気温は低いがよく晴れた冬の碧空が広がっている。年の瀬で人の流れ無車の流れもどこか気ぜわしいところがあるが、とりわけてお正月の準備をするわけでもないので、通常どおりの日々が過ぎていく。
月曜日に、カフカ論である『彷徨える実存-F.カフカ-』を掲載した機関誌の執筆仲間と来年度の計画などを話し合う集まりをして、池袋の居酒屋のようなところで食事をし、冗談を交わしながら「来年は対馬に行こう」とか「じゃ、また来年」とか、鬼が笑うようなことを言って深夜に帰宅した。相変わらず、遅い電車は人々の疲れも乗せて超満員で圧死が心配されるほどだった。もっとも、いつ、どこで、どのように終わってもいいと思っているが。
火曜の夜に、坂岡真『うぽっぽ同心十手裁き 蓑虫(みのむし)』(2009年 徳間文庫)を面白く読んだ。これは前に読んだ『うぽっぽ同心十手綴り』のシリーズの続編のようなもので(巻末の広告によるとこのシリーズは全7巻で終わりだが、「綴り」ではなく「裁き」として書き続けられようとしているものだろう)、前シリーズは第三作目の『女殺し坂』しか読んでいないが、中心となる登場人物は同じで、「暢気な顔で飄々と町中を歩きまわる風情から」(10ページ)「うぽっぽ」と綽名されている五十六歳の南町奉行所臨時廻り同心である長尾勘兵衛の思いやり溢れる人情に満ちた姿とその活躍を描いたものである。名奉行といわれた根岸肥前守(時代小説ではおなじみの名奉行)も長尾勘兵衛の深い理解者として登場する。
ただ、物語の時は流れて、勘兵衛のひとり娘「綾乃」は、彼女に思いを寄せていた若い同心の末吉鯉四郎と結婚し、お腹に子どもができており、行くへ不明になっていた妻の「靜」が記憶のないままで帰ってきている。また、長尾勘兵衛が思いを寄せていた料理屋の女将「おふう」は死んでいる。勘兵衛の深い理解者であり、そっと慰めるような女性であった「おふう」の死は「悲劇」とあるので、何か大きな事件があったのだろう。このあたりの顛末は、シリーズの4作目以降で展開されていると思う。
本書は、ひどい強盗団に両親をはじめ一家皆殺しにあい、唯一生き残った女が、料理屋を営みながら家族を殺した強盗団を探し出し、その仇を討っていく第一話「降りみ、降らずみ」と、将軍献上の高価な熊の肝(「れんげ肝」と呼ばれる)を横流しして巨利を貪り、藩内の争いに乗じて藩の重臣となった秋田藩の重臣の悪を暴いていく第二話「れんげ肝」、そして、奉行所与力も荷担した抜け荷(密貿易)で巨利を得ていた商人を執念で暴き出していく第三話「蓑虫」から成っている。
いずれも、人の悲哀から物語が展開され、第一話では家族を殺された女性、第二話では、地方から出てきた百姓のために労していた公事宿の主殺人と、よこしまな計略の中で浪人となって真相を探ろうとしている侍とその家族、第三話では、抜け荷事件を探っていた長尾勘兵衛の親しい同僚であった同心が、発覚を恐れた上からの圧力と悪徳商人の手によって娘を手籠めにされ、失意のうちに、じっと籠もっている姿から「蓑虫」と呼ばれるようになり、癌を患っていたが、娘を犯した犯人とおぼしき者の死体が見つかったことから、最後の力を振り絞って、それと対峙していく姿、そういう姿が丹念に描き出されている。それらがよく考えられて丁寧に構成されている。
物語の展開の仕方が決して雑ではなく、行き場のない者をなんとかして助けようとするし、やむを得ない悲しみにはじっと耐え、それに寄り添い、欲の絡んだ悪には立ち向かおうとするといったひとつひとつのことに関わる主人公の長尾勘兵衛の切なる思いが伝わってくるので、同心物や捕物帖物の枠を越えて味のあるものになっている。思いやりと慈愛の響きあい、それがこの作品の中で描き出されている。奉行所の管轄外の事件を取り扱う際に、根岸肥前守を「薊(あざみ)のご隠居」として登場させるのもいいし、主人公の慈愛と響かせるようにして彼の名裁きが記されているのもいい。
このところ年末年始という雰囲気もあって、あまり仕事をする気もなくなっているのだが、そうも言っておられないところもあって、年が明けるまでには少し片づけておこうと思っている。パソコンのフォルダも新年用に新しく作り直さなければ、新年早々の仕事もできないだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿