江戸で彼女を囮にして悪徳商人と手を組んで強盗を画策するのである。記憶を失った「靜」の姿が克明に描かれていく。

 最後は、男の企みを見破った勘兵衛によって強盗は阻止され、罪なき者を殺した男は勘兵衛によって討たれるが、「靜」は帰ってこずに、遊女にひろわれて、その後の彼女の転落が暗示されているところで終わる。味のある終わり方だと思う。

 この作品は、作者によってよく考えられた作品だと思う。描かれる人物像も多彩で、事件の顛末も丁寧である。もちろん、作品としてのいくつかのことを残念に思ったりするところもあるが、シリーズ物としてはちょっと読んで見たいと思う作品だった。

 夕方になってずいぶんと冷え込んできた。外出にはコートが必要かも知れない。そろそろ冬支度の三種の神器であるコート、マフラー、手袋がいるだろう。

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