朝から雲が広がっているが、新緑が美しい。「天皇誕生日」から「みどりの日」に変わり、そして今「昭和の日」と呼ばれる休日で、連休で出かけられた方も多いのか、人通りは少ない。だが、今夜あたりは車の渋滞があるかもしれない。ここは、東名高速道路青葉インターのすぐ近くだから。この連休はずっと仕事が続く。
さて、隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(2010年 新潮社)の続きであるが、慶長19年(1614年)の大阪夏の陣の後、不安にかられた大阪方は、二の丸と三の丸を修復し、新しく牢人たちを集め始めるのである。言い換えればそれは、和平後に戦の準備を始めたということで、もちろん、家康も粛々と準備を行っていたのだが、大阪で集められた牢人たちの乱暴・狼藉、果ては京や伏見の放火の疑いが起こってきたのである。大阪城に寄せ集めた牢人を統率する力もなく、そうした噂がばらまかれる下地を作ってしまったのである。駆け引きと暗躍、それがこの年に行われたことであった。
翌、慶長20年(1615年)、京都所司代の板倉勝重からこの報告を聞いた徳川方は、牢人の解雇と秀頼の移封を要求し、家康は九男の徳川義直(尾張藩初代藩主)の婚儀を名目に名古屋へ向かい、続いて京の伏見、二条城へと向かったのである。大阪方は徳川方から出された秀頼移封を拒否し、かくして夏の陣の火蓋が切って落とされたのである。松平忠輝も、このとき戦陣に加わるように命を受け、越後高田を出立する。忠輝の参戦は、大阪城内に多数立て籠もっていたキリシタン武士たちへの対策としてキリシタンに深い理解をもっていた忠輝を当てようとする徳川方の策だったとも言われている。本書は、これが忠輝とキリシタンに対する底意地の悪い邪悪な徳川秀忠の策だったという。
そして、大阪へ向かう忠輝の軍勢に監視のために多数の目付を送るだけでなく、柳生宗矩を使っての途中での暗殺計画と忠輝失脚のための罠を仕掛けたと展開する。
戦を嫌う忠輝は、大阪城内のキリシタン牢人たちのことも理解していたし、それだけではなく、かつて少年の頃に家康の名代として豊臣秀頼に会い、自分は何があっても決して秀頼を攻撃する側にはたたないという約束を守るために怠戦の決意をしていく。だが、そのことが忠輝にとって後に仇となっていくし、忠輝もそのことを重々承知の上であるが、秀頼との約束を優先させていくのである。忠輝は、一度した約束は最後まで果たしていく人間なのである。
一軍を率いて大阪に向かう途中で、ひとつの事件が起こる。この事件が後に忠輝改易の理由にされたのだが、徳川秀忠直属の旗本二名が、十四、五人の若党を連れて、なんの挨拶もなく忠輝の越後福嶋勢の先陣に割り込み、これを追い抜いていこうとしたのである。先陣への割り込みは、これを斬り捨てても良いことになっていたが、粗暴で無礼な振る舞いをしながら彼らは割り込んだのである。
そして、忠輝の先陣を務めていた武士がこれを引き留め、問い糾したが、自分たちは将軍秀忠の直属であると無礼を働いたために、先陣を務めていた武士が二人を槍で刺し殺した。これは先陣を務める者の当然の処置であった。忠輝は、これが秀忠の謀略であることを知っていたが、それを無視し、自分は少年の頃に秀頼と約束し、それを守るために戦はしないと筆頭家老の花井主水正(義雄・・かつての家老で忠輝を支え、大久保長安事件が忠輝に及ばないように自害した花井吉成の息子)に語るのである。少年の頃の約束をどこまでも守り続ける男がひとりぐらいいてもいい、と言う。花井主水正は驚くが、忠輝の意をくんで、影武者を作り、不戦が秀忠にばれないように図っていく。
大阪夏の陣は、豊臣方が大和郡山城を落城させ、堺の町を焼き討ちすることで戦端が開かれた。そして、樫井(泉佐野市)で遭遇戦が行われ、総力戦となり、大阪方は塙団右衛門直之、後藤又兵衛なども戦死し、真田幸村も命を落として敗戦する。真田幸村が徳川家康の間近に迫り、家康がかろうじてその手を逃れた話はよく知られており、家康は幸村の剛勇と戦略に震え上がったとまで言われている。だが、その真田幸村も力尽き、ついに大阪城は落城する。
本書は、ここで不戦を決め込んだ松平忠輝が傀儡子(くぐつ)と共に戦の成り行きを見守り、いよいよ大阪城落城の寸前に大阪城に忍び込んで、秀頼と会い、最後の宴を催して別れを告げ、秀頼の頼みを聞いて、淀と秀頼の死骸がのこらないように爆裂団を仕掛けたと語る。もちろん、それは作者のどこまでも明るく颯爽と、しかも約束を守る人間としての忠輝を描き出す創作だろうが、実際に、焼け落ちた大阪城から淀と秀頼の遺体は見つかっていない。また、このとき、家康の娘で秀頼の妻となっていた千姫が助け出されるが、それを行ったのが忠輝だったと語る。
千姫は木村権右衛門と堀内氏久の手で焼け落ちる大阪城内から助け出され、津和野藩主であった坂崎直盛の手に渡されて救出されている。これには講談本などで後日談があるが信憑性はあまりない。
ともあれ、本書は、忠輝が冬の陣の闘いの際に不戦を決め込んで不在であったことが、秀忠が放った戦目付によって発覚しそうになるが、これ忠輝はを上手くしのいでいった手法を展開する。そして、家康は忠輝を大阪城の城主とすることを秀忠に告げようとするが、秀忠が猛反対し、家康がその考えを放棄したこととして展開し、秀忠が人望篤い忠輝排斥のためにますますあらゆる策を講じていったと語る。秀忠の忠輝に対する感情は嫉妬である。
それに加えて、戦後に家康が一族を引き連れての大阪の陣に対する朝廷への参内の際に、忠輝が参加せずに、病と称して嵯峨野あたりの川で遊んでいたということがあり、それに家康も腹を立てたことがあり、秀忠は忠輝に対して厳罰をもって処する決意を固めていくのである。本書では、慶長20年(1615年)に出された「禁中並公家諸法度」に対して、天皇を頂点にして「自由の民」であった傀儡子(くぐつ)と共に生きてきた忠輝が反対しての行動だったとする。
いずれにしても秀忠が忠輝を排斥しようとする思いはますます強くなり、忠輝が大阪冬の陣に高田藩士を連れて向かう際に、自分の旗本が無礼打ちで殺された事件を題材にして、忠輝が詫びなかったことの責任を追求しようとするのである。もちろん、それは秀忠特有の言いがかりである。だが、秀忠は将軍であり、その意は絶対的である。
家康は、なんとしても忠輝を守りたかったので、彼を勘当して謹慎の身とし、高田藩を存続させ、加えて秀忠のこれ以上の追求がないように計らうのである。忠輝は高田を出て、武蔵の深谷で謹慎する。謹慎といっても、彼は自由の身であり、忠輝はこの家康の処遇を喜んで受けたのである。秀忠はこの家康の処遇に腹を立てたと言われている。彼はなんとしても忠輝を亡き者にしたかった。
大阪の陣によって豊臣が滅び、将軍徳川秀忠にとって、もはや家康の力は無用のものとなったばかりか、大御所として力をもつ父の家康が目の上の瘤である。本書は、秀忠が柳生宗矩の手で、深谷で謹慎している忠輝を巻き込んで家康暗殺を行おうとしてことを告げる。子が父を殺すことは下克上の方法でもあり、あり得ることである。だが、この家康暗殺計画は、忠輝の機転と力で見事に阻止されていく。
しかし、家康の死期が近まる。家康は鷹狩りの際に鯛の天ぷらを食べ、それがもとで発病してしまう。忠輝の生母であるお茶阿の方は、病床の家康と面会し、そこで、忠輝の勘当は十年の間ゆるさないが、「野風の笛」を忠輝に与えるのである。「野風の笛」は、織田信長から豊臣秀吉、そして家康と伝えられたもので、これを忠輝に渡したところに家康の思いがあり、また、10年間の勘当を解かないというのは、10年間は秀忠が忠輝に対して手を出せないということでもあった。こうして、家康は、大阪の陣の集結によって慶長から元和と号が改められた元和2年(1616年)に没する。また、家康に続いて徳川幕府を支えてきた本多正信も病死する。
それによって家康の影から完全に脱することができた秀忠は、再び忠輝への攻撃を開始し、まず、忠輝の家老であった花井主水正に非行の罪を着せて切腹させ、高田藩を改易し、忠輝を志摩鳥羽城主の九鬼長門守守隆預けにしたのである。配流である。
しかし、忠輝はこれに従うばかりか、すべての重荷を取り払われて、再び自由闊達となり、伊勢の朝熊でのびのびと生きていくのである。伊勢はキリシタン大名であった蒲生氏郷の旧領で、キリシタンも多かったし、傀儡子(くぐつ)たちは影ながら忠輝を守っていた。忠輝は、家康が言い残したように秀忠が自分を生涯恐れ続けることを知りつつ、自由でのびのびと生きていくのである。「野風の笛の音がきこえるような気がした」(349ページ)は、この長編小説の完結の言葉である。
徳川幕府の初期から大阪の陣を経て行く中で激動した社会の様々なことを盛り込みながら、ひとりの「自由人」の姿を描いたスケールの大きな作品だと改めて思う。
巻末の縄田一男の「解題」によれば、これは1987年に新聞紙上に掲載された作品で、「隆慶一郎にとって完結を見た最後の作品」である。激動していく時代と状況の中で、受け入れられないままではあるが自分の歩みを爽やかに颯爽とし続ける人物を描き出し、まことに「面白くて読み応えのあるスケールの大きな作品」だった。作者の思想が明確なのが何よりいい。「常に死を覚悟して生きる姿」を『死ぬことと見つけたり』で記しているが、本書の松平忠輝の颯爽とした爽やかな姿にもその覚悟があって、やはり、これが人間を造る大きな要素だと改めて思ったりした。